第3話

 暗闇の中マンハッタンとブルックリンをつなぐ赤く錆びた鉄橋。その上を走る電車の車両には、くたびれきった背丈の低いヒスパニック系労働者三人組と、隅で言葉の断片を繰り返すホームレスの黒人しか乗っていない。時間は既に深夜三時を過ぎているのでそれも当然だった。場違いな黒いスーツ姿のカズマはドアの隙間から漏れてくる冷たい風に身を震わせ、窓に白い息を浴びせ指で落書きした。


 カズマはやさぐれた雰囲気の残ったこのJ線を嫌いではなかった。最近のブルックリンは再開発により変貌を遂げ、裕福な白人の若者たちがそこかしこに見られるようになり、週末には深夜過ぎでも酔っぱらった彼らが我が物顔で大声の会話を繰り広げるのが当たり前になり始めていた。


 カズマは掻き傷だらけの銀色のドアに身をもたれ、イースト川と共に遠ざかって行く摩天楼を眺めた。これからマンハッタンに行くことは少なくなるだろう。そう考えると心が軽くなる感じがした。一方でこれからおとずれるだろう不確かな日々に再度身を投じる事の重さも感じていた。誰かが言っていたことをふと思い出す。ニューヨークに飽きたという事は人生に飽きたという事だ、と。自分はもしかしたらもう飽きてしまったのかもしれないーその両方に。とにかく早く家に戻ってシャーロットの柔らかい胸の上でまどろみたかった。


 携帯電話が震える感触に、カズマは現実に引き戻された。ヒビだらけのスマホの画面を見ると、八一の国番号で始まる未登録の番号だ。通話ボタンを押すと同時に素っ頓狂な声が耳に飛び込む。

「モシモシモシ、カズちゃん?」

 懐かしい外国人訛りの日本語にカズマの心は少し高揚した。

「ジェフ?Whats up? どうしたの?」

 自分の倍ほどの年齢にも関わらず、ありのままでしゃべれるこの男はカズマにとって貴重な存在だった。時差など考えずに非常識な時間に電話してくるのはご愛嬌。


「お仕事の話なんだケド。通訳コーディネーターの仕事。興味あるカナ?」

「いつの話?」

 ジェフはもったいぶるように一間置いて答える。

「急なんだけド、明後日から。ちょっとメズラシイ仕事で…。」

 カズマももったいぶるように一間置いてから聞き返す。

「クライアントは誰?」

「今回のクライアントは実は僕なんダネ。」

 カズマが首を傾げているとジェフは間をあけずに続ける。

「息子のエドウィンが全米旅行をするのに、アテンドをしてほしくって」

「アテンドって?何をすればいいの?」

「息子にアメリカを見せてやるだけ。詳しくは後で話すケド、New Yorkとか、僕の兄のいるMemphisとか、君と会ったGrand Canyonとか。Americaをそのまま見せてほしいんダ。カズマのスタイルで」


 カズマに返答の余地も与えずジェフは早口で続ける。酔っ払っているのだろうか?

「いつもみたいにジャパニーズ流オモテナシする必要はなくて、エドウィンを十日くらいテキトウにひきずり回せば。簡単でしょ?」

「適当にひきずりまわす?」


 息子対象に使うにはずいぶん乱暴な表現だ。まあいい、確かに簡単そうな仕事だし、全米を回るなんて面白そうだ。でも何か大事な用が無かったっけ?まだ酔いが少し残った頭を慌てて稼働させようとするカズマにジェフはたたみ掛ける。

「ギャラは一万ドル。食費、交通費、宿泊費は別途支給。どう?」

 一万ドル。カズマの頭の中で陳腐なファンファーレが鳴った。

「よろしくお願いします!」


 ジェフが電話の向こうで高笑いしているのが聞こえた。

「オッケー。よかった!後で旅程の詳細は連絡するね。ジャマタ」

 お決まりのガチャ切り。

 客への怒りで火のついた興奮は予想しない形で急に喜びに形を変え、カズマは窓の外で小さくなっていく摩天楼に向かって叫んだ。

「ファック・ユー、ニューヨーク!オレの勝ちだ!WHOOO!」


 車内に響き渡る奇妙なアジア人の雄叫びにヒスパニックの労働者は顔を見合わせて笑っている。カズマはそれに気づくと「ミロコ・ハポネス!」ととってつけたようなスペイン語で話しかけ、彼らにハイタッチをした。ずっと独り言をブツブツ呟いていたホームレスはカズマの叫び声で覚醒したかのように目を大きく見開いた。


「ファッキン・ニューヨーク!オレの勝ちだ!ここを支配しているのはオレたちだ!失われた魂!それはお前らだ!オレは!ワオ!ワオ…。マザファッカー!」


 カズマは悪臭の漂うその男に飛び跳ねながら歩み寄り、自分の喜びを伝染させるかのように力強くハグをした。そしてスーツの胸ポケットから黒のマーカーを取り出し地下鉄のドア描き殴った。


「真実に近づこうとすればするほど現実から引き離されていく」


 男は見慣れない日本語をまじまじと眺めて一度目を閉じて咀嚼すると、また大げさに目を見開いてカズマの顔を見上げる。


「その通りだ!いいなお前!お前にはわかってる!お前は神か?神だな!?」

 

 そうだよ、オレは神だ。

 

カズマは興奮した男をまっすぐに見つめ、日本語でつぶやいた。

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