旅立ちの日、その胸の内に秘めた色は――
風に時折暖かみが混ざり、道崎の桜のつぼみが膨らんできた3月末。ハクトは正式に神守町へ移住することになった。
それは同時に、13年間住んだこの施設――ひなた園からの退去を意味していた。
「…………」
旅立ちの日は、冬の寒さの和らぎを感じる実に穏やかな日だった。
全部の片づけが終わった部屋を、最後の確認がてら見渡す。
衣装ケースを含め空っぽになったクローゼット、教科書類が綺麗さっぱり片付けられた机や本棚、シーツも全て外されたベッド。
私物は真新しい黒のボストンバックにまとめられている。これは、卒業祝いにとスタッフ全員から貰ったものだった。
一方、不要となった制服類は置いていく。どれも極力傷めないように着用して来たので、3年着た割にかなり状態は良く、クリーニングすれば問題なく着られることだろう。
この真っ新な光景を眺めるのは、ハクトが中学入学に伴いこの部屋を宛がってもらった時以来。レースカーテン越しに差し込む朝日は、いつになく静寂な部屋に寄り添うように優しい。
――
(次は、誰がこの部屋を使うんだろうな)
今後ここは、社会に疲れた時の心の拠り所としての故郷となる。反面一般的な家庭の実家とは違うので、ハクトがこの部屋で寝泊まりすることはもう二度と無い。
家族に甘えることなく、着実に自立していく――それが“兄”としての最後の務め。……無論どうしようもない時は相談に乗ってもらえるが、あまり格好悪いところは見せたくないのでそこは多少強がってでも自立したいところではある。
ただ最悪、ひなた園のスタッフとして働く道が残されているので、全くもって退路を断たれている、と言うわけでは無いのは有難かった。
「……行くか」
寂しさは募るが、もう思い残すことも無い。ボストンバックを肩にかけ、ハクトは部屋を出る。
今回は前回の反省を踏まえてか、智秋がわざわざ車で迎えに来てくれた。
皆への別れの挨拶は前夜の卒業パーティーで済んでいたが、それでも正門前には皆が総出でハクトを送り出そうとしている。ハクトはそのひとりひとりにもう一度、手短に言葉をかけていく。養育者には一礼を添え、幼いきょうだいにはしゃがみ込んで目線を合わせながら。泣きそうになっている子には微笑んで頭を撫でて……一拍置いて、自分が咄嗟にこんな事をするのか、と内心驚いていた。
最後のひとりにそれが済んだところで全員を見渡し、もう一度深々と頭を下げる。
「お世話になりました」
顔をあげると、そのタイミングを見計らったかのようにジュンが駆けてきた。
「ハクト兄ちゃん、これ!」
きょうだいの代表か、手渡されたのはメッセージがぎっちりと書き込まれた色紙。
真ん中に大きく「ハクトお兄ちゃんへ」と白い文字を囲うようにして虹色に縁どられている。その周りには一人一人が好きな色のマーカーを使って、自由にメッセージを書いている。ある子は中心近くに堂々と大きな文字で、別の子は隅の方に控えめに小さな文字で。整った文字は養育者の代筆。覚えたての文字を使う子もおり、反転したひらがなも見え微笑ましい。それらの合間を縫うようにして、比較的ハクトと年齢の近いきょうだいと、大人からのメッセージが書かれていそうだ。
「……ありがとう」
これがいわゆる、ひなた園の卒業証書に相当するか――いつもは書く側だったそれが、とうとう貰う側になったのは何とも感慨深いものがあった。
「また帰ってきてね、ぜったいだよ!」
「ああ。落ち着いたらまた会いに来る。
……それまで、元気でな」
「うん!」
純真無垢な笑みに目を細める。この愛しききょうだい達が、これからも笑顔でいられますように。そんなことを願いながら後部座席に乗る。
「では、参りましょうか」
「はい」
エンジンがかかると、バイバイ、と子供たちの声が聞こえたので窓を開け、そっと手を振り返す。
「ハクト兄ちゃん、またねー!!」
ジュンが飛び上がる勢いで両手をぶんぶんと振っていたのが最後、曲がり角に差し掛かってその全てが見えなくなった。
名残惜しさと寂しさを断ち切るように、大きく息をつく。
「……寂しいですか?」
「まあ、それなりには」
智秋の優しい問いかけに、窓を閉めつつ答える。遮光フィルムの影響で、僅かに車内が暗くなった。
「最初は大変なことも多いかと思いますが、きっと充実した毎日にはなるかと思いますよ」
「だと良いんですが」
手にしていた色紙のメッセージを目で読む。下のきょうだい達については似たような文章が連なっているのもお約束と言えばそうだ。『遊んでくれてありがとう』『勉強を見てくれてありがとう』『卒業しても頑張ってね』と……ちなみにジュンからは『大好きなハクトお兄ちゃんへ たくさん遊んでくれてありがとう、宿題また手伝ってね!』と書いてあったので、それは自分でやれと内心でツッコみつつも、笑ってしまう。
血の繋がりは無いけれど最年長の兄であろうとしていたハクトを、きょうだい達は多少なりとも慕ってくれていただろうか。かつてのハクトが、兄や姉に対しそうであったように。
