夕闇に星二つ

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夕闇に星二つ

 はす向かいの洋館には、黒羽の鳥が住んでいる。陽光に当たれば青く偏光するその羽は、夕闇の星よりもしめやかに輝き、ベルベットの薔薇のように麗しく、俺の心を掴んで離さない。

 夜に主に活動する自分にとって、寝起きにこの景色が見られるというのは良いものだ。あちらの部屋がこちらの部屋より明るい限り、光の反射で俺の姿は見えず視線に気付かれることはない。

 窓際のベッドの上で背に生えた羽を丁寧に腕で撫で付ける。艶々とした毛並みが保たれているのは、この毛繕いの賜物であろう。遊び毛が見付かれば、つまんで抜き床へと放り投げた。ふわふわとした捨てられた白い羽は、夏から冬毛に変わるためか、それとも幼毛の名残なのか。

 おそらくまだ思春期にも満たないその鳥は、成長過程に特有の幼さと大人の両面を持つ顔をしていた。何かを見付けると好奇心旺盛な子どもの顔なのに、憂いを帯びた表情は妙に大人びている。

 その鳥は隣の人が捕獲したらしい。この辺では珍しく、家に居着くと幸せが訪れるという言い伝えのある鳥。あの鳥は居着くというよりは幽閉されている、に近いようではあるのだが。

 毛繕いが終わると、不意に窓の外に目をやり上を向いた。射抜くような視線に心臓が跳ね、慌てて壁際へと隠れる。

 こちらを見た……? いや、見えないはず。

 ちらりとこちらを見上げたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。一番星でも見ていたに違いない。念のため窓枠で半身を隠すようにして、覗き見を続ける。

 影から窺っていると彼は空に興味を無くしたのかうつ伏せでベッドに寝転んだ。何か本でも読み始めたのか、楽しげにパタパタと足が動いていた。

 あの鳥を『鳥』と呼ぶには些か語弊があるだろう。この世界において人類とは主に二つの種類に分けられる。『人間』と『獣人』だ。あの鳥は背中に羽の生えた鳥の獣人であった。

 人口の九割近くが人間であり、獣人はさほど多くはない。中でも鳥はあまり数がおらず、空を飛べて見た目が天使のようであるという理由から、家に居着けば幸福をもたらすといまだに信じられている。そのために捕らえられることが多く、あの鳥もおそらく幼い内に人間に捕まってしまったのだろう。

 今日の観察も終わったので、部屋を出て昨日作った代替肉と野菜のスープをコンロで温める。その間に身支度をしようと、櫛を通し顔を洗う。温めるだけだから、と放置したのがまずかった。

 伸びていた爪を切っているときに、何やら焦げた臭いが漂ってきた。慌ててキッチンへ戻ると、スープが蒸発しきって鍋底が焦げていた。慌てて火を消して片っ端から換気扇を付け、窓を開けていく。扉を開けたままにしてた寝室にも臭いは入り込んでいたから、寝室の窓も開け放つ。その瞬間だった。

 ガラリと別の場所の窓が開く音がした。その方向を見る前に風の音が耳を掠めて、窓枠に何かが降り立った。

「──やっぱり、ここなら届いた」

 チャリ、と耳障りのいい鎖の音。

「やぁ、二つの星の正体が知りたくてね」

 腰を折り目を細め微かに笑んだその人は、黒羽の鳥だった。

「……は?」

 間抜けな声は、自分の声だ。

 月の光を背後に、輪郭が仄白く浮かび上がる。こちらを目を凝らすように見たそいつは、何かに気付いて目を見開いた。

「え……猫科?」

 ちっ、と俺は口の中で舌打ちをして、そいつの首元を掴み勢いよく壁に押し付けた。脅すように爪を立て、首に牙を当てる。もがくように腕を動かしたが、全く動かせない。体重を軽くするためほとんど肉が付いていない腕は、俺には易々と動きを封じることが出来た。

「いいところに来たな。丁度飯がダメになったところだったんだ」

 口を開き牙が皮膚を裂く瞬間、開いた口の中で鳥が唾を飲み込んだ。

 ああそうだ。俺は猫科の獣人だ。肉食だから、もちろん鳥も食える。

 突然腹に衝撃が走る。力任せに蹴られて俺が怯んだ隙に、鳥は羽ばたきと共に腕からするりと抜け出てしまった。羽がある者はこういうときに強い。地を這う者には空を自由に飛べる者に手を出すことは出来ないから。

