第8話

高速二七八号線のミーカー通り出口を降りると、ブラウンストーンのアパートが建ち並んだ細い通りに出る。観光ガイドブックで見たままの、これぞブルックリンといったグラフィティまみれの建物の合間に新しいガラス張りの高層コンドミニアムが自己主張強くそびえ立っている。


巨大な灰色の建物の外壁には競い合うかのように多様なスタイルのグラフィティが乱描されているースイス製のブランド時計を写実的に描いた広告、サイケな色合いの抽象的なアート、悪ガキがスプレーで殴り書きしたのだろうFで始まる罵り言葉の落書きなどが、窓の外で一瞬だけ顔を見せては消えてった。車は開発途中のビルが立ち並ぶ敷地の脇で止まった。


「ここで一度降りよう。ちょっとだけ観光だ」

 エドウィンは車から出てあたりの景色を見回した。倉庫のような薄汚い建物を追い出す様に新しいコンドミニアムが乱立している。

「ここはブルックリン。ウィリアムズバーグっていう地域だ。家はここからすぐ」

 なるほど、どうりで見たことのある景色だったわけだ。ウィリアムズバーグは若者の間で今もっともホットだと言われている地域だと雑誌で見たばかりだった。


「すごい、カズマさんおしゃれなところに住んでるんですね!」

 思わず声を上ずらせるエドウィンを尻目に、カズマは無言で川の方へ足を進めた。川沿いのケント通りの脇は両サイドが工事用のフェンスで囲まれている。


「オレがニューヨークに来たばかりの頃はもっと刺激的な地域だったんだ。倉庫ばっかでさ、そこを改造して住むアーチスト仲間がたくさんいて。それからユニークな個人経営の店があちこちにできて流行りの街になり始めた。それに不動産屋が乗り込んでどんどん地上げして、今はただのITヤッピーの住む街になった」

 ピンときていない表情のエドウィンにカズマは続ける。

「オレが最初に住んでいた所の家賃は一人六百ドルだった。シェアルームだったけどね。でも五年後には一人千二百ドルまで上がって出てかなきゃいけなくなった。今じゃもっと高いだろうけど」


 エドウィンは目を丸くした。家賃事情などよく分からないけど、地上げの問題をちらほら聞く東京でもそんな短期間で家賃が倍になるなんて事はない気がする。

「まあニューヨークはそういう街だ。昔はソーホーもそうだったしミートパッキング地区もそう。その流れが川を越えブルックリンまで来ただけの話し。金こそが全て」

 カズマは洋服を着たプードルを散歩させる若い白人カップルにちらりと目をやり、つまらなそうに呟いた。


 やがて二人は川に隣接した小さな公園に着く。さきほどまで目がくらむような眩しさだったマンハッタンのビル群が薄暗いシルエットに姿を変え川向こうに堂々とそびえ立っている。夕陽はビルの谷間に落ちていき、既にネオンライトが川の水面を照らし始めている。


 カズマは自分がコーディネーターである事を急に思い出したかのように、エンパイアステートビル、ブルックリン橋などの観光名所を次々指差し、覚えている限りの簡単なプロフィールを説明する。エドウィンは疑わしい情報をぼんやりと聞きながら、水面に映し出された街灯をじっと眺めた。


「ここ、オレのお気に入りの場所なんだ。行き詰まった時とかにここにくると何か落ち着くんだよな」


 するとカズマはなんの脈絡もなく突然空に向かって吠え始めた。


人がいたら逃げ出すだろう音量の叫び声だ。エドウィンはこのコーディネーターという肩書きの狂人を横目に見た。


「お前もやってみ。気持ちいいから」

 エドウィンは無言で首を横に振る。

「アメリカでは法律上、外で叫ぶのを許されているんだよ。表現の自由って」

「表現の自由なんて日本にだってありますよ」

「じゃあ何で誰も叫ばない?」

「何でって…周りに迷惑じゃないですか」


 カズマは大げさな身振りで辺りを見回すが人は見当たらない。

「その行為に意味がないからです」エドウィンは言い直す。

「それは嘘だね。日本人だって叫びたい事がいっぱいある。それを『空気を読む』だとか『迷惑』だとか『常識』だとかを盾にして、本当はただビビってやらないだけだ」


 エドウィンに答える隙を与えずにカズマは続ける。

「空気を読まないのも人に迷惑かけるのも非常識なのもこの国のデフォルト。郷に入っては郷に従え。叫ぶ理由はたくさんある」

 そう言うとカズマはさっきよりも一段階大きな声で吠えた。気持ちよさそうな顔をしているのが癪に障る。


「それに『意味がない』ってそもそもお前の普段の行為の中に一つでも意味があることがあるか?飯食ってクソして寝ること以外に。一回でもいいからやってみ。旅の恥はかきあげだろ?」

「かき捨てです」

「揚げ足を取らない。…もしかしてビビってるの?」

 挑発とはわかりつつも、早くこの一連の流れを終わりにしたく、エドウィンは空に向かって声をあげた。躊躇しながらのエドウィンの咆哮は弱々しく、途中で声が裏返ってしまった。


