五章 神主の憂鬱は梅雨の如し
持ってはならなかった興味
神守町は標高700m程の高さの上にある町で、3000m級の高山も含む山々に囲まれているのが特徴だ。
6月に入り、山の表情がまた変わった。アルプスの雪はどんどん溶け、山頂付近も山肌の方がよく見えるようになった。そして梅雨時に相応しい曇り空の日になると雲の中に消え、その存在を完全に隠される日もよく見かけるようになった。
朝6時。遠くから聞こえる鐘の音と重なる、枕元のスマホからの電子音。風遥はアラームをさっさと止めて起き上がると、眼鏡をかけて布団を畳み、縁側へ向かう。
「…………」
昨日寝る時はしとしとと雨が降っていたが、今の空模様はどうだろうか……雨戸が閉まっている状態では、雨の音は聞こえない。
不思議なもので、神守町は夜半から明け方にかけて雨が降っても、何故か朝になると止んでいることが多い。明日は雨かだなんて思いながら寝るも、翌日になると地面が多少濡れている程度、となっていることの多い事。
そんな曇天の朝の里山の中腹には千切れ雲や層雲がかかり、手を伸ばせば届きそうなほど。
寧ろ、神守神社がその雲に覆われることもあり、そうなると……
「……!」
雨戸をあけた直後、もわっとした湿気と、煙のような薄灰色の靄がまとわりつくように屋内に流れ込むのでさっさと窓を閉める。
今朝の天気は霧。暫くすれば晴れるだろうと思いつつ着替えを済ませ、洗面台で身だしなみを整えてから台所へ。
風遥が神守町に移住してきて2カ月が経過。1人暮らしにも慣れてきて、このような寝起きルーチンが出来上がりつつある。
「おはよう、風遥」
そしてダイニングテーブルには既にレヴァイセンが座っており、手を挙げて挨拶。
……先月中頃、晴市の一件が終わった後少ししてから、突然レヴァイセンが朝に居所に入って来るようになった。最初は入口の戸をノックして玄関から入ってきていたが、最近はそれも省略されている。
理は気象によってコンディションが作用されないとはいえ、雨に降られるのは嫌なのかもしれない。
「ああ、おはよう」
これも慣れた光景になったので風遥も特に動揺することなく応じつつ、冷蔵庫から卵を取り出す。
風遥の朝食はこのところ、メインに目玉焼きを用意し、あとは昨夜の残りの白米と味噌汁、それから香月に定期的にもらう漬物で固定されつつある。ひなた園にいた頃に比べると何とも味気ないものだが、今は手の込んだ朝食を作るよりも効率的に済ませたいのでそうなっている。
「いただきます」
きょうだいからすればさぞ質素に見える朝食を、あの頃の礼儀そのままきちんと手を合わせてから食べ始める。
「おう」
レヴァイセンは丁寧にそれに返事をしているが、別に彼が何か作ったというわけでも無いので妙な光景だ。
「「…………」」
初めてレヴァイセンが着座してから席順は特に変えていないので、相変わらず風遥の隣がレヴァイセンの席。
風遥は食事しながらテレビからの情報を得たい時に一番見やすい場所に座っているので動きたくなかったし、レヴァイセンもレヴァイセンでこの席が兼ねてより固定なので動く気は無さそうなのだ。
最も命令すれば動いてくれただろうが、元々広めのダイニングテーブルだし、レヴァイセンの席には何も置かれていないしで、別に不便は無かったのでそのままになりつつある。
「……なあ、風遥」
「ん?」
そうしてまず目玉焼きを食べたところで、レヴァイセンが声をかけてきた。普段なら食べ終わるまで何も発しないのだが。
「おめー、毎日その料理を食べてるよな。
そんなに美味いのか?」
「これか? 特段美味しいというわけでも無いが、飽きも来ないからな。
卵は栄養も豊富だって、園長も言ってたし」
ついでに価格も安定的なので助かっているが、別にそれは美味しさには関係ないので伏せておく。
「…………」
レヴァイセンの視線は食べかけの目玉焼きが乗る皿に向けられている。怪訝、というよりも興味がありげな様子だ。
「……食べてみるか?」
なのでいつかと同じように、すっ、と皿を差し出してみる風遥。ただそれは断られることを前提とした、冗談に近いノリだ。何より食べかけを出されても嬉しくないだろう。
「っ!!」
しかしその途端、レヴァイセンは目を見開き背筋を伸ばした。一瞬だけ耳と尻尾がピンと立ったのだから相当だ、思っていた以上に興味を惹いているらしい。
「い、いや、理は食事なんていらねーし……」
「相変わらずだな、あんた」
ただ直ぐにそっぽを向いてそう否定してきたので、風遥は言葉ではそう言いつつも胸中で笑う。いや、表情もすでに微笑んでしまっているか。
「ま、まぁ……全く興味が無いわけじゃ、ねえけど」
現にちらちらと目玉焼きの方を見るレヴァイセンがおかしくて。その分かり易すぎる要求に応えようと、風遥はレヴァイセンに向かいニヤリと笑う。
「なら明日作ってやる」
「ほ、ホントか!?」
前のめりになりながら風遥を見るレヴァイセン。耳と尻尾がまた立った。
「ああ」
ひとつ頷く風遥。食事は不必要とされている以上卵が1個無駄になるといえばそうなのだが、それ以上に好奇心が勝った瞬間でもあった。
「……それで、あんたの今日の予定はどうなっている?」
食事を終え、片づけを終えたところでテーブルに再び着座し今日の予定を確認。休日なので祓廻りは無いし、社務所を開ける必要性も無いが、レヴァイセンが空いた時間に何をするかは神主として把握しておくべきだろう。
「おう。午前中は結界を修復しに行くぜ! あちこちあるから、帰ってくるのは昼頃だな」
「そうか」
そう返しつつふと、“結界”というのが何なのかが気になった。いや、概要としては知っているのだが、その実態を見た事が無いのだ。
璞の観察をするようになったと同時に、理への興味もまた湧いてくるようになった。それは、神主が知る必要のない仕事についても含まれている。
「……なあ、結界ってどうやって修復してるんだ?」
なので試しに聞いてみると、レヴァイセンは不思議そうに小さく首を傾げた。
「どうって……そのまんまだけどよ?
