思木町6‐17‐4

水草律子

第1話 (無題)


  (無題)


 防音で空調完備の「部屋」があるとする。「部屋」は閉ざされていて、窓が無い。そして温度、湿度を一定に保った状態とする。温度23℃、湿度55%というところかしら。周りの音も聞こえず、景色も見えず、振動も伝わらない。降っても晴れても、雷が落ちても「部屋」の中からは分からない。つまり「部屋」は外界の影響を離れ完全に独立し、逆に言うと「部屋」の中から外界の変化を知る術は無い。

 あなたがこの「部屋」で生活を始めたとする。「部屋」から一歩も出ず、「部屋」の中のこと以外は分からない状況で。実際にはそんなことは不可能だと思うけれど、仮の話だから。キッチンで調理をしたり、シャワーを浴びたり、置いてある本を読んだり、プレイヤーから音楽を聴いたりして過ごす。そしたらね、だいぶ今いる「部屋」が馴染んだところで、この「部屋」を別の場所に移動させてみる。もちろんあなたはその移動が分からない。そういう「部屋」に居るのだから。視覚を始め、どんな五官の情報も入って来ない。この「部屋」の移動も現実問題、難しいと思うけれど、ばかでかいフォークリフトに乗せてゆっくり運ぶとか、飛行機に吊るすとか、未来の技術でマンションごと転送するとか、神様が台車に乗せて運ぶとか――何とかして移動させたとする。

 あなたはまた、この移動が起きた「部屋」のなかで、一日一日を過ごすわけ。キッチンで調理をしたり、シャワーを浴びたり、置いてある本を読んだり、プレイヤーから音楽を聴いたり。前と変わらない日々を過ごす。

 でも――果たしてそうなるかしら。初めからわたしが考えていたのは、あなたは部屋の移動に本当に気が付かないかしら。これは、移動が完璧なものではなかった――ということではなくて、部屋の移動はあなたに気付かれずに完璧に行われた。映画の次のコマを差しかえるより完璧に。わたしが言いたいのは、「部屋」と「移動が起きた部屋」は――あなたの主観の世界においても――本当に同じものかということ。

 しつこいようだけれど、絶対に見た目では分からない。あなたは外界に対する現実的な判断材料を「部屋」に取り上げられている。でもその上でも、何かに気が付かないかということ。ちょっとの違和感も無いかということ。これは第六感、あるいは方角の違いとかかも知れない。例えば「移動が起きた部屋」は方角が以前とは違うよね。「部屋」のなかの、洗面所の鏡の前で、いつもあなたは歯みがきをしていたけれど、鏡に向かったあなたは、前は南向きだったのに、「移動が起きた部屋」では、北を向いて歯を磨いている。果たしてそうなった場合、あなたが感じる世界は同じかということ。たとえ部屋のなかに日が差さなくても気が付かないかしら。あれ、方角が変わったのかなとは思わなくても、何かがおかしいと感じないかしら。あるいは――実はこちらの方がわたしは深刻だと思うのだけれど――もし、まったく何も気が付かなかったとしたら、のんべんだらりと暮らしているなかで、見えない世界の変化の煽りを――見えないままで――いずれ、ゆっくりと、深く、手酷く、根本的に、つまり深刻に、受けてゆくのではないかしら。

 部屋の話と方角と、見えない変化の話をして、次は建物の話。またひとつの虚構で、例えばひとつのマンションについて。

 「マンション」は、もうずっと前の――そう、1970年代に建てられた古いもので、日本の都市の――日影市、という市の中で、一番大きな駅が最寄りになっている。けれど、駅からは二十分程の少し離れたところにある。西は国道、大きな幹線道路沿いに建っていて、その幹線道路は南の方に坂を上る。そこからすると、坂の下に建っているわけね。鉄筋コンクリート造の十階建てで眺望が良さそうだけれど、ここら辺りは住宅が密集しているの。南向きのベランダからは、住んでいる階によるけれど、五階辺りから閉塞感を感じるかも知れない。ベランダから南を見ると、道を挟んで四階、五階、六階建て位のあまり大きくない集合住宅が、ばらばらに隙間無く集まっている。その集合住宅は建てられた年にも隔たりがあるし、もちろん他の住宅の景観に配慮する訳でもないから、ごちゃごちゃした印象で、余計に塞がる感じを思わせるのね。最上階でも、ビルの立ち並ぶ住宅地――南に目を向けると土地の高度が高くなっていって、遠くの方まで高い建物が生えているし、西には車の通りの激しい幹線道路、北には隣に違う十階建てのマンションが建っているから閉塞感という事でいえばあまり変わらない気がする。「マンション」は閉塞感がキーなの。具体的な事物をうまく想像できなくても、それが感じられればあまり問題は無い。都市の雑居ビルの狭間に居るような、すりばちの底に居るような――何となくさみしいものを考えてくれればね。

