第22話

 その夏のブルックリンはとにかく暑かった。カズマはアーチスト仲間四名とシェアするアトリエに入り浸っていた。その頃はとにかくアイデアが留めどなく溢れて時間が足りなかった。真っ白なキャンバスはそれを形にできる無限の可能性を持ち、描いていない時は生きている心地がしないくらいだった。


 そうしたカズマの作品の幾つかは業界の中でも少しずつ注目を集め、コミッションとしての仕事も徐々に増えていった。そして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったマッド•ドッグから二人の個展をしようと持ちかけられたのだ。


 カズマは油彩筆と書道用の毛筆を使い分け、墨で日本語を書き殴ったグラフィティのいくつかを出品した。自分に決まったスタイルというのは無かったが、この種のグラフィティはアメリカ人からはエキゾチックに見えるのか、なぜか評判が良かった。


 マッド・ドッグの人気のおかげでオープニング•レセプションは満員だった。カズマは香水のブランドが提供する無料のシャンパンをがぶ飲みしながら、自分を有名にしてくれる人脈はないか、鋭く目を光らせた。営業戦略に長け交友関係の広いマッド・ドッグとは異なり、自分の周りには自分と似た境遇のアーチストの卵しかいなかったので、実際に業界を回している力と金のあるコレクターが集まるこのレセプションは千載一遇の機会だった。


 全身黄色のダブルスーツ姿に蝶ネクタイをした男が自分の絵の前で立ち止まると、カズマはハイエナのように駆け寄った。自分の記憶が正しければチェルシー地区の有名ギャラリーのキュレーターだったはずだ。


「その作品どう?」

 勢いよく近づくドレッド頭のアジア人に、男は多少面食らった表情で身を半歩引いた。


「独創的だけど、売るのは難しいかもね。今の時代にはちょっとはまらない。個人的には嫌いじゃないけどね。エネルギーあって」


 カズマは少し強めのトーンで質問を続けた。

「どんな時代だったらハマるの?どんな絵だったら今売れるの?」


 男は顔つきを引き締めた。穏やかな目の奥が鋭く自分をジャッジしているのはカズマの鈍感さを持ってしても自明だった。


「時代のニーズは自分でリサーチするのがアーチストとして最低限の仕事だ。ただ描きたい物を描くのがアーチストなわけじゃない。マッド・ドッグはクレイジーなふりをしているけど、人が今何を求めているか分かっている。実にクレバーだよ」


 男の目線の先にいるマッド•ドッグはライブペインティングをしている最中だった。真っ黒いキャンバスにスワスティカをデフォルメしたロゴや、KKKを彷彿させる覆面騎士など扇動的なイメージを次々に原色で足していく。


「現代アートでは文脈が全てだよ。オリジナリティなんてもう存在さえし得ない」


 男は数秒の沈黙の後「グッドラック」と言い残して立ち去った。


 芸術を作るのに文脈や歴史を勉強して計算して売れそうな所に意図的に当てる事が必要?父親がやってきた広告の仕事と何も変わらないじゃないかー


カズマは派手なアクションでペンキを壁にぶちまけ客を沸かせているマッド•ドッグを眺めながら肩を震わせた。


「ちょっと話していい?」

 カズマの強ばる背中を撫でるように穏やかな声がかかる。振り返ると若い女が急拵えの笑顔で立っていた。緑色の大きな瞳と彫刻のように高く尖った鼻―真紅の袖無しのワンピースに覆われた華奢な体と甘いコロンの匂いの混じった体臭はカズマの脳髄を刺激した。


「私の名前はシャーロット。ジャーナリストなの。あなたに取材がしたくて」

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