エレナには内緒


 マリウスもマリウスだ。これはもう、出て行ってキレ散らかすしかない。私、そういうキャラじゃないんですけど!

 と、怒り心頭で立ち上がりかけた時、それまで黙って聞いていたマリウスが静かに口を開いた。


「口を慎め」


 一言だった。それだけで十分だった。

 しんと静まり返り、冷えた空気の中、マリウスの怒りだけが煮えたぎって揺らめくようだった。


「すみませんでした」

「飲みすぎたな。そろそろ帰れ」


 声は優しいながらも、まだ許してないぞ、と言いたげなマリウスの刺すような視線に、怯んだ男たちが背中を丸めてすごすごとフロアへ戻っていった。

 そして私は、その場にずるずるとへたり込んだ。


 ひゃー…… 怖っ! 怒るの初めて見た! 怖っ!


 見ると、マリウスだけその場に残り、手摺りに寄り掛かってぼりぼりと頭を掻いていた。さっきまでの怒りはどこへやら。「やっちまった」みたいな気まずさが漂っている。王太子である自分の発言の影響をよく分かっているマリウスとしては、たぶん、感情的になるつもりはなかったのだろう。大きな犬が項垂れているみたいだ。


 私は、立ち上がると、物陰からマリウスの前に歩み出た。


「今の怒りは、御自分がからかわれたことに対してでしょうか? エレナが蔑まれたことに対してでしょうか?」


 平素ならば話しかけたりなんかしない。だからだろうか、それとも、見られたくない場面に突然知り合いが現れたからだろうか、マリウスが狼狽したように見えた。


「あなたか。あれは普段特別には親しくない者たちなんだ。この機に俺に取り入ろうとしたのだろうが、失敗したな」

「マリウス様が砕けた態度で接してくれるからといって、不敬ではありませんか?」

「ああいう輩はよくいる。もう慣れた。しかし、エレナを侮辱するのは違うだろ」

「良かった。エレナは幼い頃からの友人ですから。悪しざまに言われて、黙ってはいられませんもの」

「ふうん。あなたは大人しいから我侭なエレナに振り回されているのだと思っていたが」


 バレてた。


「振り回されてもいますが。きちんと友達だとも思っていますよっ!」

「ははは。頬を膨らませたりもするんだな。あなたが感情的になるのを初めて見た」

「そうでしたかしら?」


 白を切ったが、そうだった。いつもはエレナの後ろにいるか、空気を読んで姿をくらますかで、マリウスと言葉を交わしたことすら初めてだ。


「俺は黙っていたほうが良かったかな。そうしたら、貴重なクリスタ嬢の怒る姿も見られた?」

「そうですね。その時は、マリウス様に対しても怒りが収まらないところでしたけれど」

「おっと。やっぱり、言ってやって良かった」


 顔を見合わせてくすくすと笑い合う。

 私は気付いていた。普段は一人称に「私」を使うマリウスが、「俺」と言った。それは、ほんの一握りの親しい者たちの前でしか使わないもの。エレナの前ですら使わないものだ。


 もしかしたら、エレナの前では嫌われないよう気を張っていて、私の前ではその必要が無いということかもしれない。けれど、エレナにも見せない一面を見せられて、特別に親しくなったと錯覚しそうになる。いや、完全に、錯覚していた。


「さっきの話で気になったのですけど、殿方は、結婚前にで練習なさったりするのですか?」

「そういう男も少なくはないな。……そんな、咎めるような目で見ないでいただきたい。案外、このことに関しては男の方が不安は強いかも知れない。不安というより、プレッシャーか。失敗したらその後の関係を大きく左右しかねないし。女性は基本受け身で良いが、男は動く側で、評価される側だ。初めてなのは一緒なのに、と思うかな。いや、だからと言って、決して、生身の女性を練習台にしようなどとは思っていないが、男の方でも緊張はするし、上手くいかせなければいけないし、それに、なにより、自分が慣れていないせいで女性を傷つけたら困る。女性は受け身で良いと言ったが、こちらは受け身の相手を一方的に攻める側で、緊張していようが、勝手が分からなかろうが、冷静に、傷つけないように、無理させないように、気付かわなければ…… という話で。ちょっと待て。何を話しているんだ。俺は喋りすぎていないか?」


 訊いてはいけないことだったらしい。途中からは大分あわあわと早口で捲し立てるような口調になっていたし、耳が赤い気がする。そりゃそうか。お年頃の童貞男子になんてことを言わせてしまったのか。


 喋りすぎた! みたいな感じで、またも項垂れた犬みたいになるマリウスは、頭を撫でてあげたくなるような可愛らしさだ。実際には身長差がありすぎて、少し屈んでもらわないと頭に手が届かないが。


「では、さきほどの方たちの言うことは、まんざら外れてもいませんでしたのね」


 くすくす笑って言うと、咎められなかったことに安堵したのか、マリウスが顔を綻ばせた。


「そうだな。悔しいが、すぐに否定できない程度には言い得ていたな。困ったことに」

「マリウス様が不安を払拭したいなら、練習台になりたい女性はたくさんいそうですが。ああ、でも、そんなことできませんわね。お相手が、黙っていてくれるとは思えませんもの」

「そういうこと。この話はこれで終いにしましょう。今の話はエレナには内緒にしてください」

「お手伝いしてさしあげましょうか?」


 私の言葉に、マリウスが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。たぶん、本当に意味が分からないのだろう。


「私、マリウス様と何かあっても、絶対に口外しない人間を知っています」


 本当に分からないのか、察しがついたけれど、まさかエレナの背景みたいな地味な女がそんなこと言うとは思えなかったのか。マリウスは目を見開いて固まったまま、言葉を失くしていた。


「私はエレナの友人ですから。……エレナには内緒にしてください」



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