 場所や建物の印象というのは、子どもの方が感じやすいものじゃないかな。土曜の学校が無い日に「マンション」で隠れ鬼をして遊ぶ兄妹がいるの。隠れてもいい鬼ごっこね。歳の差は二歳。ふたりは「マンション」の六階に住んでいる兄妹だから、暇だとそういう遊びをする。昔のことだから、そういう少し危険な、迷惑な遊びも見過ごされていたの。それに「マンション」はさらに古いから、オートロックなんてものも無かったし、エレベーターにもフロアにも、監視カメラが付いているわけでは無かった。エレベーターなんて、階に到着するときにちょっと「ガタン」と揺れるような代物だった。

 ふたりが隠れ鬼をするのに都合が良かったのが、ふたつの階段の存在ね。エレベーターのすぐ脇の階段は「マンション」の内部にすっぽり包まれている、暗い、螺旋状のものだった。地下の駐車場のように裸のコンクリートの壁で、上の階と下の階の、ちょうど真ん中にひとつだけある踊り場(このふたりは踊り場っていう言葉を知らなかったけれど)には、3――4のように階が印字されている白いカバーがかかった蛍光灯一本分の明かりがあった。階段は昼間でも暗いし、その蛍光灯も時には切れかけ、ポッ――ポッ――と音を立てて、コンクリートに付いた染みを浮かび上がらせていた。住居のドアが並んでいる外の廊下に出るところは、いつ影から鬼が現れるか分からなかった。夜より昼間の方が暗い場所ってあるけれど、そこはまさにそういうところだった。兄妹も自然に自分たちでルールを決めたの。隠れ鬼をしていいのは、10階から5階までってね。5階から下の廊下は、よりいっそう建物の影になって暗かったから。

 エレベーターと階段は「マンション」の真ん中にあって、エレベーターから出て右に曲がり、すぐに階段とエレベーターを囲むようにしてUターンする「マンション」の東側の部屋に行く廊下と、エレベーターを出て右に真っ直ぐ向かう西の廊下に分かれた。その西側の廊下の途中にある階段がもうひとつの階段、非常階段だった。鉄骨製の階段で、もちろん塗装はしてあったけれど、なんて言うかな――とても剥き出しという感じがする。非常階段だからもちろん外に面しているし、建物が出来て、後から付けましたと言うように、材質も違うしコンクリートにボルトで固定しているのが目に見えて分かるのね。兄妹は片方の鬼から離れようと「マンション」の廊下から、この非常階段を使うのだけれど、廊下の途中にいきなり塀に切れ目があって、そこから非常階段に降りるの。それは何と言うか――とても、「境界を跨いだ」という感じがする。壁の切れ目から膝を曲げて、段から降り立つと、カン――と階段が鳴って、鉄骨の柵から空が見えるのね。ビルとビルの隙間の空だけれど。松葉を散らしたような、滑り止めの突起が格子状に広がる、ペンキを塗られた鉄の板。頭上に続く、踏み板と踏み板の間からは、上の階段が見える。鉛筆みたいに細長いくせに、足で蹴ってもびくともしない鉄柵に囲まれた通路。そこには雨が溜まらないようにいくつかの小さい真円があいている。その非常階段という場所は、浮いているの。「マンション」のなかで外から一番見渡せる場所にあって。透明なグラスの中の、ソーダ水に入った黒いストローみたいなものかも知れない。とても奇麗に見通せるけれど、光線が歪んでいる。

 隠れ鬼が始まると、6階の西廊下の端からスタートして、急いで妹はお兄ちゃんから離れる。エレベーターの横の階段まで走って、たまに8階、だいたいは9階まで行く。10階は、実は部屋が三つしかなくて、非常階段は続いていないのね。だから逃げ道が限られる。エレベーターの隣の階段を上り、9階まで行くと西の廊下を歩いて行って、廊下の脇からそっと「境界」を下りて非常階段のところで待つ。そして耳を澄ます。非常階段はかなり慎重に歩かないと音が鳴るし、鉄骨から振動も伝わる。ここだと、お兄ちゃんが非常階段から上ってくればすぐに分かるし、エレベーター脇の階段からは距離がある。逃げやすいのね。隠れ鬼だけど、実際に「マンション」には隠れるところなんてほとんど無いし、行き止まりも多い。なるべく気づかれずに鬼から距離を取りつづけるのが基本戦略になっていくのよ。それで、もし非常階段からお兄ちゃんが来るのが分かったら、早めにその場を離れて、階段か、来てればエレベーターを使う。それで6階まで行くの。そうすると9階よりさらに有利になるのね。お兄ちゃんが非常階段を下ると本当にうるさいから。こんどは5階に逃げることも出来るし――だいたいこんな感じね。

