覚悟を告げた光風の色は、輝く白と若緑
「………
今ここで逃げたら、俺はもう――神森風遥には、なれないぞ」
右手を強く握り締める。それは自分に言い聞かせるための言葉でもあった。
『それも一つの選択であり、尊重されるべきことだ』
否定的な言葉にも理解を示す態度は、裏を返せば自分の意思で決めろという事でもあり、この手の物語によくある「考える間もなく流されていつの間にかこうなっていた」という展開は許されないらしい。
『故に逃げると決めたのなら、身の安全が確保される場所まで先導しよう』
「…………」
本当にそれで事が済むのなら、ここでこの怪異は終わり、霜月ハクトとしての日々に戻っていくことになるのだろう。
(……だが、俺には一生消えない靄が残る)
だから完全になかったことにはできない上に、再び同じような事が起きることも十分考えられてしまう。そうなればまた命からがら逃げなければならなくなるし、その時護ってくれる存在がいるとも限らない。
反面、神器を継承することで、ひとまずは自身に迫る脅威に抗う事が出来るようになるはずだし、あの狛犬も自分を護ってくれるはずだ。
しかし今までの“自分”ではいられない、と忠告されたことから察するに、退治する術を得ると引き換えに、その義務も課せられるという事なのではないだろうか。
(詰んでるな……)
置かれた状況に対し、眉を顰める。ようは、どっちを選ぼうが自分にとって不都合な変容は避けられないという事だ。
なら、何を基準にして、よりマシな方を選ぶべきか?
……不本意だが、覚悟は決まった。決まってしまったのだ。
「――神器はどこだ」
そう聞いた声音は自分が思っているよりも低く、もはや脅迫に近かった。
『……祭壇の奥にある扉の先に』
「そうか」
指定された場所の扉は、御簾がかけられしっかりとした作りになっている。今更ながらに屋内で土足という事に小さな罪悪を感じ靴を脱ぐか迷ったが、木片やガラスの破片が広範囲に飛んでおり危険なので、それらを避けつつ靴のまま歩く。
閂を抜いてそっと扉を押し開けると、渡り廊下のような狭い通路の向こうに、拝殿よりもかなり小さな社が見える。そこに続く通路はどこか輝いてすら見える程に綺麗で、荒れ果てた境内から切り離され護られているかのよう。
もしこの神社に“神”がいるとするならこの先だと直感し、自然と靴を脱ぐ程度には堅苦しい雰囲気。だが威圧感は無く、寧ろ導かれるかのように足取りは軽い。
『霜月ハクトよ、本当に進むのか』
「ああ」
背後から光球がついてきている気配を感じつつ扉の前で一度立ち止まる。神聖な空間を前にした緊張を、落ち着かせようと深呼吸。
「……失礼します」
目深に被っていた帽子を少し上げ、念のため断りを入れてから扉を開けば、そこは意外にもただの小部屋。狭い空間には祭壇の一つはおろか、窓すらない。
「……何だ……?」
しかし何故か、優しい明るさで満ちている。どこにも光源は見当たらないのに。
おずおずと踏み込むと途端陽だまりのような暖かさに包まれ、爽やかな風がどこからともなく吹いてくる。何と不思議な空間だろうか? けれど……
(……落ち着く)
自室、いやそれ以上の心地よさから目を閉じ、清浄な空気を体の隅々にまで行き渡らせようと深く息を吸う。胸が開き、顎がゆっくりと持ち上がったところでふーっ、と細く息を吐く。
『霜月ハクトよ』
泡が弾けるような唐突さで引き戻され、目が開く。
「……何だ」
あわや外で起きていることを忘れてしまいそうになっていた。その名残惜しさからもう一度目を閉じ、最後に一呼吸分だけの逃避を試みる。
『後悔しないのか?』
「するさ。どっちを選ぼうがな」
深い呼吸によって綯い交ぜになっていた感情が整ったか、ふっ、と力が抜けて笑みが浮かぶ。自嘲だが言葉とは裏腹に悪い気はしていない。
何故なら、窮地に晒されたことで覚醒した“自分”の意思が、生きるべく、そして助けるべく、はっきりとした行動を起こさせているからだ。
……閉ざされた目が、心の中を見つめている。凪いでいた
ずっと消極的にかつ出来るだけ無感情に生きていた人間にとっては、こんな感覚があったことに打ち震えているし、何なら泣いてしまいそうだ。
(俺が、俺でなくなるかもしれないのにな)
はじまりはあの狛犬の覚悟、それが他ならぬ自分に向けられていた事だ。ほぼ初対面の相手に迷いなく命を懸けられているというのに、このままでいいのか? 彼の必死さに揺さぶられ、奮起した。だからどうにかしたいとこちらも必死になった。
あるいは、空想の中で憧れていた展開が現実化する事への期待と畏怖も混じっていたかもしれない。とにかく、この危機の打破の為にならこの先の人生を懸けても良いと、そう強く思えたのだ。
……結果、運命が変わった。一度動き始めてしまったらもう、止められない。
「だったら……後は」
手袋を外して、目を開ける。そうして霜月ハクトの人生が主体性を帯びた瞬間、迷いなく手が伸ばされるのだ――神森風遥の、決意として!
