明日の行方が変わった日の空の色は、昨日と変わらぬ茜色

 目が覚めれば、いつもの天井……では無かった。

 静まり返った部屋で、布団のようなものをかけられているようだ。ただ、眼鏡は外されているので周りははっきりとは見えず、妙な緊張感に体が張る。

「ハクト君」

 声の方に顔を向ければ、正座している智秋がいた。普段の穏やかな雰囲気こそそのままだが、こちらを心配そうに伺っている。

「智秋さん……」

 安心感からかふっ、と余計な体の力は抜けるも、心がなんだかぞわぞわしている。

 彼は霜月ハクトとしての意識を明確にする人物であるはずなのに、変なせめぎ合いが起きているのだ。

(俺は……“誰”だ?)

 言葉にすればとても呆気ない、けれどずっしりと重たい自問自答。

 いや、あの時確かに自分は神森風遥としての生き方を選択をしたが、かと言って霜月ハクトが消えたわけでもなく――そんな、自分の在り方としての、疑問。

「それとも……風遥君、と、お呼びした方が良いでしょうか……?」

 こちらの硬直に何かを察したか、智秋もおずおずとそう尋ねてきた。ただ、“風遥”はまだしっくりこない。

「……まだ、ハクトで良いですか……」

 なので、首をゆっくりと横に振って今の自分はハクトであると主張すれば、あれほど不協和音を奏でていた心の雑音がふっ、と消えた。

「分かりました。

 ……お加減の程はいかがでしょうか?」

 そう言われゆっくりと身体を起こすと、智秋が眼鏡を差し出してきたので掛けた。見知らぬ和室の中、腕を回すなどして不調を探るも、痛みが走ったり、頭がくらくらするといったことは無かった。

「………

 特に問題は無さそうです」

 ただ、先程の出来事が思い起こされれば思い起こされる程、不機嫌になっていくのは避けられない。謎の璞に絡まれ、追いかけられ、助かったと思ったらそんなことも無く、その場の衝動だけでよく分からない役を引き受けてしまい……。

 確かに勢いはあった。あの時は「そうしたい」と強く思った。ただ、いざその興奮が完全に冷めれば、全部まとめて強い後悔に変わってしまう。

 柄にもない事をした、だけでは済まされない。取り返しのつかない決断をしてしまったのだ。

 ……今日ここに来なければ、こんなことにはならなかっただろうに。

「ま、とんだ目に遭いましたが」

 結果、嫌味な口調になってしまった。しかし行くと決めたのはハクトである以上、智秋からすれば理不尽にも程がある。

「それについては本当に申し訳ないです、すみません」

 その上智秋は言葉通りの表情で頭を下げるので、振る舞いが子ども過ぎたことを恥じて視線を落とす。

 よく見れば布団だと思っていたそれは白いダウンコートだった、恐らく智秋のものだろう。屋内とはいえ暖房の無い部屋で待つのは、寒かったのではないだろうか。

「……智秋さんは、悪くないです……」

 小さく呟く。責めるべきは自分を襲ってきた異形の女であって、決して彼のせいではない。

「僕としても、このような強引な形での継承にはしたくなかったのですが……」

「……そうですね。そこについては本当に不本意です」

 ただ、思ったままをストレートに言う事だけはやめない。そうやって言葉にしないと、気持ちの整理がつかない。不満の受容は、抑圧するのではなくまず全てを吐き出すことから始まる――そう教えてくれたのは、他ならぬ目の前のカウンセラーだから。 

「でも、これも全部あの璞のせいです。せめて智秋さんがいてくれれば、また何か変わってたかもしれませんが……」

 視界の端でぴく、と智秋が一瞬肩を震わせる。過ぎたことではあるが、もしも……が止まらない。不毛さを嘆く溜息が、智秋の重苦しそうな吐息と重なった。

「……それを防ぐための、足止めだったのかもしれません」

「! まさか、倒木は……」

 小さく目を見開いて身を乗り出せば、智秋は一つ頷く。

「ええ。恐らくあの璞が起こしたものです。明らかに人為的に切り倒された木が置かれていたそうですから」

 あの璞は、最初から風遥を出迎える為にあそこにいた。望む再会の為なら、他の人間に迷惑が掛かろうがお構いなし、という事か?