 あとは、ほとんどこの繰り返し。階段と非常階段を上手く使って9階から5階を、鬼から逃げていく。エレベーターはたまに使うけれど、一番怖いのは鬼と鉢合わせになることね。だから攪乱のために行き先ボタンだけを押して、無人のエレベーターを動かすとか――思うのだけど、自分の住むマンションのエレベーターで、途中階から乗るのに上に行くボタンを押したことがある人ってどれくらい居るのかしら。「マンション」は上に行くボタンが○の中に緑色の上向き矢印で、下に行くボタンが○の中に赤色の下向き矢印なの。普通住んでいると下にしか行かないよね。自分のマンションの、住んでいる階の上に行くボタンを押したことが無い人って、結構居るんじゃないかな。

 ちょっと話が逸れたけれど、兄妹にとってそういう「いつもと違う行動」っていうのも遊びの世界を面白くするのね。あとは、エレベーターの隣の階段は10階まで行けるんだけど、実はその階段は10階のフロアよりも少しだけ上に続いているの。暗いなかを、もう○――○と階表示が描かれていない、のっぺらぼうな白いカバーの蛍光灯だけが踊り場にあって、二階分くらい階段を上った先に一つだけ木の扉がある。多分、何か「マンション」の管理用の部屋だと思うのだけれど、兄妹にはそんなことは分からなかった。未知なる、悪夢のような怖れと嫌悪を抱かせる木の扉だったわけ。そこに逃げちゃうと行き止まりだし、もちろんドアには鍵がかかっていたから来る必要は無い場所なんだけど、二人はたまにそこを見に行っていた。階段を上った先にある、鎖された木の扉の前に立って、ノブを回してみた。開くかな?って気持と――開いたりしませんようにという畏れを交錯させながらね。


 9階の非常階段から「カン!カン!カン!カン!」と音を立てて駆け下りてくる鬼を、足が絡まるようにして逃げる。非常階段は途中に踊り場が無い。落差があって長い階段を転がるように下る。足がもつれて止まれなくなって、そのまま柵にぶつかったら、隙間の空が見えて、遥か下のコンクリートの地面に引き込まれる――疎な柵は、わたしを投げ出してしまうんじゃないか。落ちる恐怖を一瞬、感じ――指に力を入れて、右手で目前の手すりを思いっきり引っ張り、ぐいいっと方向転換する。すぐに「境界」を飛び越えて、「マンション」の灰色の西廊下に出て、全力疾走でエレベーター脇の階段に向かう。上るか――下るか。今は7階――エレベーターはどうだろう。この前、エレベーターを使って5階に行こうとしたとき、途中の6階でエレベーターが停まったのを思い出す。「ガタン」と揺れたあと、鉄の扉が左からゆっくりと開いていき――そこに、鬼が居た。わたしは階段を下りていく、あまり音を立てないように、でも急いで――「7――6」という階表示の蛍光灯のランプが、ぐるぐると螺旋状に下るわたしを照らす。壁に映ったわたしの影が、腕を振り上げている。少しは距離があった。わたしがどこまで行くか鬼には分からないはずだ。

 わたしは行き止まりである5階の、暗い廊下に出る。エレベーターは、まるでわたしを待ち構えていたように、5階で停まっている。何故か、わたしはこのエレベーターを開けるのも怖い。さすがにこの扉の後ろに鬼が居るわけが無い。扉を開けて、無人のエレベーターを上に送るのも上手い作戦だ。でも――もし誰かが扉の後ろでわたしがボタンを押すのを待っていたら?――結局わたしは曲がり角に立つ。真っ直ぐ、いつもの西の廊下に行く方と、エレベーターを囲って曲がる、東の廊下の角だ。わたしは辺りが……突然「マンション」が豹変していることに気付く。いつもと何かが違う……と気が付く。建物のふところに飲まれた陰翳の中で、みぞの付いたコンクリートの板を並べた廊下が、西に延びている。左の壁には配管が巡り、部屋の換気扇と鉄のドアが果てまで並んで続いている。果てまで?――そう、西の廊下は無限に続いている!わたしの目は――目だけは行き止まりの壁を捉えている。鉄のドアの前を五つも過ぎれば着けるはずの行き止まりを。でもそんな見える行き止まりも、わたしの意識はその壁まで届かない。見えない谷底を覗きこむように、わたしの意識は廊下の「中間」を永遠に走り続けている――。