思えばひなた園は、子供たちの誕生日の他にも、四季に応じたささやかなイベントがあった。春のお花見や、夏の花火やそうめん流し、秋は畑の作物の収穫や焼き芋づくり、冬はクリスマスや餅つき等……
今になって、それこそ幼少からの思い出が巡りに巡って、じわりと目頭が熱くなってきて俯く。胸に広がるのは、締め付けられるような、けれどどこか心地の良い痛みのような何か。
(ああ……そうか……)
どうやら自分は自分が思っていた以上に、ひなた園での生活に思い入れがあったらしい。学校では全く起こらなかったその現象に、身を委ねて目を閉じる。
卒業していった兄や姉も、こんな想いでいたのだろうか――……
…………
「着きましたよ」
「……!」
智秋に唐突に呼びかけられてはっとなる。色紙を抱えながら寝てしまっていたらしい。
「では、車を置いてきますね」
「あ、はい」
車から荷物を降ろして、深呼吸。こちらも穏やかな晴れの日ながらも、まだところどころに雪が残っている為か、道崎よりも少し冷えた空気が身体を包み込む。
「…………」
これからの住処となる町を見下ろす。あの時は景色を眺める余裕などこれっぽっちも無かったが、こうしてみるとなかなか良い眺めだった。駅舎を始めとする建物や田畑だけでなく、車も何台か走っているのも見えた。
しかし何より目を惹くのは二色の冬山。低い黒の山々の奥に悠々と聳えるのは、白の山脈。二層の山々がまるで町全体を見守るように、視界の端から端まで広がっているのだから圧巻だ。
「雄大ですよねえ。ここからの景色は、神守町の中でも程よい絶景だと私は思っています」
視線が山に向いていると気づいたか、戻ってきた智秋がそう語りかけてきた。
「……ええ、そうですね」
胸中を代弁するかのような智秋の言葉を肯定する。
(……綺麗だな……)
雪が光に反射してか、青空によく映えている白に感嘆を零す。少し眩しささえ感じさせるその頂にやけに惹かれてしまうのは、その「色」に親近感を覚えたからなのかもしれない。もっとも、雪はいずれ溶けてしまうのだが。
「風遥神主!」
すると、“風遥”を呼ぶ声が耳に入ってきたが、自分に向けられたものであると理解するのには一瞬の間が必要だった。やはりそうすぐに気持ちが切り替わるものではないかと思いつつ鳥居を見上げるも、そこには予想していた人物はいなかった。
「レヴァイセン?」
「こちらに」
「!」
直後、すぐ隣から声が聞こえてギョッとしてしまう。視線を落とせば、最初に会った時のようにレヴァイセンが控えていた。
「風遥神主、貴方様のお戻りを心よりお待ち申し上げておりました」
そう言うレヴァイセンの声は以前よりもテンションが高い。気のせいか、ふわふわの金の短髪も、そこから覗く犬耳の毛の艶も、以前より良いように見えた。
「……どこにいた?」
「はい。ちょうどこの通りの桜を見てきておりました」
ただ見上げる表情は相変わらず無に近いが、前と違い空色の瞳はしっかりとこちらを見据えている。
「? 何でだ?」
「風遥神主が桜を是非見たいと仰っておりましたので」
「……?」
何のことだ? と首をかしげて思い出す……桜と雪山が織り成す絶景についてだ。
確かに見てみたいと言ったが、それは満開の桜であって、咲きたての桜一輪ではない。しかもこの言い方だと、自分は桜を見たことが無いと誤解しているかもしれない。
ただ、そのことを正確に説明するにはまた労力がいるかもしれないので、今はとりあえず相手に合わせることにする。
「あぁ……それで、咲きそうなのか?」
レヴァイセンは首を横に振る。
「いえ。一番早い木の桜でも、まだまだかかるものと思われます。例年ですと、4月下旬が開花時期となっておりますゆえに」
「まあ、咲いたら教えてくれ」
「はい」
そう言ってバッグを持って歩き出せば、ひとつ頷いたのちレヴァイセンも後ろからついてくる。
神守神社の手間、幅の広い用水路にかけられた小さな橋を渡り、コンクリート舗装された階段を一歩一歩踏みしめて歩く。
そこを駆け抜けるように一陣の風が吹き抜けていった、刹那。
「!?」
一瞬だが自分の身体が発光したのが目に入り、思わず立ち止まって手をまじまじと見やる。
色は変わらず真っ白の自分の手のはずなのに、今までとは違うのが分かる。言葉では形容しにくいのだが、熱が上がったような、何か手に“気”のようなものが纏われたような、そんな不思議な感覚なのだ。
――あの時の「力」が、また自分に宿ったという事だろうか。
「……神主、か」
ぽつりと呟く。自分事であると認識するには、まだ少し重たい。ただ気持ちは何故か軽やかで、進む足取りもまた軽かった。
雲一つない青空と、輝く白雪の山々のような真っさらな心持の中、
霜月ハクトの――“神森風遥”としての人生が、始まろうとしている。
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