第2話 南向き、日当たり良好な世界
南向き、日当たり良好な世界
「ミナ!」チッチが出したパスを受け、ディフェンスをかわして両手でレイアップシュートを決めた。試合終了――梅ノ山中学校との練習試合は、52対33でわたしたちが勝った。わたしはこの試合、32点を挙げる活躍をした。
試合の帰り、梅ノ山駅の時計を見ると四時五十分になっていた。ジャージを着ている女子バスケットボール部の皆とわいわいがやがや、プラットホームで列車が来るのを待っていた。一年生のかどちょんがわたしに話しかけた。
「三奈先輩、かっこよかったですー。ばんばんシュート入ってましたね!」
身長150センチないくらいのかどちょんは、わたしと10センチくらいの差がある。髪をほどいた頭でわたしの肩にすり寄って来た。
「ありがとう。かどちょんも後半、点決めてたじゃん」
「もう三奈先輩のレイアップ素敵過ぎます。ふわーって両手をあげて……あっ、そう!何かと思ったら天使みたいなんですよ。天使のレイアップですね。やーん!」と言うとかどちょんはわたしに抱きついてきた。わたしは腕を伸ばして引きはがした。
「汗臭いからやめろ」
かどちょんは真面目な顔をしてじっと黙っていたけれど数秒のことで、また、やーんと言ってわたしに抱きついてきた。わたしはかどちょんの体重のかかった身体を数歩離し、支えを外してやった。かどちょんはバランスを崩し――。
「何するんですかー!」
「かどちょんに抱かれても何の得にもならん」わたしが言うと、かどちょんはにやにや笑いながら、意地悪そうな目を作り――。
「あー、じゃあ誰ならいいんですか。先輩のお得になる人は誰なんですか」
電車がホームに到着したので、わたしはさっさと車輛に乗り込んだ。
「そういうかどちょんは好きな人が居るんじゃないの」
「いやですねー、わたしの好きな人は三奈先輩ですよー」
チッチとかどちょんが話をしているのを尻目にわたしはドアの窓から外を見ていた。南の方角に行く列車で、ちょうど窓からは西の空が見えていた。高架の線路の遠くに、住宅街のビルが広がり、車内の床はオレンジ色の陽を返していた。高架線と電信柱が走るように過ぎゆく。
「明日の修了式面倒くさいですねー」
「四月からはあんたの後輩も入ってくるじゃん。部活動紹介のことも決めないとねー」
今日は三月後半の日曜日で、明日はもう修了式だった。明日で二学年が終わり通信簿をもらう。四月からは三年生だ。受験のことなんて、まだなにも考えていなかった。
列車は光の灯されたホームに着き、反対側の扉が開いた。出る客も、乗る客も居なかった。やがて列車はまた動き出し、わたしは少しほっとした。
「春休みですよー、千紗先輩は誰とも付き合わないんですかー」
「そういうあんたは本当に、誰とも付き合ってないの」
「付き合ってないですよー」
わたしは心の中でくすりとした。かどちょんがこのあいだ相談しに来たのだ。わたしと同じクラスの、バスケ部の男の子が好きだと。春休み中、上手くデートをする予定を立てた。絶対秘密ですからね!――と、かどちょんに言われた。うちの部活は先輩後輩仲もいいし、かどちょんは好かれていたけれど、面倒なことが起こる可能性はある。かどちょんは可愛い――実際わたしのクラスにも、SNSではぶかれ、不登校になった子がいる。わたしはあまり興味も無く、詳しいことは知らないけれど、恋愛がらみの先輩後輩のいざこざが発端みたいだった。わたしは――こう言うのはなんだけれど、正直なにもかも馬鹿みたいだなと思っていた。かわいい、妬み、恋愛、インターネット、不登校――どうしてそう面白くもない、しかも面倒なことをするのだろう。それほど暇なんだろうか、それほど――人間関係に「真剣」なのだろうか。
「おいっ、三奈」
わたしはハッと窓の景色を外して、笑っているかどちょんの、隣に居るチッチを見た。
「ごめん、何だったっけ?」
「明日、三奈も来ない?カラオケ行こうって話してる」
わたしは少し迷ったが――。
「わるいけど、わたしはいいや」
「おっと、デートですか。わたしも行くんですよ」かどちょんがふざけて言った。
「うーん、多分家族と出かけることになると思う」
実は、多分家族と出かけることにはならない。しかし、カラオケに行くよりは他にやりたいことがあった。本当は今日のバスケットボールの試合も置いておきたいぐらいだった。さすがに無しには出来なかったが。
車窓の外では高架線の空に、日もビルの谷間に消えかけ、夕闇が様々な薄紫色で街にとばりを下ろそうとしていた。わたしたちは駅に着き、そこで解散になった。駅は大きなターミナル駅で、電車は地下に乗り入れていた。
チッチと帰る方角が同じだったので、一緒に駅の構内を歩いていた。わたしはすたすたとチッチを先導し、何度も角を曲がり、地下から幾つもの階段を上っていた。
「三奈は朝一人で来た?」
「うん」
チッチは少し目をまるくしてわたしの顔を見た。
「あんたよく迷わなかったね。わたしたちは大変だったよ。駅員さんに二回ぐらい聞いた」
「昔から道に迷わない」
「ほんとに?わたしも他の女の子――かどちょんなんかと比べれば結構自信あるほうだけれど、柿谷駅は無理だわ。工事前なら簡単だったみたいだけど」
