第14話

 商品を詰めてもらった薄いビニール袋は既に重さに耐えかねて破れかけ、プリントされたスマイリーフェイスが歪んでいる。エドウィンは買ったばかりのジーンズを犬の糞だらけの路上に落とすのだけは避けるべく、大事に両腕で抱えてカズマの後ろを歩いた。


 構わず歩を進めるカズマの目に、赤いスプレーペイントを振りかざす男の姿が映る。交差点脇に鎮座する大きな洒落たカフェの外壁に描かれているグラフィティはまだ三十%完成といったところで、原色だけの人目を引く色合いだ。必要以上に大げさで無駄な動作がカズマの鼻についた。後ろに結わえた白メッシュの長髪も今風だ。


 パフォーマンス重視の目立ちたがりアーチストーカズマは瞬時にそう判断を下し、この脚立に乗った道化師の顔を見ようと無警戒に近づいていく。


 そのオーバーオール姿の道化師はちょうど脚立から降りてきた。そしてカズマと目が合うや否や飛びつくようにカズマにハグをしてきた。記憶に淡く残っているその感触―カズマは怪訝に男の顔を覗き込んだ。


「カズマ、久しぶり! 生きてたのか?」


 それはこっちのセリフだ、カズマはため息をついた。マッド・ドッグ(狂犬)の名で通るこの男に会うのは合同展示会以来だった―シャーロットと初めて出会った三年前の夏のある日。


「あの展示会のあと行き詰まってニューヨークを出てベルリンに引っ越したんだ。でもイマイチ肌が合わなくて先月戻ってきたんだ。でこのクソまずいリカーの広告を描いてるわけさ」


 ニューヨークはいつだってニューヨークだ。この街を嫌いになり捨て台詞を吐いて出たのにしばらくすると戻ってきたアーチストは何人もいた。いくら街の表層が変貌をとげ地価が上がっても、他に居場所の無い捨て犬のような人間への寛容性は変わらないのだ。


「カズマはどうしてるんだ?」

 最近大きな仕事が入って忙しいと嘘をついた。

「それは良かったぜ。お前は売れると思ってたんだよ。オレ、あの合同展示の時にお前の絵ばっか注目されてたのが悔しかったんだ」


 意外な告白だった。その合同展示会は、いわば奴の人気に乗っかった展示会だった。絵はあまり売れなかったが注目を集める機会にはなり、そこから少しずつ仕事が来るようになったのだーその波も結局二年程度で終わるのだけど。


 マッド・ドッグはベルリンでの生活の事や自分の近況、現在寝ている女の事など尋ねてもいない話を機関銃のようにまくし立てると、突然糸が切れたように黙り込み、また今度ゆっくり話そうと一方的に会話を切った。やれやれ相変わらずだ。別れの握手を交わし、マッド•ドッグの絵に見とれているエドウィンに声をかけてカズマはその場を立ち去った。


「Dream On!(夢を見続けろよ)」

 別れ際に道化師が叫んだ陳腐な言葉は今のカズマに辛かった。本当の道化師は自分なのかもしれない。いつまでも距離感の掴めない夢を追い続けるのと全て諦めるのはどっちの方が難しいのだろう。ひび割れたアスファルトの地面が自分の重い足を吸い込んでいく。


「カズマさん、すごい人と友達なんですね!」

 無垢な目を見開いたエドウィンが尊敬の面持ちで声をかける。

「この程度の壁の広告くらい、俺だっていくつも…」

 カズマは言いかけて途中で言葉を止める。何を言っても負け惜しみだ。


「アートって結局何なんですか?たまにいいなと思っても、本当に理解しているのかわかんなくて」

「オレだってよくわかんねえよ」


 それは今まで幾度となくアーチスト仲間たちと交わしてきた、自分の最も嫌いな話題だったのですぐに切った。考えても出てくる答えはその都度違ったし、そんな事を語り合って得られる事など何一つない事に気づいた。


 無言の通りに中古レコード屋を見つけるとエドウィンは躊躇わずそこに入っていく。カズマは外に残って紙煙草を巻いた。寒さで手が悴んで中々巻けない。空を見上げると薄い灰色の雲の隙間から太陽が淡い冬の光を放っており、カズマはそれを真っ直ぐに見つめて秒を数えた。目が眩むまでに三十秒かかった。それから目を瞑り瞼の裏にできた真っ白なキャンバスに自由に色を塗ろうとしたが、想像の中でさえ自分の満足のいくものは描けなかった。