「今、“俺”がどうしたいかだ……!」
虚空を照らす白き輝きが、流星のような軌跡を引きながら集っていく。
その中心を、白い手で力強く掴む。
――白き者よ
何にも染まらぬ強き白よ
幾星霜と紡がれし
我らが祈りを継ぎ給え
白き者よ
摂理の外より世界を結べ――
(……!?)
頭の中に何か言葉が飛び込んできた直後、突風が吹いた。
「うわっ……!」
帽子が吹き飛び、自分自身も倒れてしまいそうになるが、握りしめている手が強く引っ張られそれに抵抗する。
光が手の中で形を変えていき、収束したそれは実体となって握られていた。
その形は、神社でよく見かけるお祓い道具。ハタキを思わせるその正式な名前は……確か、
「……これが、継承……?」
誰に問うまでもなく呟く。風はもう止んでいるし、あの暖かさも感じられなくなってしまった。ただ、言いようのない緊張感と高揚感が残されている。
それに浸るようにぼんやりしかけたところで、自分が継承を決断するに至った経緯を思い出し直ぐさま部屋を出る。光球に何か言われるかと思ったが、見当たらない。
あの狛犬は、生きているよな? 通路を戻ったら靴を履いて祭壇の前を突っ切り、ガラスの破片も迷わず踏みつけ拝殿を出る。
「!」
遠目に見ても満身創痍の狛犬と、それを見下ろす位置にいる璞。先程の突風が外まで伝わっていたのか、どちらもこちらの方を見ており動いていない。
これ幸いと上の璞を警戒しつつ、狛犬の横へと駆け寄った。
「風遥……神主……!」
「間に合ったな」
まさか継承するとは思っていなかったのだろう、目を見開き驚きを隠しきれていない狛犬。その様子に微かにほくそ笑むも、浮ついた気持ちは一瞬。
神主として頭が切り替わった“俺”は、血の代わりに光が溢れだしているその肩を優しく叩いて労う。
「後は任せろ」
「はい……」
そう言って神社の中心へ歩みを進める。長い長い冬の眠りについていた神守神社に、春の目覚めを告げる為に。
その行動は自分の意思でそうするというよりも、神器によって動かされているような感覚に近い。何しろまず最初に何を行うかが既に神器から与えられているのだ。
未だ淀んでいる境内の空気を、躊躇うことなく大きく吸い込む。
それはいわば儀式だ。閉ざされたこの空間に神主の帰還を告げ、あるべき姿へと戻す、その言霊は
「
高らかにそう宣言し、神器で
神主が紡ぐ覚醒の呪文は、光を帯びた一陣の風となって神社全体へ広がっていく。
「……!」
息を呑む狛犬と共に神社を見渡し、その光の風の行方を追う。
春一番のような強風が木々を大きく揺らし、鬱蒼とした空間に光が差し込む。
手水舎の竹筒から水が流れ出し、参道を邪魔する草は風に舞い光となって消えた。
石畳の苔も同じように全て消え、土からは春を予感させる小さな緑が芽吹く。
拝殿のしめ縄は再び強く編み込まれ、植物のツタは全て吹き飛ばされ消えた。
「死んでいた」狛犬の像も、獅子の像も、息を吹き返したように綺麗になった。
狛犬が突き抜け大破した拝殿の屋根ですら、時を戻すように元に戻っていく。
やがて境内を駆け抜けた光も、神主の手の中の大幣も、風に乗っていくように静かに消えた。けれどそこには爽やかな空気の巡りがあり、どこからか清流の音や、鳥のさえずりが聞こえてきた。
――神守神社が、目覚めたのだ。
「……これは……!」