「家から東に駅に入ったから、出るのはとにかく上って、西の方に行けばいいだけじゃない」
わたしはB9という出口から、デパートのなかに入った。ここはデパートに繋がるのか覚えておこうと思うと、わたしは変な感じがして、隣を歩くチッチを見た。チッチは性格に合わないきょとんとした顔をしていた。
「えっ、三奈そうやって歩いてるの?」
「なにが」
「西の方に歩くって、方角で判断してるの?どっちが南だとか西だとか分かるの?」
わたしは、ああ――と思って立ちどまった。そして前を指差して教えた。
「こっちが南、家に帰るには西の方に行けばいいけれど、少し南に行って西だから。大体そんな感じで歩けば大丈夫。早くデパートから出たいけど、多分こっちの方にも出口はあるでしょ」
チッチは信じられないという顔をしていたが、程なく出口は見つかり、わたしたちは外に出た。夜の空気を肌に感じ、明るいデパートよりも、もっと遠慮なく眩しい繁華街のなかを歩いていった。そして少し裏に廻ると、ちゃんといつもの見慣れた通りに出た。
チッチと別れて、家に帰った。門を越えて車の脇を通り、赤いドアを開けた。わたしは引っ越したときからいまだ慣れず、この赤いドアがあまり好きではなかった。お母さんは気に入っているようだったが。家に入って玄関に靴を並べると、とりあえずバッグや荷物をそこに置いて、自分の部屋に戻る前にキッチンに行った。お母さんは鍋を電磁調理器に掛けていた。
「ただいまー」
「あら、おかえり」
わたしは冷蔵庫から牛乳を取り出し、白い愛用のウサギのコップに容れて飲んだ。驚いた――いつもと違って、あっさりとしていて、しかも美味しい。パックを見た。ノンホモジナイズ……?
「試合どうだった?」お母さんは手を止めて聞いた。
「えっ――うん、勝ったよ。楽勝だった。55対30かな」
「良かったじゃない」
お母さんはわたしの部活動に関心が無いわけではないのだが、いかんせんスポーツには興味がないし、家族のボーリングではガター連発、運動音痴だった。よく言われたものだ。なーんで三奈ちゃんはわたしから生まれたのに、そんなに運動得意なのかしら、よその子だったりして。家族の定番の冗談みたいなものだった。しかし今日のお母さんの言い方には、何か引っかかるものがあった。わたしは話を続けてみた。
「この牛乳、美味しくない?どこで買ったの?」
「あら、そう?いつものスーパーだけれど、ちょっと変わったのを買ったのよ。低温殺菌牛乳って言うんだって」
やはり――少しおかしい。料理中と言うことを差し引いても、いつもより口数が少ない。何と言うか最低限度に努めて話している。わたしは飲み終えたコップをダイニングのテーブルに置いた。お父さんは自分の席でテレビを見ていたが、わたしが来ると顔を上げた。
「どうだ、今日はシュート沢山決めたのかよ?」
「分かんない――多分二十本くらいかな」
「……春休み中は部活結構あるのか?」
「まあまあかなー。半日が多いと思うけど」
お父さんはランニングもするし、野球やサッカーは割と熱心に見るけど、いかんせんバスケットは人並みだ。つまり、学校の体育でやったくらいだ。でもこれで、わたしはああ――と諒解した。玄関に行き、荷物を持って二階の階段を上がった。自分の部屋に戻り、机の上の携帯を取って、汗の乾いたTシャツ姿でベッドの上にダイブした。多分、間違いなく、夫婦喧嘩だ。もう――まったく面倒なことをするなあと思った。わたしは携帯を見て、ざっと眺めて全て既読にし、兄にメッセージを送った。
「ただいま夫婦喧嘩中、触らぬ神に祟りなし。明日泊まりたいんだけど?」
ふいにドアがノックされお母さんがドアを開けた。
「ご飯出来たけれど、先にお風呂入っちゃう?」
いつもはお父さんが階下から大きな声でわたしを呼ぶ。やれやれまったく。
「ううん、出来たなら先に食べる」
下で口数少なくご飯を食べ終えると、さっさと食器を洗ってすぐ上に戻った。うちの夫婦喧嘩はあまりバチバチならないし、お母さんもお父さんもわたしの前ではいつも通りに接しようと努力してくれるのだが――まあかなり努力してくれていると伝わるのだ。そして、冷戦状態は一週間とか二週間とか長く緩やかに続くこともある。それでもかなり幸せな方なのだろう。わたしにはそれほど悲しみが及ばないし、喧嘩中に手があがったりすることもない。しかし、いつもと違うというのはそれだけで面倒なのだ。わたしは急いでお風呂を済ませ、兄から借りた漫画の続きを早く読もうとした。でも、シャツを脱ごうとしたら携帯が光っているのが目に留まった。兄からメッセージが届いている。読んでみると――。
「別にいいけど、明後日は、学校は無いのか?」
あったら泊まれるかアホ兄と思ったが、ここは下手に出ねばなるまい。
「明日で学校終わり、終業式、給食無い、部活も無い、委員会も無い、何にも無い。2時ごろ行っていい?」返信はすぐ来た。
「『修了式。』な。了解~」
わたしはナミ棒線があまり好きではない。了解という言葉遣いも違和感を感じている。そして、わざわざ二重カギまで使って訂正ありがとよ。普通のカギカッコでいいじゃん。わたしは携帯をベッドの上に放ると、下着姿になって、風呂場に向かった。そして二十分かそこらで風呂からあがり、旨い牛乳を飲んで、ベッドで漫画を読みふけった。