 嫌な笑顔が脳裏に浮かんで身震いする。捕まっていたらどうなっていたのか、考えたくもない。

「……何なんですか、あの璞は」

「詳しくは分からないのですが、黒兎と女性の姿に変化するところから、黒兎の璞こくうのあらたまと呼ばれています。

 ……どうも神守町を気に入っており、代々の神主を困らせていたようです。最も、例の一件以降、その姿は見られなくなったそうです」

 そう言うと智秋は苦しげな溜息をつき、右手で頭を抱える。

「ですが、貴方から“妙な璞が駅前にいる”とメールを頂いた時、嫌な予感がしたのです。もしかすると、あの璞ではないか、と」

 目を閉じて、小さく首を横に振る。

「それを確認しようと何度電話しても、繋がらなくなってしまい……」

 そう言われてふと思い出しスマホを取り出すと、なんと何事もなかったかのように画面が点灯した。充電の値も十分で、もはやハクトが意図的に電源を切っていたのではないかとすら錯覚する。こちらとしては、すがりつくようにボタンを長押ししていたはずなのだが。

(もう、よく分からんな……)

 しかしあの空間の異常さ、そしてその後ファンタジーのようによみがえった様を見るに、もはや理屈では説明できない何かが働いていてのことだったのだと思った方が納得がいく。

「貴方が無事で本当に良かったですが、一体どこから今日の事が知られてしまったのか……こちらの不手際で、本当に申し訳ないです」

 深々と頭を下げられる。目の前に最大の被害者がいる手前態度にはしていないだけで、彼も彼で、相応に参っているようだった。

「……智秋さん……」

 そうなればもう一度溜息をつくしかない。

 ……それは不満や嘆きを伝えるものでは無く、起きた出来事を前向きに捉え直すための区切りとして。

 

「大丈夫ですよ。

 最後は、俺が決めたことですから」


 結局そこに帰結するのだ。自分が選んだことに対しての責任は、自分で取らなくてはならないと。

 自分じゃどうしようもならないことに振り回されてきた今までだからこそ、せめて自分の意思で決めたことについて、これ以上ケチをつけたくはない。

「ハクト君……」

 そうしてひとまずの切り替えが済めば、気になったのがこの場にいない“彼”の事。辺りを見渡すが、それらしき姿がない。

「……そう言えば、あの狛犬はどこに?」

「狛犬……レヴァイセンの事ですか?」

「ええ」

「――こちらに。風遥神主」

「!」

 声と共にすぐ横からほのかな明るさを感じたので見てみれば、白熱灯のような色の光球が浮いていた。そしてそれが変化し、狛犬、レヴァイセンが跪く形で姿を現した。元々光球の形で隣にいたようだが、意識していなかったからか気づかなかった。

「あんたも問題なさそうだな」

「はい。ひとえに風遥神主のお陰でございます」

 本当にそう思っているのか疑われそうな棒読み具合。ただ、窮地に陥っている時も声は冷静だったから、平時となればこんなものなのかもしれない。

「……次はさっさと追い払えよ。もうあんな思いはしたくない」

「善処致します」

 そしてまた無茶な要求をしているなと思いつつも、丁寧に狛犬は頭を下げた。


 話がひと段落ついたところで、智秋にここはどこか聞いてみると神守神社内の住居だった。どうやら智秋が今日の為に鍵を預かっていたらしい。それと、飛ばされた帽子も見つけてくれたようだ。

 しかしすっかり予定が狂ってしまったが、これからどうすればいいだろうか。

「……それで、俺はどのくらい寝ていたのでしょうか」

 聞いてみると、智秋が腕時計を確認した。

「間もなく16時ですので、2時間ほどでしょうか。今日は何時に戻るご予定でしたか?」

「18時ですね」

 思っていたよりも時間は過ぎていた。道崎までは電車で1時間ほどの距離、かつ電車の本数も多くないので、ゆっくり話すのは出来なさそうだ。門限を過ぎるのは好ましくないし、何よりも今日はもう帰りたい。

「では、また日を置いてお話ししましょうか」

「そうします」

 なので、その提案に頷く。少なからず、最終的に行きつく部分については(互いに意図しない形ではあるが)達成されたので、ある意味予定通りと言えばそうだったのかもしれない。

「……真見神主、“道崎に戻る”とは?」

 すると、脇からレヴァイセンが智秋を覗き込んで聞く。

「そのままの意味です。先ほどお話しした通り、まだ彼には“霜月ハクト”としてやらなければならないことがあるのですよ」

 独特の呼び方や二人の会話の内容、その距離感からして何となく智秋の別側面が見えたが、話の腰を折るわけにもいくまいと今は黙っておく。

「そうですか……」

 ――すると、その瞬間、レヴァイセンからはっきりとした表情の変化を読み取った。

 僅かに下がる眉、伏せられた瞳、小さく引き締められた唇……不安のあらわれ。

 あからさまな落胆とは違うわざとらしさのなさ。よく見れば犬耳も垂れているあたり、やはり表立って出てきにくいだけで、内面では人と同じような感情が機能しているようだ。

「………」

 レヴァイセンの事を慮る。13年と言う長い間どういう状況で待っていたのかは分からないが、その時のようにまた風遥がどこかに行ってしまうのではないかと言う思いが先行するのは当然か。

