マリウスside:やり直しの夜


 あの夜と同じように出迎えた爺さんに、「夕食はいらない」とだけ伝えて、クリスタを手を引き、廊下を歩く。部屋までの距離はやっぱり長く感じたが、足は縺れることなく最短を選ぶ。早くあのドアの向こうに行きたい。


 ばたん、とドアを閉めると、正真正銘、何をしても良いクリスタと二人だけの空間になる。すると、不思議なことに、さっきまでの張り詰めていた激情が緩んだ。


 あの朝、クリスタが消えて焦ったのは、俺だけじゃなかった。この庵の誰もが、気付かずクリスタを行かせてしまったことに驚き、自戒した。特に爺さん。


 かなり思い詰めた顔で、「若様の成長を喜ばしく思うあまり気を緩めるなど…… この庵を預かる執事として、あまりに不甲斐ない……」と打ちひしがれて、従業員のみならず庵に出入りする庭師や肉屋に至るまで掻き集め、今後の再発防止の講習会を開いたと聞いた。その時はやりすぎだと思ったが、お陰で今、物凄く安心感がある。

 この庵に足を踏み入れたが最後、クリスタはもう二度と逃げられない。


 だからこその余裕だろうか。ふと、「あの日、馬車の中で手を取らなかったら、どんな感じだったのだろう」と、気になった。


「そっちのソファに座って。何か、飲み物を持ってこさせよう。何か、軽くつまめるものも欲しいな。苦手な物はあるか?」

「え? え、と? 癖の強いチーズは苦手です」


 ベルを鳴らすと、待ち時間もなくドアがノックされる。前回は部屋の周りは人払いされていたが、今回は、隣の部屋にでも詰めて、聞き耳を立てているのかもしれない。

 現れた侍女に要件を伝え、自分はクリスタが座るソファの向かいに椅子を持ってきて座る。


 その行動が意外だったのか、そわそわするクリスタが微笑ましい。


「そうだ、ずっと気になっていた。エレナはアンナを大切にしてくれたんだろうか」

「え? アンナ?」

「エレナにやっただろう? 人形のアンナ」

「どうしてアンナをご存知なんですか?」


 覚えていないのか、それとも、最初から俺のことは全然見ていなかったのか。たぶん両方だろう。

 そうか、あの時からもう、自分の片思いは決まっていたんだなと苦笑いする。こうして、お互いの思いを伝えて向かい合っていても、クリスタと自分とでは酷く温度差があると感じる。不用意に近付くと、焼き尽くしそうだ。


「覚えていないなら良い」

「そうですか?……アンナは、とても大切にされています。今でもエレナの部屋で、一番良い場所をもらって座っています。アンナ用のクッションは、エレナが自分で縫ったんですよ。あのエレナが。凄いでしょう? その後、『要領は分かったから、次はクリスタ用のを縫ってあげる』って言って…… でも、何年経っても出来上がってはこないの。ふふふ」

「クリスタは、エレナの話をする時が一番楽しそうだな」


 そう言われて、否定するでもなく照れ臭そうに笑うクリスタに、胸の奥がちりちりと焦げる。

 立ち上がり、クリスタの隣に距離を詰めて座り直す。


「クリスタがエレナを大切に思っているのは分かっているし、クリスタの謙虚さも美点とは思うが、それで勝手に諦められると、俺が困る」

「……はい」

「二度とするなよ」

「はい」


 クリスタの顎を上げ、ぺろりと下唇を舐める。気付いているのだろうか。そうすると、クリスタは口を開けるから、舌を捻じ込み、無防備な舌を絡め取る。


 話だけなんて無理だ。そのつもりでも、きっと、結局はこうなった。クリスタに誘惑なんかされなくても、俺が我慢できない。


 細い身体をソファにゆっくりと押し倒し、耳を喰む。溜め息と共に上擦った声が漏れて、こちらの耳に流れ込む。ああ、脳が溶けそうだ。堪らなくなって、今度こそスカートをたくし上げながら太腿の内側に指を這わせる。と、


 コンコン


 ドアをノックする音。……無視。


 コンコン


「あの…… 飲み物が……」


 ああ! もう、俺! なんでそんなもの頼んだかな! 



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