 ──いや、彼は自由では無かったか。

 入ってきた窓から空に逃げようとしたものの洋館から伸びる鎖のせいでつんのめってしまう。痛かったのか首をさすりながら一度こちらを睨み、自分の部屋へと戻っていった。

 ピシャン、と勢いよく窓の閉められる音。

 バレてしまったな、と思いながら伸びをする。部屋はまだ焦げ臭さが残っている。あれだけ脅せばさすがにもう来ないだろうと、窓を開けたままキッチンへと戻った。

 インスタントの飯を食べ、コーヒーを飲んで一息つく。臭いはほとんど無くなってそろそろ寒くなってきたから窓を閉めようと寝室へ行くと。

「こんばんは」

「……は?」

 再び、俺は間抜けな声を上げてしまう。

 ベッドの上には読書中の鳥が無邪気に座っていた。

「一度脅しても足りなかったか?」

 俺は見せつけるように腕を上げ、爪を出す。

「大根役者かい? 君は」

 鳥はもう脅えることさえしなかった。これはもう襲ったふりをしたところで、逃げてはくれないのだろう。どうしたものか。

「もう少し目に本気さを出しなよ。凄みが足りない」

 ……なぜダメ出しされてるんだ俺は。

 爪をしまい、深くため息をつく。

「脅しは嘘だ。君からは血の臭いがしないし、何より爪を切っている。長らく獣を狩ることも食べることもしていない。違うかい?」

「確かに、俺は長らく肉は食ってない」

「家主に聞いたことがある。隣の家には偏屈な男が住んでいる。ゴミ出しはされているから間違いなく人は住んでいるのだが、誰もその顔を見たことが無い。おそらく友達と呼べるものは孤独のみ──とも」

 知らないからってあまりにひどい言われようだと思った。しかもそれが全て事実であることが、尚更ひどい。

「机上の原稿を見たんだが、名前に見覚えがある。もしかしてこの本の作者は君か?」

 その手には、見覚えのある本があった。それは物書きである自分の書いた小説だった。

「……だからどうした」

「奇遇だね。俺はさっきこの本を読んでいたんだ。他の著作も読んでいるよ。孤独に寄り添うような優しい話ばかりなのは、猫科で人に憚られる君が人と関わりたいからなんだね」

 物知り顔で、彼は言う。

「その程度で分かった気になるなよ。それはフィクションだ」

「肉を食べず、人と関わらず、それでも人の多いこの街に住んでいる理由はなんだ?」

「なぜお前に言わないといけない?」

「興味があるんだ」

「……言うわけ無いだろう」

「人が好きだからじゃないのか? 他の人間に除け者にされようと、嫌われようと、それでも好きだからじゃないのか?」

「──だったら、どうしたって言うんだ」

 ずけずけとこちらの領分に入ろうとしてくるそいつに、絞り出すように俺は言う。

 正直なところ、図星でしか無いのだろう。物を書くのは、こんな俺が人と関わる唯一の方法であったから。無意識に、口許が苦く笑むのを感じた。

 そんな俺を見た彼は愉快げに笑う。口を吊り上げるように笑うその表情が、幼さの残る顔にあまりに似合わない。普段から皮肉な笑いばかりをしている人の笑顔だった。

「なんていうか、えらく見た目と口調と性格にギャップがあるな」

「悪いね。あまり平穏な人生は送ってないんだ。じゃなきゃ洋館に閉じ込められていないよ。こんな境遇なもんで性格もすさんでしまった。がっかりしたかい?」

「いいや。どんな奴か気になってたんだ、知れてよかった」

 凄みが足りないなどとダメ出ししたり、血の匂いが分かるということは、逆にかつて本気で襲われたことがあるということ。人間にも、肉食の獣人も、彼にとっては敵なのだ。では、俺は敵と味方どちらになるのだろう?