結界に綻びがあると、黒い靄のようなものが溢れるからよく分かるんだ。んで、その靄は狭間……おめー達の世界に悪い影響を与えちまうから浄化して、最後にその綻びを閉じるんだ」
レヴァイセンの言葉を想像する。結界は壁のようなものと確か智秋が言っていたので、その壁に穴が開いているのを塞ぐような感じなのだろうか。と言う事は……
「……つまり、隙間から璞の世界が覗けたりするのか?」
世界を隔てる壁というのがどんな様相なのかにもよるが、靄が溢れているところを浄化してから綻びを閉じるまでの間に見える光景を覗き見してみたい、という少し危険な好奇心が発露する。
しかしその期待はレヴァイセンが手をひらひら振ったことによって即座に打ち消された。
「綻びっても、そんな明確なもんじゃねえよ。
それに、仮に向こうが見える位綻んでたら、こっちは大変なことになってるぜ?」
「そうなのか」
「ああ、それこそ13年前の時みてーに……」
そう言いかけたレヴァイセンだが、はっ、となって口をつぐんだ。
「……どうした?」
何か思い出したのだろうか。しかしレヴァイセンは目を伏せつつ首を横に振った。
「いや、おめーが、嫌な思いしてねーかなって……」
発言は事実や正論であることを是とし、受け取り側の気持ちは考慮しない理にしては、妙な気づかいをされたので今度は風遥が首を傾げる番となった。
「俺は当日の事は殆ど覚えていないに等しいから気にならん。
ただ、それ位大変なことになるんだなってのはよく理解できたぞ」
「……なら、良いけどよ」
「というか、あんた達理もそう言う気づかいをするんだな」
そう言って風遥はふと微笑みかけるも、
「え? いや……」
自分が何故そう言ったのかよく分かっていないらしく、レヴァイセンは少し戸惑ったように俯いた。
「ひとまず結界の修復については理解できた。ありがとうな」
町全体に張り巡らされた結界の保守作業は恐らく1人で行う訳で、それはさぞ大変なことだろう。欲を言えば実際に修復するところを見てみたいが、流石に仕事の邪魔になってしまうから叶わないか。
「………
もし気になるなら……ついてくるか?」
「良いのか?」
ところが顔を上げたレヴァイセンから思いがけない提案を受け、風遥は目を丸くする。
先ほどレヴァイセンが前のめりになった程のオーバーさは無いが、まるで心の声を読み取られたかのようでドキドキしている。
「ああ。俺が仕事してるとこ、風遥に見てもらうのも悪くねーしな」
「分かった。じゃあ支度するから、あんたは外で待っててくれ」
「おう、分かったぜ!」
ひとつ大きく頷いてから、レヴァイセンが光球化して外に出て行った。
なら早速自分も支度をしようかと立ち上がった、直後――
『風遥』
頭の中に響いてきた呼びかけは、風臣の声だ。
(父さん?)
『あまり遠くまで行かないようにするんだよ。
私の声が届かなくなってしまうから』
前回話してからまた出てこなくなったが、なんだかんだで見守ってくれているらしい。
しかもそれは、さながら出かける前の子供に告げるような優しさで少し戸惑う。あの日の夜は声が届かなくなるどころか、もうすぐ自身の存在は消えるとさらりと言っていたというのに。
(分かった)
とはいえ確かに、以前氏子のフジヨシが璞に乗っ取られた状態で訪問してきた時も迅速で的確なサポートをしてくれた。結果としてレヴァイセンがシャットダウン状態だったので本当に助かった。それも、こうして見守ってくれていたからなのだろう。
『あと、出来るだけレヴァイセンの傍にいるんだよ。
綻びのある所は、それだけ力のある璞も出やすいってことだからね』
(うん)
……逆に、近くにレヴァイセンがいる時は一切何も言ってこないはずの風臣が出発前に声をかけてきたという事は、それなりに注意しなければいけないという事なのだろうか。
とすると気軽に同行して良いものでは無かったのかもしれないが、注意を促されども止められていないので、そのまま行くことに決めた。
これもまた、懸念よりも好奇心が勝った形になるのだが――
支度を終えて外に出れば、霧が抜けた曇天の空が広がっている。
雲の色は白いので、折り畳み傘の出番は恐らく来ないだろう。
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