第5話
カズマは久しぶりの深い眠りから目を覚ました。辺りは薄暗く、朝か夜かの判断もつかない。隣にシャーロットの姿はない。セントラルヒーティングが壊れているのだろうか、息を白くする寒気に体を震わせ、薄手のフリースの毛布に身を包んだ。毛布から漂うシャーロットの残り香は春の花のような甘くて温かい香りを放っていた。
冬の淡い光がブラインドの隙間から細く漏れている。カズマは決心してベッドから跳ね起き、窓際に放置されたシケモクに火をつけた。一服するとその煙が光に照らされて揺らめきながら空の藻屑になっていく。カズマはその儚い美しさに見惚れた。
煙草を吸い終わるとわずかな斜陽をできるだけとりこもうとブラインドを全開にし、壁にかけられたコルクボード製の全米地図をじっと眺めた。地図に指を添えて、ジェフから指定された目的地のメンフィス、そしてグランドキャニオンをたどる。ほぼ全米横断じゃないか。アメリカには長く住んでいるが、その大部分をニューヨ
ークで過ごしたカズマには距離感がよくつかめなかった。
ジェフは飛行機を使っても良いと言っていたが、アメリカの広大さを肌で感じるには車で行くほうがいいだろう。自分が調子よく稼いでいた時期に勢いで買った旧型フォルクスワーゲン•ビートルにもしばらく乗ってあげていない。このコーディネーター仕事で自分はまた運気を取り戻すのだ。そう考えるとしばらく自分の頭を覆っていた貧乏という名の巨大な雲が少しずつ晴れていく気がした。
リビングルームの向こうからアパートの鍵を回す音が聞こえた。カズマは猫のように軽快に玄関へと駆け寄った。ドアがまだ半分しか開いていないのに向こう側に立つ華奢なシャーロットを引きずり込むように抱いた。シャーロットはびっくりしてキャッと声をあげると同時に白い吐息を漏らす。小高い鼻先まで巻きあげた白いマフラーと深く被った赤いニット帽の間から少しだけ出た純白の顔が紅潮している。
「カズ、今日、仕事じゃないの?」
シャーロットはマフラーをほどきながらエメラルドグリーンの大きな瞳でじっとカズマを見つめた。
「I quit (辞めた)」
久しぶりの英語での会話だった。シャーロットとすれ違いの生活を送るようになってからちゃんと会話できるタイミングは少なくなっていた。
「…それで?何か新しい仕事が見つかったの?」
シャーロットは不安げにカズマの顔を見つめる。
「うん。まあ短期だけどね、結構おいしい仕事かな」
「本当?よかった!どこかの広告?」
シャーロットが知る限りカズマにとっての「おいしい仕事」は企業広告の壁画だった。
「いや、もっとおいしいかも。絵とは一切関係ないけど。二週間弱で一万ドル」
シャーロットは大きな目を極端に細め、怪訝そうにカズマを覗き込んだ。
「まさか、ドラッグ絡み?」
カズマは思わず吹き出してしまうが、実際に昔そんな事をして小銭を稼いだ時期があった事を彼女も知っているので、バカげた発想だと責める事はできない。
「ジェフっていう東京に住んでるアメリカ人の話ってしたっけ?」
「グランドキャニオンの近くで会った、元ヒッピーの人?」
過去の些細な会話の断片を彼女が覚えてくれている事が嬉しい。
「そう。彼の息子の全米旅行を通訳コーディネートするって仕事。
クールだろ?」
シャーロットにはその仕事と金額の釣り合いが飲み込めずフランス人形のようにきょとんとしてカズマを見つめる。
「大丈夫だよ、怪しい仕事じゃない。オレの信頼している人だ。一万ドルの価値なんて人によってそれぞれなんだよ。大した金じゃないと思う奴もいれば、オレみたいに半年分の生活費と思う奴もいる。言ったろ、一晩で一万ドル使った客がいた話」
シャーロットは自分を納得させるように相槌を打つ。
「とにかくよかったわ。おめでとう。その旅ってどこに行くの?いつから行くの?」
「メンフィスとか、グランドキャニオンとか。…明後日からなんだけど」
「WHAT? WHY?」
シャーロットの顔が血色を失い、ヒステリックになるのをこらえるように大きく息を吸い込んでいる。
「私の誕生日パーティーはどうなるの?ペンシルバニアに行く予定は?私の両親に会う予定は?」
シャーロットはやはり感情をうまく抑え切れずにたたみかけた。カズマがおそれていたリアクションだった。
「ごめん。君の実家にも誕生日パーティーにも今回は行けない」
「何で相談もせずにそんなこと引き受けちゃうの?」
「このチャンスを逃したらいつまで経ってもオレは惨めなままなんだよ」
シャーロットの目に段々と涙が浮かんできた。
「お金なら何とかなるっていつも二人で話してたじゃない。家賃だって、カズがちゃんと稼げるまでいいからって。あなたを信じてるから。なのにカズは最近お金の事ばっかり。そんなのあなたじゃない!」
カズマは少しの罪悪感と同時に苛立ちを覚えた。この「超大国」の裕福な家庭に生まれ育った可愛い白人に、そして望み通りの仕事もすんなり射止めた如才ない女に、何も持たず唯一のとりえさえ失いかけている惨めなアジア人移民の気持ちがわかるものか。その思いは頭の中で止めたつもりだったのに、ほとんどがそのまま口をついて出てしまっていた。シャーロットの表情は怒りを半分残し、もう半分は同情に変わっていた。
「お前だってこんな男を両親に紹介するのは恥ずかしいだろ?」
なぜこんなことを言ってしまうのだろう。なぜ自分を一番理解してくれる人間に卑屈にならなければならない?
「Fuck you with your pride, asshole(あんたのプライドなんかクソよ)」
シャーロットは大きな瞳に涙を溜めながら罵ると、つい先ほどまでカズマが寝ていたベッドルームに入りドアを思い切り閉めた。
リビングに残されたカズマは力なくカウチに座り込んだ。背後の壁には出会ったばかりの頃にシャーロットが撮ったカズマの写真がフレームに入って飾られている。キャンバスに絵の具のチューブを塗りたくる、鬼気迫る表情。その瞳には我ながら確かな炎が燃えていた。今の自分の顔がどうなっているかは見たくもなかった。
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