「なんでここに来た?」

「二つの星の正体を暴きたかったんだ。綺麗な星が見下ろしているといつも思っていた。金の瞳は夕暮れの一番星よりも美しく輝いていた」

 猫科の瞳は微かな月光さえも集めて光る。夜ならば見えまいと思っていたのだが、洋館から見えていたのか。

「なぜかと問われるならば、同じ言葉をそのまま返そう。どうして僕をそんなに綺麗な瞳で見つめてくれるんだい?」

「食べられるモノが近くの家にいれば、誰でも見るだろ」

「それも嘘だね」

 即座に否定し、妖艶に目を細めた。

「獣人の目は嘘を吐けないんだ」

「そんなの聞いたこと無いぞ?」

「うちの種族ではよく言ったものだよ。綺麗な瞳は綺麗なものを見ているから綺麗になるんだ」

 不敵に笑いながら、そんなことを自信ありげに言い放つ。

 ……その綺麗なものってのはまさしくお前のことだろうがよ。

 …………。

「その綺麗なものってのはまさしくお前のことだろうがよ!」

 言葉にして、一息に言ってしまった。

「ほう、だから君は僕を見ていたと言うんだね? なるほど君は僕のことを存外気に入ってくれているらしい」

 これは何かを思い付いた顔に違いない。しなだれるように甘い声が誘惑する。

「性格も言葉もすさんでいるが、この声だけは自信があるんだ。なぁ君よ、聴きたいと思うだろう?」

「……人たらし」

 その言い草はなんなんだ。こちらを見透かしたように、魅惑的に誘ってくる。

「ここで歌えば洋館の人間にバレて今度は完全に監禁されてしまいそうだからね。どうにかしたいところなんだが──君はそういえば出掛けるところだったんじゃないか?」

 白々しく言うそいつに、ため息を吐く。

「はっきり言ってみな」

「僕をどこかに連れ去ってくれよ」

 綺麗な瞳がそう言った。その声は、甘美な響きを孕んでいる。

「ひとまず山を一つ越えたところであれば、歌くらいは歌えるだろう。あの辺は草木が生えていないからエサも無いが獣も少ない」

「なるほどねぇ」

 俺はトンと胸を押し、ベッドへと倒した。腕を押さえつけて覆い被さるように、そいつの上にのしかかる。

「え」

 そして再び首に牙を立てた。

「あーあ、読み間違えたかな。君なら助けてくれるかもしれないと、博打を打ったんだが」

 今度は全く抵抗しない。顔を窓の方へ向けて背けるだけ。

「まぁいい博打ではあったな。星の正体も分かったことだし。食うなら骨まで残さず綺麗に食べておくれよ」

 そっと目を閉じて、彼は言う。悲しいくらいに、清々しく。後悔ではなく、祈りのように。

「いつかまた、人目も憚らず星の下を飛んでみたかったな……」

 その目蓋の裏側には、どんな景色が広がっているのだろうか。

 歯をガチリと噛めば、行き場を無くした金属が外へと落ちる音がする。

「……あまり潔く諦めるんじゃない」

 鎖から解放されて、腕の下のそいつは驚いたように目を瞬かせた後、不敵に笑う。

「悪あがきも格好よくないかと思ってね」

「読みは外れてないさ。お前は博打に勝ったんだ」

 俺は体を起こし、仰向けのままの鳥に手を差し出す。応えるように細い指を俺の手に重ねたから、掌を合わせるように繋ぎ直して引き上げた。

「一度決めたことは俺はきっちり筋を通す。その喉を存分に奮える場所まで連れていくから、そのつもりでいてくれ。俺に聴かせてくれよ、ご自慢の歌を」

 窓の向こうから物音がした。外を覗くと彼が『家主』と呼ぶ人間がこちらを見上げていた。

「猫科の君よ、どうやらいないことに気付かれてしまったらしい。何か出掛けるのに持っていくものはあるかい?」

「いや、持っていく物は特に無いだろう。さっさと出るか」

「僕を舐めてもらっちゃ困る」

 片腕を引っ張られ、担がれるように背中に乗せられる。羽が頬に当たったと思うと、バサリという羽ばたきの後には既に足が浮いていた。

「しっかりと掴んでいてくれよ!」

 窓から夜の大空へと鳥は飛び立つ。頬に風を感じる。足許に地面が無いことに背筋が凍ったが、しっかりと、折れない程度の力で細い首に腕を回した。

「あまり長くは飛べないから、人目に付かないところで降ろすよ」

 綺麗な翼は月に青く輝き、鳥は星の下を自由に飛ぶ。

 鳥と猫の一人と一人。

 夜闇に二人、旅に出る。

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