――――――――――――――――――――
次の日の朝、七時くらいにお母さんが起こしに来たが、いつものようにうとうとと……枕もと……ベッドの東側に漫画が二冊……西に一冊……カバーが取れている……昨日そのまま寝ちゃったんだ……と意識を失った。「三奈ー遅れるわよ!」とまたお母さんが起こしに来てくれたのは七時半だった。
寒く縮こまった身体をテーブルに着かせた。父はもう仕事に行ったらしい。林檎ジュースを飲んで、食パンをかじった。口にはほとんど唾液も出ず、消化管は目下休止、整備状態だ。キープ・アウトを無理に押して、とりあえずパンを胃に通した。皿の上の食パンを何とか消滅させ、ぼんやりと洗面所に行き、歯を磨いた。顔を洗い、霧吹きを頭に吹きつけ、髪をとかした。ショートヘアーをぼんやりと櫛で梳っていると、また一歩一歩と、ブラシがわたしを眠りの世界に引き寄せようとするみたいだった。
朝礼十分前には西向きの校門に着き、朝日を眩しく浴びるなかで、わたしが歩いているのか、足がわたしを歩かせているのか分からない感じで昇降口に進んだ。教室に鞄を置き、体育館で校長先生の話を聞いていた。段々目も覚めてきたが、覚めた頭に入る映像は、制服を着たクラスメイトの列と、見慣れたフロアと、コートのラインと、体育館の北に並ぶぱっとしない先生方で――目が覚めたことを喜ぶには少し平凡すぎる光景だった。朝礼の間、わたしは結構先生の話をしっかり聞いているのだが、まるで最初から最後まで永遠とX軸に平行に続く、折れ線グラフの資料を見ているようだった。
そのあとは教室において、今度は通知表を渡す式典が続いた。わたしは窓際の後ろの方の席だったので、他の人が名前を呼ばれている間、窓の外を眺めていた。空は灰色の建物の上で青く晴れわたり、高いところに薄く紡いだ絹雲と一緒に、人の気持を広く好き勝手に運ばせるようだった。わたしはこれから行く兄のマンションを考えた。そして前にある深緑の黒板を見たときにふと、小学校も中学校も、今まで窓は南に、黒板は必ず西に設置されていたのに気が付いた。採光の面でどこの学校もそうしているのかもしれないな――。
やがてわたしの名前も呼ばれ、微かに心の折れ線グラフが上がり、通知表を覗いてみた。国語が5。数学、理科、社会も5だ。理科は前より一つ上がった。英語は――3だ。音楽、美術も変わらず3。技術家庭科は4――家庭科は好きだが、技術は嫌いだ。機械が嫌いだし、色々細かい。体育は変わらなかった――4だ。
前より一つ上がったのだし、自分からも人からも、とりあえず褒められるポイントは作れた。遅刻・欠席にも、ちゃんとゼロが並んでいる。先生の所見欄もふうん――と興味深かったけれど、家に帰ったらもう何が書いてあったかも忘れるだろう。
清掃を終え、午前の校舎に残る特有の気配を感じながら廊下を歩いた。ひんやりとした昇降口の、石の床に靴下の足を着けながら三学期が終わったことを実感した。下駄箱から運動靴を取り出し――静かに一人で帰ろうとするわたしに、一人の男子が歩いてきた。
「よう、サンナ――」
わたしは男子からはよくサンナと呼ばれていた。
「帰ンの?」
「帰るよ」
「あ――通知表どうだった」
「大抵いいよ」
「ほとんど5?」
「五教科はね。英語は3だけどね」
「そうか、おれは……」
わたしは靴も履き終わり、この昇降口ではもうやることも残されていないのを突っ立って、この男の子の話を聞いていた。男の子は、多分それほど伝えたい項目も無い通知表のことについて、強いて話し続けた。男の子は自分の靴箱の扉を開けたのにも関わらず、靴も出さないでいた。わたしは鞄を背負って、キルトの紐の袋をぶら下げて立っていた。学校の昇降口にて、自分の立ち方について改めて言及するような、不自然な、意識的な、あまり落ちつかない気持だった。
「サンナが体育4は意外だなー」
「筆記良くないからね。授業態度も特別良くないし」
「そうかー……」
「……じゃあ、また一学期にね」
多分――お互いに――何か物足りないものを感じていたけれど、わたしは一人で昇降口を出て、水をよく吸う乾いた煉瓦の道を歩き始めた。
さっき話していた男の子は同じクラスの男子だった。勉強――特に理科と数学が良くできる。バレーボール部、背は普通、運動も普通に出来る。ちょっとその子が面白そうなのは――休み時間とか放課後に、よく本を読んでいた。友達とも普通に遊んでいそうだったけれど、微かに一人でいるのが好きそうな匂いがしていた。わたしは一年間、チラチラと何を読んでいるのか気にしていたけれど、結構ぐっと来るものを読んでいたり、わたしが知らないタイトルも多かった。二年の一学期の最初の頃だ。国語の時間に、配られて間もない教科書をその子は読んでいた。何でか今では覚えていないけれど、隣の男の子をふと見たとき――そのときは今より小さかった――その子はろくにノートも取らず国語の教科書を読み耽っていた。そしてすぐに気が付いたのは、今授業でやっているところでは無く、まったく無関係な文章のところを開いていることだった。席替えをするまで、ずっと、肘をつきながら変わらず読んでいた。一週間も経つと、もう教科書の端から端まで読み終えたみたいで、適当なところを選んで再読しているようだった。