「待たせてすいません」

 カズマが二本目の煙草を吸い終える頃、エドウィンが戦利品を手に店から小走りに出てきた。カズマは吸い殻をアスファルトの上に落としマーチンのブーツで踏みにじると無言で足を進めた。エドウィンの追いかける足音が乾いた空気に響く。トンプキンスクエア公園は昔のまま浮浪者の存在が目立つ。この地域もここ数年で大分開発されたはずなのに、まだ粘り強くここに住み着く彼らの生命力を感心の気持ちで眺めた。


 二人は木のベンチに腰を下ろすと、エドウィンは待ちきれないようにレコードを小袋から取り出した。


「これはエレクトロニカの先駆者スロッビング・グリッスルの名盤『20ジャズ・ファンク・グレイツ』の限定盤。でこっちがニック・ドレイクの『ファイブ・リーブス・レフト』の一九六九年当時のプレス盤!こんな掘り出し物をあんな小汚い店で見つけると思わなかったです。ニューヨークってやっぱすごいっすね」


 このアルバムのジャケットは自殺の名所で撮影されただの、ニック•ドレイクがどれだけ不遇の人生を送っただの、珍しく興奮と共に語られるエドウィンの話をBGMのようにぼんやりと聞きながらカズマは人のまばらな冬の公園の景色を眺めた。禿げ上がった木々の枝は空中の様々な方角に手を伸ばしている。


 ふと向こうから老人が杖をついてこっちに歩いてくるのが目に入る。深い皺が刻まれ血色の悪い小さな顔とアンバランスな大きな胴体のこの男におかしな気配を感じ、カズマの表情がこわばった。


「カズマさん、行きましょうか?」

 エドウィンもこの浮浪者に気づくと怯えた様にカズマを覗きこんだ。カズマはまるで白昼夢でも見ているかのように、ゾンビのようにゆっくり近づいてくる男を目を逸らさずまっすぐ見つめている。


「A seeker(探求者)」

 男は二人の目の前で立ち止まると呪文のようにそう呟いた。斜視で白みがかった大きな瞳の瞳孔は開ききっている。


「オレに話しかけてんの?」

 カズマは男の目を見つめたまま返す。

「もちろん。手相をみてやる」

「いくらで?」

「いくらでもいいよ。俺は真実を伝えにきたメッセンジャーだ」

「いいね、真実、探してた。教えてよ」


 カズマは素直に右手を指し出すと、男は顔をしかめてカズマの掌を睨みつけた。刻まれた額の皺がさらに深く見える。男の視線は定まらずキョロキョロしたまま、薄汚れた手はカズマの手を掴んだまま動かない。不安そうな表情で状況を見守るエドウィンの方をちらっと振り返ると、男は自分の額を指で指して言った。


「オレはここに目があるんだ。盲目なのは君らの方だ」

 男は禿げ散らかった長い白髪をくしゃくしゃにかきあげカズマの方を向き直る。

「お前は既にそこにあるものをずっと探している。全く愚かだ」

 カズマは侮蔑にも近いため息を吐くと、男の肩を軽く叩き皮肉っぽく答えた。


「そうか、君は真実を知っている!俺は何も知らない!」

 男はカズマの言葉を置き去りにしたまま、今度はエドウィンの手をおもむろに掴む。突然触れるカサついた手にエドウィンは思わず女子のような悲鳴をあげた。


「世界はお前が開くのを待っている。真珠の貝のようにね。あとは周りの全てに耳を澄ませばいいだけだ」


 男は満足そうにニヤッと頬笑んで銀の前歯を見せると、その場を歩き去って行く。エドウィンは我に帰ると自分の肩掛けポーチからウェットティッシュを出して手をこすった。


「ニューヨークって変な人が多い街ですね」

「まあな。でも人間なんてみんな変なんだよ。ここではただ自分らしくあろうとしているヤツが集まりやすいだけさ」

 カズマは目を細めながら続ける。

「ここでは誰がどこから来て、どこへ行こうが関係ない。大事なのは今この瞬間。それが俺の真実。あんな浮浪者に知ったかぶりされる筋合いはない」


 カズマは胸騒ぎを落ち着かせようとまた煙草を巻き始めた。

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