 わたしは叉路で右に曲がり、エレベーターをぐるりと廻って東廊下の方に行くことにする。大抵はあまり行くことの無い行き止まりの東廊下を――。幾つか折れて、暗い廊下からは非常階段と向かいのマンションが見える。空は、辺りは夕闇のような薄紫色の影に包まれて、向かいのマンションは平面に描かれた絵のように現実性が無い。非常階段の柵や段は、青か赤か紫か、空間に直線的な影を交錯している。わたしの居る廊下の、天井と塀の上の隙間からは、淡い光が入り込み、東廊下は様々な影に包まれる。わたしの袖の縁や、煤煙で黒くなったペンキの壁の凹凸や、廊下の溝や、四つ並んだ鉄の扉やらは辺りのものを全て内包したその影に包まれる。わたしはそのとき気が付く。鬼が――この階にやって来たと。包んでいる影が変化し、息苦しくなる。「ジリリリリリ!」と、非常の火災報知器が鳴るのを耳にしたように緊張し、わたしは東廊下の行き止まりを見る。廊下の端の部屋の住人が、物置代わりに色々なものを置いている。傘や箒、ビニール袋に入ったごみのようなもの――隠れる場所は無い。わたしは思う、西の廊下に行って、非常階段を上っていくように――と。もしこちらの廊下に来てしまったら――。わたしを包んでいる暗い「マンション」の廊下の影がまた、雲が日差しを遮ったように変わる――陰翳が濃くなっていく。わたしは通路の途中の柱の影に張り付く。耳をそばだてても、聞こえてくるのは鼻を通るわたしの微かな息だけだ。影はどんどんどんどん濃くなり、空気が、曲がり角から微細に震えてくる。目には見えない――音も聞こえない。でも気配が……。


         ――――――――――――――――――――          


 ……そのあと、女の子は泣き出してしまったの。お兄ちゃんが影から出てきてこちらを見たときにね。その日の鬼ごっこはそれで中止になった。お兄ちゃんは驚いたみたいよ。妹に曲がり角で出くわしたときに――いつもは可愛くおどけて逃げようとするのに、そのときの妹は眼をかっと見開いて、肩を震わせ怯えていたから。自分を、妹が怪物を見るような目で自分のことを見たとき、一瞬――不思議な気持になった。ショックで、悲しいような。そして――何故だかはまったく分からないけど――強く感じた憎しみ。でも、気付いたら妹は自分の足に駆けよって、ぎゅーっと自分を抱きしめた。それで「鬼が……こわい……こわい……」って泣いたの。お兄ちゃんは、胸もとでむせながら泣きじゃくる妹で頭が一杯になったけれど、それでも、とりあえず5階の東廊下から西廊下まで歩いて、非常階段でお家のある6階まで上った。すぐに家には戻らないで、7階に上がる階段の途中に一緒に座って、妹が泣きやむまで待っていた。このまま帰るとお母さんに怒られるかもしれないし――冷たい鉄骨の非常階段に座って、まだ少ししゃくりあげる妹が隣に座っているときに、お兄ちゃんは細い柵を隔てた西の空を見ていた。傾いた日が、長い光を非常階段に投げかけ、鉄骨の柵や、柱や、上に見える鉄の踏板が影を落としている。自分の着ている水色のTシャツには、妹の涙の染みがくっきりと付いていて、妹の匂いも残っていた。お兄ちゃんは長いあいだ、自分の服の織目や靴のマジックテープ、白いペンキの非常階段についた煤煙の模様、松の葉のとげのような滑り止めの凹凸をじっと見つめていた。

 やがて妹も泣きやんで落ち着き、ふたりは家に帰った。この兄妹はまたそのあとも何度か「マンション」で隠れ鬼をしていたけれど、段々回数も減っていき、大人になるにつれて、いつのまにかこの遊びは忘れられた。あの日のこと――妹の女の子は何を見て怯えたのかしら。「マンション」の5階が――鉄の扉が無限に並ぶ西廊下、絵になった向かいの建物、非常ベル、影に包まれる東廊下――本当にそういったものになったのかしら。もしかして彼女は本物の鬼を見たのかしら。わたしもあなたも、現実にはそんなことは在りえないと思う。多分きっと、遊びの中でずっと鬼に追われ続け――ただの遊びの設定が、ゲームになり、ひとつの世界になり、想像力がどんどんどんどん彼女を駆らせ、「鬼のようなモノ」が生まれた。そんなただのイメージが、曲がり角から出てくるお兄ちゃんの影に映しだされた。現実にはそんなところなんでしょうね。

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