なんの気無しに校門を過ぎ、わたしは公園の脇の道を北の方に歩いていた。ロープを張った柵の後ろには芝生が広がり、樹と建物、遠くのビルが覗き、その全てに青空がかかっていた。来年になればクラスが替わる。クラスには友達も居るし、特に嫌な奴が居るわけでも無いけれど、クラス替えをするのは好ましかった。何と言うか、僅かでも人間関係がリセットされる感じが良い。時間が経つにつれ、周りの人とは段々と面倒なことが増える気がしていた。それは特別何かがあるわけではなく、ただそう意識するか、しないかの問題だと思うけれど。わたしにとってはある程度まで、関係は希薄なほうが有難かった。そして何よりも、運動会やらのイベントでいつも感じるある感覚――良い、悪いという以前に、どこかに属する――「帰属する」ということに違和感を持っていた。むしろこっちのほうが、クラス替えを支持する理由の根っこなのかもしれない。
角で西に曲がり、公園から離れて家の並ぶ地区に入った。カーテンが開けられ、洗濯物を干している家が目に留まる。コンクリートの建物も、その壁や玄関が、気持良く日を浴びている正午だった。わたしは下駄箱で別れた男の子のことを考えていた。一年間、ほとんど話らしい話はしなかった。少しだけ聞いてみたかった――家では、休みの日は何をしているの。本とか漫画とか好きそうだね。まえ読んでいたの面白そうだね、良かったら貸してよ――ちょっと変わっていて、雰囲気がどことなく興味深かった。一度どこかで、じっくり話してみたら面白いかもと思っていた。でも多分クラス替えをしたら――接点は無くなる。来年は別々のクラスになるような気がしていた。ちょっと言ってみるだけなのに――いつも面白そうなもの読んで気になってたんだ。話がしたいって、思っているだけなんだけれど――でもそう言ったら、そのあとどうなるかと考えると億劫だった。いっそ付き合えば分かりやすいのかもしれない。見た目も嫌いじゃないし、断られればそれはそれで明快だ。それも面白い気もする。でも現実には、自分が好きなのかも分からないし、付き合うというのも良く分からないと考える。「男の子と付き合う」というのは、家の間取り図を見るような、わたしにとって宙ぶらりんで無感覚なものだった。相手の気持も分からないし、そんなことを言えば自分が本当にどうしたいのかも――指に絡む糸のような、空の高いところにあるすじ雲のような――ものになっている。男友達は――男友達?その考えも、また空に一本、すっと刷毛で引いた雲が増えるだけだ。物語やゲームであれば良いのになと、ちらりと思う。迷わず面白そうな方の道を選んで、困難や面倒を楽しめばいい。人生を客観視すれば、そうするのに越したことはない。辛いことや面倒なことがあってもそれが面白いのであって、ただ一本の直線が続く、平凡至極なものなんて誰が好むだろう。それは失敗するよりさらに悪いと分かる。自分の人生なのにそれで良いのだろうか。それだったら――。
でもそうやって、どんなに「わたし」を頭で俯瞰しようとしてみても、心に鳥を作って上から眺めようとしてみても――緊張や怠惰さや実害が、わたしを日常から放させなかった。結局は空想で、現実には――結局、わたしはそんなことを言って、わたしの人生を一ミリたりとも離れることが出来ないのだ。それはとても簡単なように思えるけれど。
家に着き、リビングに行った。お母さんは一人テーブルに座り、テレビを見ていた。お馴染みの司会者の、ゲストを呼んだトーク番組だった。風が静かに流れ、テレビの音がやけに遠くに聞こえるような午後だった。――ただいま――おかえり――と言うと、白いうさぎのカップから牛乳を飲んで、二階の自分の部屋に行き荷物を置いた。部屋の南に転がっているリュックサックを引っ張っていき、クローゼットから下着を取り出した。そしてパジャマと明日の着替えを選んだ。水色の麻のシャツとブラウンのジャケットが目に留まった。冬のあいだ着ていなかったが、明日も暖かいだろう。久しぶりに着てみたかった。少しかさ張るジャケットを一番上に詰め、ふと気紛れに、目についた白いTシャツも入れた。最後に机の引き出しから、チョコレートを取り出した。漫画を詰めた紙袋もリュックの隣に置いた。そうしてきちんと整った二つの物体を満足して眺めた。
一階のダイニングに行き、お昼を食べた。ソース焼きそばだった。ソース焼きそばは――いつ食べても、何を食べてもどこか変わらない味がする。美味しいのか美味しくないのかも問題にされないような。食べながらお母さんと通知表の話や、春休みの部活のこと、来年度のこととかを話した。その会話もソース焼きそばの味のように、ぼんやりと平板だった。わたしはマグカップから牛乳をがぶがぶ飲み、今日、兄のところに泊まると言った。――そう、気をつけてねとお母さんは言った。わたしはいつもの食器洗いが面倒で、忘れたふりをした。冷蔵庫にあったプリンを食べて二階に上がると、ちょっと点検するようにいつもの自分の部屋を見渡し、リュックを背負って紙袋を提げた。そしてそのまま兄の居るマンションに向けて出かけようとすると、お母さんがわざわざ玄関まで出て来た。
「三奈、ちょっと」
「?」