「中途半端が一番恥ずかしいぞ、日本人。玉ついてんだろ?」

 煩わしくて半ばヤケになったエドウィンはもう一度叫ぶ。

「いいぞ!叫ぶのは人間の本能だ。生まれて最初にオレらバカな人間どもがする仕事は叫ぶ事だろ?自分が存在してる事を回りに知らせるために!ほら、もう一回!」


 カズマはエドウィンの腹を軽く小突いた。もうどうにでもなれ。エドウィンは腹の底から声を出した。頭の中が真っ白になりそうなくらいに。

「もっと!やれ!」

「ア~!!!」

 カズマも同時に叫びながら、エドウィンの腹をさらに強く押す。

「ここに溜まってんだよ。全部出しちゃえ!」

 エドウィンは最後の力を振り絞り大声をあげる。電流のような痺れが首筋から肛門まで走るのを感じた。恥じらいで赤らんだ顔が今や興奮によって紅潮している。


カズマは声をあげて笑った。

「悪くないよ、エドウィン。ウェルカム•トゥー•アメリカ」

 そう言ってカズマはエドウィンの肩をぽんと叩き、口を全開にして笑うと、エドウィンも図らずつられて笑みをこぼした。


「クレイジージャパニーズ!」

 ふと後方から声が聞こえた。振り返ると、向こうから小柄な女性が男性と歩み寄ってくる。エドウィンが人見知りの混じった警戒心で様子を見ていると、カズマはあれは自分の彼女だと伝えた。一緒にいるスーツ姿の男は何者なのだろう?


「やあ、フランク、久しぶり」

 カズマが自分からシャーロットの隣にいる白人の優男に手を差し出す。男が握手に応えると、カズマは渾身の力でそれを強く握り、心まで覗き込むかのようにフランクの目を直視した。

 突然訪れた不穏な空気にエドウィンはどぎまぎした。すると隣のシャーロットが柔らかな声でエドウィンに話しかけ空気が変わる。

「あなたがエドウィンね?ナイス・トゥ・ミーチュー」

 シャーロットが笑顔で手を差し出すと、どぎまぎしながらエドウィンはその温かい手を握り返し、アクセントの混じった英語で同じ言葉を返した。

「お前の英語ってその程度なのかー。つらいな」

 カズマが日本語でからかう。エドウィンはむっとして答えた。

「話すのに慣れてないだけです。言ってる事は大体分かります」


 今度はフランクがエドウィンに手を差し出したどたどしい日本語を口にした。

「ハジメマシテ。ワタシフランク。ドゾヨロシク」

 カズマはエドウィンにこっそり日本語で耳打ちした。

「誰もそんな挨拶しないって言ってやんな」

 エドウィンの表情が緩むとシャーロットが不服そうにカズマの方を向いた。

「フェアじゃないわ。英語で話しなさいよ!」

 カズマは軽く頷き、シャーロットに英語で尋ねる。

「どこ行ってたの?」

「シェパード・ビストロ。いつも満員だけど、五時の席が空いてたから。ちょっとディナーには早いけど」

「あの高級店か。やっと行けてよかったね。オレとは行けないもんな。だから今日はおめかししてるわけか」


 卑屈な皮肉にシャーロットが言葉を詰まらせるとフランクが口を挟んだ。

「オーナーと知り合いだから、大分ディスカウントしてもらったけどね」

「知り合いが多くていいな、フランク。シャーロット、君もこんな素敵な同郷の友人がいてラッキーだね」

 シャーロットはバツが悪そうに頷いた。

「ところで君のアート活動は最近どうなんだ?展示会とかやってるなら誘ってくれよ」

 シャーロットは目を丸くしてフランクを見た。カズマのキャリアが行き詰まっていることはさっき話したばかりなのに。

「カズマさん、オレ疲れました。家に行きませんか?」

 エドウィンが下手な英語で助け舟を出した。


シャーロットが喜んでその舟に乗った。

「そうよね!長旅だものね。一緒に帰りましょう。ちょうど出くわしてよかったわ」

 フランクは少し表情を崩すが、それでも紳士的な態度を保ちカズマに再度手を差し出した。

「じゃあ次会うのはシャーロットの誕生日パーティーでかな?」

 カズマとシャーロットは気まずそうに顔を見合わせた。

「まあな」


 カズマは言葉を濁しつつフランクの手を雑に握り、そっけなく振り返り停めた車の方向に歩き始めた。エドウィンはあわててその後を追いかける。シャーロットは子供染みたカズマの態度にため息をつき、申し訳なさそうにフランクにハグをした。


「今日はありがとう、なんかごめんね。また話しましょう」

「いや、いいんだ。オレは君に悲しい思いをして欲しくないだけだ。昔からの友人じゃないか。また何かあったら相談に乗るよ」


 シャーロットは何とも言えない気持ちでフランクに別れを告げ、前を歩く二人の日本人の後を追いかけた。

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