第4話

 短いカズマとの電話を終えて席に戻ったジェフは半分に減ったロックグラスを手にとった。彼と出会ったのは結婚二十周年記念旅行の時だから、もう十年近く前だ。中学生のエドウィンを留守番させ、陽子と水入らずで自分の故郷や二人の思い出の場所を巡った旅だった。あの日、グランドキャニオンを目指してレンタカーを運転しているとフラッグスタッフという街の道端に立つ一人のヒッチハイカーを見つけた。まだ十代後半の日本人の少年、カズマだった。


 彼の姿はジェフの過去の自分―物質主義の世界に背を向け、青臭い自由や正義を求め続けた日々―を喚起させた。カズマは生命の輝きを放ち、粗野ながら純真で、大きな可能性を感じさせる原石のようだった。車の中では突然大声で歌い出したり、日本社会への鋭い批判をまくし立てたり、かと思えば何の脈略もなく突然泣き出したり、不安定な若いエネルギーを遠慮なく身体中からほとぼらせるカズマを自分も陽子もすっかり気に入ってしまい、結局旅の共に何日か一緒に過ごしたのだった。


 その後もジェフは自社の社員がアメリカ出張する際には通訳コーディネーターとしてカズマに声をかけた。しかし一度彼が得意先とトラブルを起こしてからは声をかけることもできなくなった。それでも彼のことは親戚の叔父のような気分でずっと気にかけていた。


 カズマは破天荒だがエドウィンを危険な目に遭わせる事はしないだろうし、今回の旅のガイドには最適に思えた。歳も彼と四、五才しか違わないはずだし、カズマももう分別のある大人になっているはずだ。


 ジェフの視線がぼんやりとしたグラスに注がれている間、突如瑞々しく白い手がそれを掴む。顔を上げると、丁寧にグラスを拭く若いホステスの顔が浮かび上がった。自分は今日このクラブに接待できたのだった。得意先からの急な誘いを断れない自分はもう立派な日本社会の一員だと言えるだろう。それは複雑な気分だった。


 「未来」と名乗るその若いホステスは平らな顔に、小粒ながらも細やかな美しさを備えた瞳や唇が配置された和風の美女だった。おそらく自分の息子位の年齢だろう。ジェフは急拵えの笑顔で未来に少し気まずく会釈をした。


 向かいに座ったクライアントは熟練のホステスと和気藹々と話している。ジェフは会話の内容も完全に見失っていたが、気にかけている事を主張するように相槌を打った。

「ジェフさん、アメリカのどこ出身なの?」

 未来はジェフの水割りのウイスキーをかき回しながら囁くように尋ねる。

「元々はニューメキシコ州だよ。Alburquerqueっていうトコロ。知らないでショ」

 皮肉っぽく笑って言うと未来は興味深そうに身を乗り出した。

「アルバカーキって、『ブレイキング・バッド』の?すごーい、行きたい!」

 密かに楽しみにして毎週ケーブルテレビで観ているアメリカのドラマの予想外の言及にジェフは顔を緩ませた。

「若いコもそんな番組観てるんだネ。アメリカに興味あるの?」

「そうなの。実はアメリカに留学しようかなって。アメリカに住むのって大変?この仕事でどれくらいの生活費貯められるかな?」


 未来は悪びれもせずジェフに打ち明ける。最初から随分と個人的な事を話すもんだ。水商売にまだ慣れていないのだろう。でもこの世代に相談をされる事なんてなかったので悪い気はしなかった。


「どこに住むかによって違うシ生活の仕方にもよるけど…。Alburquerqueは安いよ」

「いやだ、あんなところ住みたくないよ!まあ地方が安いのはどこも一緒か…」

 最後は半ば独り言のようだった。ジェフは間違い探しをさせるように未来の目をじっと見つめた。

「ごめんなさい!そういうつもりじゃないの。…でも私ニューヨークに住みたいの」

 慌てた様子を上手く隠せない未来は微笑ましかった。

「ニューヨークはいいよネ。僕も大好き。でも物価も家賃もすごく高い。君くらいの年代の僕の友達も住んでる。さっきちょうど電話で話したヨ。アーチストでGraffitti描きながらサバイバルしてる」

「すごいなーそういうの憧れる。この国にいて普通に就職して、お茶汲んだりコピーとったりが繰り返されるだけの毎日、って想像するとぞっとする」


 ジェフは明日にもニューヨークに送り出す自分の息子の事をまた考えた。「ハーフ」として世に送り出したエドウィンとはうまく距離感をつかめず、親としての精一杯のプレゼントが就職口だった。でもエドウィンの受け身の生き方はジェフを常に苛立たせた。ゲームと音楽三昧の引きこもった生活。


「ねえ何考えてるの?ジェフさんさっきからずっと考え事してる」

 ジェフは我に返る。何か会話を続けないと。

「君には彼氏はいるの?」

 とっさに口をついて出たのは自分でも予想外の質問だった。

「…なんで?私に興味あるの?」

 いたずらっぽく上目遣いに質問返しされると、ジェフは慌てて目を逸らす。

「いやいや、うちの息子と同じくらいの年だな、と思って。息子にいつか会わせてあげたらどうだろうっテ。」

「なにそれー。ドキドキして損した」


 未来は流行りのテレビドラマに出ている大根女優のようなふくれ面をする。自分の年増の秘書もたまにする表情だ。不快な仕草と思っていたが若くて可愛い未来がすると許せてしまうのが情けない。


「息子さんってどんな人?大学生?ハーフって事よね?したらきっと男前ね」

「うーん。見た目は悪くないと思うヨ。僕に似て」

 ジェフと未来は同時に笑い、ジェフが続ける。

「ただあまりActiveじゃない。いつも家でゲームしたり音楽聴いたり全然外出ない」

「えーじゃあ引きこもりってこと?ハーフで引きこもり?なんかウケる」

 別にウケないヨ。ジェフは心の中でそう答えると、ふと前方のクライアントがこちらを訴える様に見ているのに気づく。いつの間にか彼の隣のホステスは代わっていて、会話も続かずに白けた雰囲気が充満していた。ジェフは動揺を見せないよう、努めて無表情にボーイを呼び会計を済ませた。


「今日はごちそうさま。面白かったです。本当に」

 未来は名刺を差し出し、こっそり耳打ちで付け足した。

「今度ランチしてくれる?同伴とかじゃなくてもいいから。色々相談したいの」


 これを本気で受け止めるべきなのか、日本人にしか分からない暗示的な含みがどこかにあるのか、そもそも水商売的にルール違反ではないのかージェフにはよく訳がわからなかった。でも未来の真っ直ぐで、最近ではお目にかからない種類のキラキラした瞳に囚われるとただ頷くしかできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る