「ご飯代と電車賃あげるわ――その、通知表も上がったからね」
お母さんは三千円を持った手を差しだした。わたしは驚いた。兄の家には月に一度とか二度とか、よく行っていてその都度電車賃なんて貰わない。それに三千円は高すぎる。
「えっ、いいよ。お小遣い使う」わたしは毎月お小遣いを支給されている。
「いいから。……たまにはいいでしょ。お兄ちゃんと何か美味しいもの食べて」
お母さんは手を出したままだったので、わたしは何だか悪い気がしたけれど受け取った。確かに電車賃が浮くだけでも、わたしには大きい。
「千円返そうか?」悪いなと言う気持と、やっぱり否定できない、うきうきする気持もあった。
「いいわよ」お母さんは笑って言った。
「じゃあ……ありがとう」
「明日には帰るんでしょう」お母さんは穏やかな声で言った。
「うん、帰る」
「気をつけてね」
「はーい」わたしは靴を履いて玄関の敷居を跨いだ。
家の前の道を西に曲がり、道にあるものをあれこれ楽しく見ながら、二十分ほど歩いて駅に着いた。貰ったお金を券売機に入れると、じゃらじゃらとお釣りが出て、切符がにょきっと出てきた。お釣りを財布に詰め、切符を手に取り、指で挟んで自動改札機に入れた。改札を抜けながら、取り逃さないよう出てきた切符を摘まむと、視線を上げた。13:26――13:33 13:18 二番線の列車は、先発が二十六分に出るらしい。今は十八分、八分後だ。わたしはエスカレーターの脇の階段を、ゆっくりとスニーカーで上って行った。
窓を開けて涼しい風を吸うように、階段を上り切って外に出た。健やかな空の光は向かいの乗り場まで一面に注ぎ、鉄の線路は輝き、屋根の下の灰白色のプラットホームは蒼く影差していた。前の列車が出たばかりなこともあるだろう、周りに人は居なかった。ここに立って電車が来るのを待ちながら、ふと、あちらの向かいのホームの屋根の下、こちらの、ずっと向こうのプラットホームの端から端――全部を一度に眺めているような錯覚を覚えた。線路の端から端まで、全部自分の中にあるような行き届いた気持だった。遠くに行きたいなと思った。遠くに行きたい。試しに兄の居る八駅先の駅を越えて、一度終点まで乗ってみようか――。今だけは――もし乗った列車が向きを間違えて、反対の方角に行ってしまっても、騒ぐ乗員のなかで静かにわたしは歓迎するだろう。予期しない遠くに。
わたしは列車を待つ間、紙袋からもう読み終えている漫画を取り出した。それは今のわたしの欲求の、代替手段のようなものだった。
列車は幾度か曲がりながらも東から西に行き先を延ばし、二十分かそこらで兄の住む街の駅に着いた。わたしは先頭車両に乗っていて、高架のホームは先端が大きな河川に突き出ていた。車輛が停車する直前に、窓の外ではきらきら光るゆっくりと蛇行する水の流れが映り、草原――と呼ぶには心もとない原っぱが眼下に見えた。電車を降りて、プラットホームを端から端まで歩きながら、河原で遊ぶ人達や、声を上げている子供や犬を遠くに見ると、どの歌とも知れない歌が、頭のなかで流れた。その歌には無意識の底で、オルガンの調べが鳴っていた。
大型ショッピングモールの麓に立って、気分が良いので兄のマンションに行くのと反対に曲がった。普通に歩いたら、十分くらいで兄のマンションに着いてしまう。線路の下を通り、早々と商業施設を抜けて、丘のそこここの住居の間をのんびり散歩した。道と共にくねる水路とも細い川ともつかない縁を歩きながら、日を背にして伸びる、永遠に先を歩く自分の影を見ていた。滑り止めの円を穿っている車道を緩やかに上り、民家を下にしながら、ふと脇に現れた、切り立った階段を上った。
少し急な階段を登り切り、まるで今まで読み耽っていた本を閉じたかのように、階段の終わりで膝を上げて振り返った。そこからの眺めは、今わたしが歩いてきた道を横にして、家々を挟み、その先にはコンクリートの高架の線路が東西に延びる――その向こうにはビルとマンション、果てには他県の山の稜線が空にぼんやりと浮かぶ。ひとしきり見つめて、前を振り向いてさらにその先を歩いた。知らない場所――雑草がちょこちょこ生えた小さな川、鳥の音、石の杭、浮かぶ雲、階段の先に門が見える立派なお家、わたしはまた、なんとも分からない適当な歌のメロディーを口ずさんでいた。静かで、わたしに話しかけるものはその場の雰囲気だけだった。
坂を下り、ぐるりと大廻りして兄のマンションに着いたのは、針が午後の三時を過ぎた頃だった。監視カメラに見られながら、オートロックで608号室を呼び出した。――返事が無い。わたしは、独特の触感で、やけに軽く冷たく感じられる金属製の数字のボタンを押して、もう一度試した。部屋の中では鳴っているはずのコール音を探るのは――真っ暗な駐車場で、目標物も無い空間にボールを投げる感じを思わせた。風でガラスの戸がガタガタと揺れ、原付バイクが走り去る音が聞こえた。わたしは諦めて、リュックを探って携帯を出そうとした。携帯は衣類の奥深くに埋もれていた。メッセージを受信していた。
「まだ来ないのか?オレは用があるから出かけるぞ。鍵はポストに入っている」