狛犬自身もその光風は癒しとなったか、傷は全て塞がり、光の粒子となっていた箇所も人の輪郭がはっきりと見られ、元の状態に戻っているのに驚いた様子だった。
途端、すん、と飛び上がると璞へと突進し、なおも動かずにいた璞に全身での一撃を叩きこんだ。その軽快な動きは、先までの戦いづらさを完全に払拭している。
璞はぐにゃりと人の骨の構造を無視した曲がり方で地面に叩きつけられ、神主はその不気味さに顔を顰める。しかし璞は直ぐに何事も無かったかのように立ち上がり、狛犬の追撃をひらりとかわす。そして、着物の裾を手で払ってから、一つため息。
「ああ……居心地悪くてしゃあないですわあ……。
ほな、わえはここらでお暇しましょ」
そう言って艶めいている女性のような笑顔を浮かべ、くるりと背を向ける璞。
「待て!」
「いい、追うな」
それを追おうとした狛犬を手で制すことが、神主としての最初の命令となった。
「ですが……」
「今は追い払うだけで十分だ。深追いはしたくない」
「……承知致しました」
狛犬は些か不満げな表情を見せるも、主の傍へと引き下がる。ただ臨戦態勢はそのままで、璞を睨み牽制することは止めない。
「また会いましょう? 神主さん……」
やがて鳥居を出て振り向いたそれは、空間に溶けるようにして消える。その不気味な姿が消え、あの嫌な臭いも無くなり……気配が一切無くなったところで漸く安心できて、ふーっと細く息を吐く。
「……終わった……」
極限状態に追い込まれていた事と、その中である種の“転生”の決断をした事。その二つの興奮が引いていく代わりにどっと疲れが押し寄せてきて、地に引っ張られるように座り込む。
「風遥神主」
狛犬は主に視線を合わせるように腰を落とすと、両手をそれぞれもう片腕の袖口にいれ恭しく頭を垂れた。
「記憶なき中のご決断、誠に幸甚に存じます」
「まあ、非常事態だったからな……それで、あんたは?」
半ば我を忘れていた衝動性に微苦笑しつつ、これから長い付き合いになるであろう異形のものに聞く。
「はい。私はレヴァイセン。かつて我が師と共に神守神社の守護を拝命した
また出てきたよく分からない単語はさておき、とりあえず目の前の狛犬は和名では無いらしいが……何と言った?
「レヴァ……?」
「レヴァイセンです」
聞き返すも、やはり即座に耳から耳へ抜けていく。身も心も疲れ切っているから、理解しようとする気が起きないらしい。
「……そうか」
なので一旦名前を覚える事は諦めた。何しろもう頭が働かない。戦闘不能とはまさにこの事、会話ももう限界だ。
「私に出来る事でしたら、どうぞ何なりとお申し付けください」
「……なら少し寝かせろ。疲れた」
「はい」
ここがどこかなんて考えずに横になろうとしたが、それよりも先に狛犬が手を伸ばしてきて横抱きにされた。
「は……?」
それはあまりに自然な流れで、しかも軽々と持ち上げられたので一瞬何が起きたか分からなかった。
「……いや、普通に横になるでいいんだが……」
「地面に直接横たわらせるわけにはいきませんので」
「…………」
言っていることは分かるが、抱きあげられるのにはかなり抵抗がある。が、もうこれ以上抗議する気力も無いので諦めて目を閉じる。
遠くからハクトを呼ぶ智秋の声が聞こえた気がするが、応じる気力は無かった。
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