 あるいは、信じられないところもあるのかもしれない。待ち望んでいたであろう主は全てを忘れ、完全に別人になってしまったのだから。

 ……築くべき信頼の為に、最初にかけるべき最適な言葉はなんだろうか。少し考えて、端的に伝わる表現を用いることにした。

「安心しろ、また戻る」

「いつでしょうか?」

 が、それだけでは足りず、具体性が欲しいようなのでまた少し考える。卒業式、引っ越しの準備、手続きの類やその他色々考えると、やはり……

「4月だな。それが一番区切りも良いだろうしな」

「4月は30日間存在していますが、日はいつになりますでしょうか?」

「早ければ早い程だが……これは今の俺には決められないな」

「何故ですか?」

 ……まさかここまで詰め寄られるとは思わなかった。中々融通の利かない性格らしい。この感覚、好奇心旺盛な幼いきょうだいに質問攻めに遭っている時に似ている。

「……引っ越すための手続きは俺一人でどうにかならないものの方が多いし、俺自身も初めてだからよく分からないこともある。だから今ここで俺が適当に日付を決めて、それを守れないのは嫌だし、あんたも困るだろ?」

「では、私に何か手伝えることはありますか? 必要とあらば、道崎市まで同行いたします」

 ようやく納得のできる理由を伝えられたと思ったのだが、また違ったベクトルからの詰め寄り方には流石に閉口する。

「いや、それは……」

 本人に悪意は無いのは分かっているが、正直ついて来られるのは困る。自分でもよく分かっていない事が多すぎて、周りにどう説明すればいいのか皆目見当もつかない。それを、神森風遥ならまだしも、霜月ハクトに持ち込まれるのは大変面倒だ。

「レヴァイセン。お気持ちは分かるのですが、貴方まで神守町を離れるわけにはいきません。

 ――彼が戻ってくるまでの間、誰が町を守るのですか?」

 そうして回答に窮していると、智秋がとても的確な助け舟を出してくれたので助かった。

「! ……それは確かに私の責務ですね。

 風遥神主、失礼いたしました」

 すると深々と頭を下げられて先とは違った意味で困惑する。

「いや、良いんだが……」

 さっきまであんなに必死になっていたように見えたのだが、随分と切り替えが早くこちらは完全に置いていかれている。やはりこの辺りは人間とは違うようだ。


 時間と安全性を考え、智秋が車で送ってくれることになった。ただ神守神社には駐車場が無く近隣に停めているそうで、夕暮れ時の町を見渡しつつそれを待っている。

 建物と田畑入り混じる町並みの向こうにどっしりと聳える雪山の連なりは、それぞれの左側の斜面に夕日が当たって白とオレンジ二色になっている。

 急斜面を登った先にある神社なので階段を下りてもまだ十分に高さはあるが、景色が良い反面転落を防止する柵などは一切ない。

 すると、道沿いに同じ木が何本も植えられているのに気が付いた。花も葉っぱも無い黒っぽい茶色の幹に、横筋の多いざらざらとした木肌……近づいてみれば枝に蕾が多くついている……

「……桜の木か?」

「はい。この通りは神守町内の桜の名所だと教えられています。

 年によっては山々の残雪と桜の開花時期が重なり、快晴時は非常に美しい景色になると先代様が仰っておりました」

「そうか……」

 何となく呟いただけなのだが、レヴァイセンが丁寧に解説してくれた。その言葉をなぞらえながら、遠景の山々の白雪と快晴の青空に、満開になった桜の淡いピンクが映える様子を想像する。

「それは確かに絶景だろうな、一度見てみたい」

「…………」

 今年じゃなくとも、一度くらいはその機会に恵まれるだろうか……そんなことを考えながら佇むのを、じっ、と狛犬が見つめている。

 やがて智秋が車に乗って戻ってきて、後部座席のドアを開けてくれる。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 助手席だとどうしても人目が気になってしまうので、自然と後ろを案内してくれた智秋の気遣いがありがたい。

「じゃあ、また4月に」

 乗る前にレヴァイセンに向かって声をかける。

「はい。お待ちしております、風遥神主」

 そう言って一礼するレヴァイセンの表情に、先のような不安は見受けられなかった。

 ただ、言葉通りの感情が乗っているかどうかと言われると、真顔かつ抑揚のない声からそれをくみ取るのは難しい。

 ……が、よく見ると耳はぴんと立っており、気のせいがそれが期待のような何かを伝えているように思えた。

 もしかして、と思ってさり気なく後ろを見てみると、尻尾も下がったままだがゆらゆらと揺れていて、隠しきれていない犬らしい仕草に思わず微笑んだ。

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