わたしはそれを見て、ひんやりとした空気の、エントランスのなかで溜息を吐き、外に出てポストルームに廻った。ダイヤル式の鍵を回し、ICカードと部屋の鍵を取り出して、またエントランスに戻った。オートロックにICカードをかざすと扉が開いた。――やれやれ。
大理石の壁と床に、鍍金の装飾、棚に置いてある花瓶を右に曲がり、エレベーターのボタンに触れた。金属の矢印にタッチすればセンサーが感知するので、ボタンを押すと言うより、ボタンに触るといった感じなのだ。わたしは何故かまた、暗闇に向かってボールを投げている感覚を覚えた。
エレベーターの箱が下りてきたのが扉のガラス窓から分かり、ガラス窓から誰も乗っていないのを確かめ、乗り込んだ。6のボタンに触れて扉を閉めた。監視カメラが隅にあるのも含めてエレベーターは窮屈だった。ガラス窓から見える、初めは足から見えた5階で待っている男の人の顔が、ゆっくりとわたしの足元に落ちていった。
エレベーターは音も無く6階に到着し、わたしはエレベーターを出て右に曲がった。共用部廊下を歩いて扉を三つほど過ぎた。辺りは晴れているが、建物の北側特有の直接陽の当たらない、うっすらとした静けさだった。コンクリートの天井や壁の縁が、弱い回折光で薄明るくなっている。途中の非常階段への降り口もそのように白々としていて、灰色のペンキを塗られた鉄骨は、その丸みに空の明かりを返していた。
鍵を回すと白いペンキの鉄の扉を開けて、中に入った。靴が一足、きちんと揃っている。わたしはなるべく真っ直ぐになるようには脱いで、さっさと靴下のまま脇の洗面所に行って手を洗い、うがいを一回した。
1Kのひと続きの部屋の、奥のベランダの窓は開けっ放しになっていて、レースのカーテンが風を受けて膨らんでいた。電気が消されて、自然光だけの居間は、畳の上を通る風も見えそうなくらいきちんと片付いていた。わたしはフローリングの床から畳まで歩き、ふんだんに陽の注ぐベランダの洗濯物を見て、窓を閉じた。カーテンが止むと畳にお尻を着け、靴下を脱いだ。掛時計を見ると三時半になっていた。わたしはいそいそと、置いてある本棚から目当ての漫画を十冊ほどまとめて取り出し、押し入れから毛布と枕を引っ張りだし、自分は窓のそばの日溜まりに沈みこんで寝っころがった。やっと借りた続きが読める――日の光から隠れるようにして毛布に包まると、枕に頭を乗せて、深く深く楽しみにふけった。
――――――――――――――――――――
頭が詰まる感じがして、読みかけの漫画を置いた。日溜まりはわたしから遠ざかって、いつか消え、部屋はひっそりと沈みこんでいた。掛時計を見た――六時になろうとしている。暗くなった部屋で立ち上がり、ガラス越しに窓の外を眺めた。夕闇のなかで、西の立体交差の道路では車が延々走り続け、遠い走行音を出し、過ぎ去っている。住宅地の様々なビルは一様に――そう話し合って決めでもしたのか――しんとしていた。わたしは窓を開けてベランダに出て、シーツなど洗濯物を取り込んだ。
洗濯物を畳み終えると、冷蔵庫からプリンを取り出し――一個しか無かったが――カップにミルクを入れた。プリンはおそらくどこかのケーキ屋のもので、わたしは兄のそういうセンスにはひそかに敬意を抱いているのだが、とても美味しいものだった。濃厚、さらっとした味の切れ、卵の柔らかな匂い。食べ終えると、五分、十分を長く感じていた。しかし、いつか外の廊下に衣ずれと共に歩く音がして、ドアの前に人の立つ気配を感じ、扉が開いて兄が帰って来た。
「おかえりー」
わたしは帰って来た兄をちらりと見て、牛乳に視線を戻した。兄はそのまま洗面所に行って手を洗い、いつものように顔も洗っているようだった。上着を着、鞄を下げ、前髪を濡らしてタオルを持ったままこちらに来た。
「おなかが空いたから、プリン食べちゃった」
久しぶりに誰かと会うときの、少し窮屈な感じだった。兄はわたしの顔と、プリンの包み紙をちらりと眺めたけれど、特に何の感想も言わず、棚からカップを持ってきて牛乳を注いだ。
「飯は?」
兄は鞄も下ろさず言った。久々だけれど、わたしは分かっている。別に不機嫌と言うわけではないのだ。
「食べてないよ」
わたしは兄を見た。兄は黒のブルゾンのボタンを弄っていた。
「何も無いから食べに行くかと思ってたんだが、おなか空いてんの」
「いこう、いこう。おなかはプリンの次を待っているようです」
ずっと室内で文字を読んでいて、新鮮な夜の空気を吸いたかった。
「大学に居るとき――多分ミナに食べられると思ったよ」兄は財布の中身を確認していた。
「ほんとう?」わたしは笑いながら、リュックからブラウンのジャケットを引っ張り出した。
結局、兄の要望もあって、お寿司を買って家に帰って食べることにした。マンションを出て、住宅地の隙間を北東の方に歩いて行った。
「大学に行ってた?」歩きながらわたしは聞いた。
「ちょっと用があった」
兄はすたすたと歩き続けていた。兄がわたしに聞きたいことはこれといって無いようなので、寿司屋まで静かに歩いた。
「何食べるよ」
兄は木枠とガラスの戸をがらがらと引いた。わたしは入ってそれを閉めた。レールの上で戸車が滑り、ガラスが揺れた。店は狭いが凛として潔く、和菓子屋のような佇まいのなか、ふわりと甘い酢飯と海苔の匂いで満ちていた。持ち帰り用の押し寿司を売るお店で、カウンターの下のガラス越しに、バッテラや茶巾、海苔巻の見本が並んでいた。
