マリウスside:まだ知り合っていない君


 幼い頃、季節ごとに数日間、母に連れられて滞在する大好きな城があった。

 何が良いって、こぢんまりしていて、色々な花が散らかったように咲く雑然とした庭園があって、セキュリティが甘くて、やすやすと抜け出せるところが良かった。


 あれは園遊会があった年だから、八歳の春だ。花の離宮と呼ばれるその城を抜け出した俺は、少し歩いたところにある市場を目指して歩いていた。市場が何かは知らなかったけれど、知らないから見てみたかったのだ。


 最初はうきうきと軽い足取りで歩き始めたのを覚えている。けれど、歩く内にだんだんと不安になってきた。想像より、市場が遠かったのだ。

 いつもは少しだけ敷地の外に出てすぐに戻っていたから、俺がたまに外に出ていることは、誰にも知られていなかったはずだ。その時も、ちょっとだけ見てすぐに帰るつもりだったから、書き置きも何も残してこなかった。


 なかなか見えない市場に、だんだんと焦れてくる。せっかく来たのだ。ひと目だけでも見ないでは帰れない。でも、帰りの道のりを考えると、もう十分、時間が掛かりすぎている気がした。


 困った。皆、心配しているだろうか。怒られるだろうか。怒られるのはまだ良い。泣かれているかもしれない。進むべきか戻るべきか決められず、足はどんどんと重くなり、皆に対する申し訳無さで、頭はどんどんと下がっていった。


「力のある者、優位な者は、気付かぬ内に周囲を振り回したり、傷付けたり、悲しませたりしている時があるんだよ。王子であるあなたがそれをしてしまっても、誰も非難してくれないからね。あなたは、周りの全ての人を気遣いすぎるくらいに気遣っても、足りないんだよ」


 とは、優しくて厳しい、父の言葉だ。難しくて意味は理解できなかったけれど、その時の自分の行動に、周囲を振り回さないための気遣いが足りなかったのだけは確かで、その言葉を思い出した。


(どうしよう。やっぱり帰るべきかな)


 そう思って立ち止まり、来た道を戻ろうと、くるりと体の向きを反転させた。次の瞬間、


「きゃあ!」

「わっ!」


 自分のすぐ後ろを歩いていたらしい誰かとぶつかり、弾き飛ばしていた。


「いたぁ…… あれ? アンナ?! わたしのアンナが居ない!」


 尻餅をついたまま、少女があたふたと周囲を見回した。ぶつかったことを謝ろうとしたが、少女につられてキョロキョロと周囲を見回し、ふと気付いた。


「えっと、たぶんここ」


 少女のふわふわしたスカートを、失礼ながらちょっとだけ持ち上げる。すると、座り込んだおしりのすぐ横から人形が出てきた。


「アンナ!」


 少女は人形についた土を払って、ぎゅうっと抱き締めた後、俺を見上げた。「ああ、また人を振り回してしまった」と、申し訳無い気持ちになる。しかし、少女はニコリと笑ったのだ。


「ありがとう」


 責められると思ったのに感謝されてしまった。面食らっていると、少女がすっと手を出した。その手を取って、立ち上がるのを手伝う。

 手の甲を見せるその仕草で分かった。この少女はエスコートされるのに慣れている、貴族の令嬢だ。着ているものは商人の娘みたいだが、間違いない。


「すまない。もっと周囲に気を配るべきだった。怪我は無い?」

「ちょっとお洋服が汚れただけ。帰ったらお洗濯してあげるから大丈夫」

「人形じゃなくて、君の方は?」

「え? 私?」


 きょとんとされた。自分について訊かれていたとは全く考えていなかったらしい。俺に言われてから、やっと、自分のスカートについた土を払い、身体のあちこちを確認し始めた。


「大丈夫みたい。そっか、私のことを忘れていたわ」

「自分を忘れるなんて、変わってるな」

「だって、私は、小さい怪我ならほっとけば治るし、痛い時は痛いって言えるわ。アンナは怪我しても痛いって言えないし、勝手に治ったりもしないでしょう? それに、そもそも自分から怪我したりしないもの。 怪我したら、絶対に私のせいなんだから、私が気付いて、気遣ってあげなきゃいけないの」


 俺は目の前の少女に見入っていた。少女の言葉は、父の言葉とどこか似ていた。


(なんだかすごいな。この子、同じくらいの歳か、年下かもしれないのに)


 尊敬する父と同じことを、自分の言葉で言える子供がいる。それは、ちょっとした発見であり、感動だった。


「大変! 八百屋のおじさんに置いていかれちゃう。では、失礼いたします」


 少女は、人形を抱えていない方の手だけでスカートをつまんで広げ、ちょこんと礼をすると、振り返りもせず走り去ってしまった。

 残された俺はまっすぐ前を見て、来た道を走って帰った。重かった足は、軽くなっていた。


 城に帰った俺は、それはこっぴどく叱られたけれど、まだ叱ってもらえる子供であることを感謝した。いつか、もう叱ってもらえない大人になった時、あの少女のように当たり前に、声なき人を思いやれるようになっていたら良いな、と思った。


 しかし、まさか、数カ月後に母が主催した園遊会で、早々にその少女と再会できるとは、思いもしなかったのだ。



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