第9話

 気づけば黒ビールのジョッキはもう既に残り半分になっていた。自社オフィス近くの雑居ビルの半地下にあるこのバーはいつ入っても落ち着いた静かな雰囲気で、ジェフにとっての隠れ家だった。ジェフは店内の奥にある薄暗いテーブル席に座っていた。入り口脇の丸い小窓から差し込む地上の午後の光が、夜の世界での未来との出会いの記憶をリセットした。


 店のドアから彼女のシルエットが入ってくるのが見えると、ジェフは慌てて目線を自分のテーブルに戻した。ハイヒールがフローリングをリズミカルに踏む音が近づいてくる。ジェフはできるだけ自然に顔をあげ、自分の目の前で足を止めた未来にちょうど今気づいたふりをした。化粧をしていない彼女はあどけなく未成年のようにさえ見えた。


「遅れてごめんね。人身事故で中央線が遅れたの」

「いや大して待ってないヨ。中央線のどこに住んでるの?」

 未来は艶のある頬を少し緩めた。

「武蔵境の方。武蔵境って知ってる?」


 武蔵って埼玉?ジェフは積み重ねてきた日本の幅広い知識の網を手繰りよせるが思い出せず、申し訳なげに首を横に振った。

「ところで、相談ってナニ?」

「何だっけ?」


 未来は誤魔化すように舌を出すと、勢いよく手を挙げて若い男のウェイターを呼んだ。形の整った鎖骨がワンピースの中で蠢く。

「すいません、コーヒーフロートあります?」

「申し訳ありません、そちらは当店にはないんです」

 ウェイターは少し不機嫌そうに業務的に答えた。

「え?でもアイスクリームとアイスコーヒーはあるでしょ?」

「ええ、ですが当店のメニューにコーヒーフロートはありません」


 未来は面倒くさそうにため息をつくとジェフの困惑した顔に気づき、笑いを堪えるようにウェイターに伝える。

「じゃビールください。この人と同じの」 

「ギネスですね。かしこまりました」

 未来は去っていくウェイターの縮こまった背中を眺めながら身を乗り出した。

「日本の接客って、言葉遣いばっか丁寧だけどマニュアルだけで融通効かない人多くてつまんないよね」

「そうダネ。日本は『こうでなきゃいけない』って事が多いよネ。アメリカも店にもよるけどネ」


 未来は頭に自分なりの理想国アメリカを描き、目を輝かせている。

「でもマニュアルとかルールとかって、若いときはつまんないけどそこに安心感もあるんだヨ。オッサンしかわかんないかもだケド」

 ジェフが咳払いをして尤もらしく言うと未来は大げさに笑った。

「ジェフって本当にお父さんみたい」

「お父さんだシ。未来ちゃんのお父さんはどういう人?」

「どっかいっちゃった。いる場所は知ってるけどもう会えないの」


 未来の顔に影がかかる。何かを押し殺したような瞳に、隠したい負の感情を垣間見た気がしてジェフは話題を変えた。

「アメリカにはいつ行くつもりなの?」

「あ、そうそう、その相談に来たんだった!」

 未来はちょうど運ばれてきたギネスのグラスをジェフのグラスに勝手にコツンと当てて一方的な乾杯をし、話を続ける。

「まだいつとかは決めてないよ。お金が貯まってからじゃないと。だからバイトもたくさんしてる。でも私英語全然喋れないからさ、英会話学校も行かなきゃだし。人生って大変!」


 ジェフはグラスに残ったビールを一気に飲んだ。

「英語なんて、行っちゃってから現地で習うのが一番だよ。僕もアメリカいるとき、日本語なんて全然話せなかったし」


 未来は驚いた顔をする。

「え、じゃあ日本語は奥さんから習っただけってこと?」

 妻の話題が出ると酔いが覚めそうだ。

「習ったって言うか、まあ、自然と」

「そうか、私もじゃあ英語喋る彼氏作るのが一番かなあ」

「そうそう!」

「ジェフが本当の私のお父さんだったらよかったのにな」

 俺が父親でいいはずがないよ、ジェフは心の中で呟いた。

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