「バッテラは外せん。あと海苔巻があればいいや」
「どうぞ」店主のおじさんが兄の方を向いて言った。
「バッテラ一つ、穴子一つ、あとのりいなり」
「はいよ」
眼鏡を掛けた、顎の柔らかそうな四角い顔のおじさんは、せっせと太巻きを切っていた。鉈のような幅広の包丁がちらりと見え、すとすとと切り分けているようだった。おかみさんは、おそらく先約の寿司の折詰に、流れるように割り箸を入れて包み紙を掛けていった。わたしたちのお寿司も五分ほど待っていると綺麗に紙を掛けられた。その包みを受け取って、お代を払って店を後にした。
店を出てわたしは、財布から帰りの電車賃を残して二千円と小銭を兄に渡した。
「お母さんからご飯代もらった」
わたしが腕を突き出しているので、兄は受け取って、ブルゾンの大きなポケットに入れた。
「小遣いにすればいいのに。電車賃は?」
「三千円も貰った。電車賃は抜いてる」
わたしはレンガの歩道を、色の違うところだけを踏んで歩いていた。
「じゃあプリン代として、ありがたく貰っておくか」兄は笑って言った。
「なんて高いプリンだ。食べなきゃよかった」わたしは少し無理のある、遠くの色違いブロックへ向かって足をぴんと伸ばした。
兄はカードをかざし、マンションのエントランスの扉を開けた。
「明日いつまで居るんだ?オレは午後から大学に行く」
エレベーターは9階まで行っている。
「大学はいつから?」
わたしは何となく、窓ガラスを通したエレベーターのなかの暗い空洞を眺めていた。
「一時くらいに出る」
「じゃあそのとき帰る」
エレベーターを待っていると、突然――。
「あっ、ちょっと待って」
兄は奥の自転車置き場に行こうとした。わたしもついて行った。
「多分自転車の鍵を忘れた」
ずいぶん前に立ち寄った以来、久しぶりにマンションの駐輪場を歩いた。排水溝に嵌められた鉄の格子の蓋を踏んで。辛気臭く、薄暗いなかで、上へと続く非常階段の鉄骨の柱が覗いている。
「あれ、えっ……」兄は自転車が交差しながら並ぶ、その隙間に入っていった。
「どうしたの」
「かごに何かある……」
兄は自転車のかごから、両手を使って何かを取り出した。それを胸の前に持ってきて、わたしに見せた。兄の顔が隠れるくらい高さのある、直方体の白い箱だ。
「なにそれ」
「知らない。オレのじゃない」
「貸して」
わたしは同じように箱の底を持って受け取った。軽い……。箱はケーキを入れるような、つるつるとした白い厚紙で出来ているが、ケーキを入れるには高さがありすぎる。それに――軽く揺すってみても少しの音もしない。空なんじゃないか。
「テープで止めてあるね。開けてみる?」
透明なテープで上蓋が止まっていた。でも妙なのは……普通お店のものなら、テープだとしても楕円形のシールみたいなので、おしゃれにちょこっと止めるだろう。でも、この箱はびっちりと上蓋の縁すべてを張り付けてあった。薄く黄色みを帯びたビニールテープで。
「やめろ。イタズラかもしれない。エントランスに置いておこう」
兄はわたしから箱を取ると、駐輪場を出てエントランスにあるテーブルの上に箱を置いた。テーブルにはどこかの子の忘れものらしい、小さな赤い手袋も置いてあり、その脇に置いた。
わたしたちがボタンを押して呼んだエレベーターは、まだ1階に留まっていた。ガラス窓から明かりが漏れている。
6階の部屋に戻ると、順番に並んで手を洗い、兄は顔を洗って、わたしはうがいをした。兄はわたしが畳んでおいたタオルを投げて寄こした。
「さっきの箱、何かなあ……」わたしはぼそりと言ってみた。
「さあな、分かるわけない」
分かるわけがないのはこっちだって分かっている。そんなつまらんことを言うんじゃなくて、頭を使って想像しろよ――と言おうかと思ったが止めといた。別にわたしもそれほど興味があるわけじゃない。子どものイタズラだろう、きっと。兄は世の中に、気にすることなど何もないといったふうに、テーブルにお寿司を広げた。そして麦茶を湯呑みに容れて電子レンジで温めた。
「あ、わたしもそれやって」
「次な」
温かい麦茶をすすりながら、海苔巻を食べ、バッテラに醤油をつけて口のなかに入れた。酸味と甘みの酢飯、白板昆布にほろりとした〆サバ、押し寿司の食べ応えに身体が満たされた。兄は穴子を食べていた。わたしも一つ取った。
「穴子も美味しいね」皮が香ばしく、実がふわりと柔らかい。
「バッテラばかり頼むけど、うまいな」
「バッテラは一番美味しくて一番安い。バッテラを超えるものは存在しないのだ。オール・ザ・スィングス・バッテラー。でも茶巾も一回食べてみたいね」わたしは醤油をちょんとつけ、もう一つバッテラを食べた。二人だからたくさん食べられる。一口で頬張った口のなかに幸せが広がっていき、胸まで降りてゆくように飲み込んだ。
そのあとはぽりぽりかっぱ巻を食べ、こりこり沢庵巻を食べ、つゆの染みたお稲荷さんの揚げを舌に乗せ、温かいお茶を飲んだ。テーブルを片づけると、わたしは畳に寝っ転がって漫画を読み続け、兄は携帯プレイヤーで音楽を聴きながら、キーボードを叩いていた。時計の針が十一時に差しかかると、立ち上がって兄はマットレスを畳に置いた。わたしは漫画から目を離して言った。
「アニー彼女出来た?」
わたしも大分おかしいと思ってはいるのだが、物心ついてからずっと、兄のことはアニーと呼んでいる。変えようとも思っているのだが、いまさら別の呼び方をするのは恥ずかしい。
「居たらミナなんぞ泊めん」
兄はマットレスの横に水色のシーツの布団を敷いた。わたしはふざけてそこにダイブした。
「かわいい妹でしょ」
「うちを漫画喫茶だと思っていて、しかもつまみ食いをする迷惑な妹」
兄は、頭からわたしに羽毛布団を掛けて上から枕を落とした。ぐえっ――とわたしは岩でも落ちて下敷きになったようなふりをした。「しかもマットレスで寝ようとしないで、寝床まで奪う」
「ネコみたいだね、ニャー」
わたしは布団を被ったまま顔を埋めてまるまった。真っ暗な中、枕が背中の上をころりと転がっていく感触がした。
「猫飼いたいんだよな。結構掛かるのかな」
兄は枕を拾ってマットレスに乗せた。
「いいね、ネコが来たら、わたしもここから学校に通うよ」
「二匹もいらん」
兄はつれなく、わたしの乗っている布団は旅館のようにずれなく、綺麗に整えた。
「なあ、マットレスで寝ろよ。客用にマットレスがあるんだから」
兄は言った。しかしわたしはマットレスが好きではないのだ。
「ニャー」
「マットレス落ち着かないんだよな……」
兄はぶつぶつ言っていた。
「じゃあ布団に入ってくれば」
「ごめんだ、暑苦しい。布団が温まると寝つけないの知ってるだろ。この前家に泊まりに来たヤツに、たまに妹が泊まりに来るって話したら、詳しく聞かれたぞ。あんまり普通じゃないんだよ、そういうの」
「そういうヘンタイみたいなヒトが寝てるかも知れないから、いやだなマットレスは」
兄は溜息をつき、牛乳を飲みに行った。わたしが布団のなかで家族って良いものだなぁと言うのも黙って、兄は電気を消してマットレスに入った。
兄が寝ついたあとも、わたしはしばらく起きていた。おもちゃみたいな、移動式の小さなスタンドがあって、その明かりで漫画を読んでいた。七十三巻もの大作は、わたしの手でもう読破されようとしていた。兄の家は結構定期的に来ているのだが、ちょうどこの前、一か月前に来たときにこの漫画を発見し――家で読み、マンションで読み、駅で読み、トイレで読み――やっとあと数ページというところまでになった。
わたしは漫画を枕元に置いた。……ずっと、エコノミー症候群になるんじゃないかというくらい飛行機で上空を飛んでいて、やっと今空港に降り立ち、長い旅路を家へと帰って来たような気持だった。わたしは兄を起こさないよう――踏んでも起きないかもしれないが――静かにキッチンまで行き、冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んだ。そして暗い中でカップを流しに置いた。
兄の横の布団につき、ライトを消してしばらくすると、南――ベランダの窓の方――を向いた。窓際のカーテンがわたしの顔のすぐ目の前にある。少し開いて隙間を作り、暗い、冷たい窓ガラスを眺めていた。終わりの方は少し微妙だったなと思った。漫画の最終巻は、今まで登場したキャラクターがみんな出ていて、全員幸せで、作者の好きなものは余すところなく全部入っており、張りぼてのような、二十分も三十分も続くメドレーのような、美味しいけれど口に残る感じがした。七十何巻も続いたんだ。きっと何でも、何かを終わらせるのは難しいことなんだろう。
東を枕にし、窓の隙間から洩れてくる、車の走る音を聞いていた。西の方から遠くの頭の先へ、ガタガタンと長距離トラックが走っていく。どこにゆくのだろう。どこから来たのだろう。ワレワレは……我々はどこから来たのか、我々はナニモノか、我々はどこへ行くのか――。
窓から目を離して反対側に寝返りをうつと、こんどは北のほうに冷たい白いペンキの鉄の扉が見える。その先には、灰色のマンションの廊下がある。いや、在るはずだ。天井にぽつぽつ明かりがあり、都会の白っけた夜の、隅に追いやられた共用廊下が。でもドアの外に何が在るかは、本当のところは分からないはずだ。その後ろには直立不動でじっと誰かが立っているかも知れないし、廊下は壁を残して床が全て崩れ落ちているかも知れない。そんなことを言えば、今はこの部屋だけが存在しているのかもしれない。廊下も消え、エレベーターも消え、壁も消え、実際居るかどうかも知れない他の部屋の住人も消え、ただこの部屋だけが暗闇のなかに浮いているのかもしれない。朝になって扉を開くまで、わたしは騙されているのかもしれない。あるいは――朝になって扉を開いたときに、わたしたちは騙され始めるのかもしれない。
わたしは――でもふと、すぐそばの兄を見た。兄は布団に乗せた電信柱のように静かに寝ている。こちらを背にして横になって眠り続けている。その姿は毛布を被った小山のようで、毛布の裾はこちらまで届いていた。わたしは眼をつむって考えるのを止めた。そしてそのうちに――北も南も東も西も、くるくる回り始め、わたしは方角を失った。
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