第2話

 クラブHATENAはマンハッタンの東五十二丁目と三番街の交差点脇にある。日系企業の駐在員が多いこの地域には日本料理屋や日系スーパー、更には日系の美容室までが所々に店を構えている。ここには日本人だけを相手に成り立つ商売が数多く存在し、キャバクラ店もその一つだった。オープンしてから十年になるHATENAは老舗のカツ丼屋の隣にひっそりと存在し、重厚な黒塗りのドアに真鍮の「?」マークが貼ってあるだけだ。


 カズマはこのミニチュア版の日本で働くことになった。ここには彼が十代の時に嫌気がさして逃げてきた閉鎖的な日本社会が凝縮されているようだった。しかしビザも切れ、アートの制作だけではとても生活できなくなった自分には、現金払いをしてくれる都合の良い仕事だったのだ。


 アメリカ人の恋人シャーロットは「キャバクラ」の文化をよく理解していなかった。カズマは「ストリップみたいなもんだけど、女の子が服を脱がない代わりに客の隣に座ってただ会話をするだけの商売」と説明するも、育ちの良い彼女にかえって疑念を植え付けるだけだった。それでも彼に他の選択肢がない事を理解し、彼がアーチストとしてのキャリアを取り戻すまでの一時的な仕事ととしてしぶしぶ受け入れていた。


 ブラックライトに照らされた細長い通路を抜けると四つのパーティションに仕切られたフロアがあり、ヤニで変色したシャンデリアや年季の入ったソファが場末のクラブを思わせる。風俗商売に厳しいニューヨークの街でどういう経営許可が降りているのかは疑問だったが、生活費さえ稼げればそんな事はどうでもよかった。それに客は自分と対局に位置する日本企業のエリート駐在員達だ。最終的に目玉が飛び出る金額を払わせる事になっても良心は咎めない。

 

 ウェイターとして採用されたカズマは、数ヶ月もすると全フロアを一人で回せるようになった。人目を引くドレッドヘアは後ろで束ね、インカムに入ってくる客引きからの情報を聞きながら立て膝ををついて客に対応した。ドリンクの注文が入ると「かしこまりました」とお辞儀をし、即座にインカムでドリンク名をリピートする。そして立ち上がるとまたお辞儀をしてテーブルを離れ、颯爽とバーカウンターに行き、注

文したドリンクをひったくるようにトレイに置き、早足で客のテーブルに運ぶ。機械的なこのサイクルは感情さえ入れなければ割と楽な仕事だった。カズマはテーブルで繰り広げられる酒に煽られた大声でしばしば下品な会話を全て環境音として処理し、キャバクラ嬢の甲高い注文の声だけを聞き分ける能力を習得した。


「すいませ~ん」

 この鼻にかかった甲高い声は当店ナンバーワンのアゲハ嬢だ。カズマの予想では四十歳過ぎのはずだが(控室に呼び出しにいく際に各嬢のスッピン顔はほとんど見ていた)その隠し方を熟知した化粧と、外から見れば鬱陶しいくらいの客への気配り、そして何よりも深い胸の谷間がウリの女。ボーイたちの噂によると札幌にある系列店から引き抜かれてアパートまであてがわれているらしい。在籍する嬢の多くが学生や素人のこの店では群を抜いたプロフェショナルだった。

 

 カズマは素早くアゲハのテーブルに駆け寄り膝を立てた。彼女の両脇には四十代の商社マン二人が座っており、その隣にはカズマと同世代のリンが同席している。リンはアゲハと対照的に化粧は薄く愛想もあまりよくないが、はっきりした目鼻立ちと媚びない性格が固定客には人気だった。アゲハの腰に手を回した先輩商社マンが無愛想に呟く。

「ブーブ入れて」

「ブーブ(乳)?」カズマは一瞬戸惑う。

「ブーブ・クリコに決まってんだろ?酒の名前、覚えてないの?」

「すいません。かしこまりました。ありがとうございます」


 カズマは一瞬だけ息を止め、感情を落ち着かせて無機的にお辞儀をして立ちあがった。バーカウンターではマネージャーの哲也が既にブーブ•クリコのボトルを手に待っていた。彼はカズマと同じ二十七歳、大阪出身の在日韓国人で、なぜかカズマに一目置いていた。

「あいつ腹立つやろ?でも金払いがいいから大事な客やねん。オレ

が代わりに行こか?」


 カズマは首を横に振った。大丈夫―あの程度の客ならもう慣れた。四人分のシャンパングラスをトレイに載せ、ボトルを手に持ちテーブルに戻る。さすがはアゲハの卓、随分と盛りあがっている。先輩商社マンが名門大卒なのを自慢げに話し、後輩が太鼓持ちをしているようだ。高校時代の偏差値自慢まで遡った会話が一息つくのを

見計らうと、カズマはグラスとボトルをテーブルに置いた。

「おいおい、グラス一個足りないよ」

 カズマは首を傾げると、名門大が威嚇するように声のトーンを下げる。

「お前も飲めって事だよ。ちゃんと盛り上げろよ」


 カズマは息を殺した。上客のボトルを断るのはNGというのがこの店で暗黙のルールだ。そうか、だから哲也は自分が代わりに行くか確認してくれたのだ。カズマは仕方なしに覚悟を決め、深々と一礼をして同僚にグラスを持って来させると、素早くコルクを開け、ボトルをグラスに注ぎ始めた。自分の一挙一動を観察する名門大と太鼓持ちの視線に身震いがしそうだ。

「おい、お前さ、せっかくいいボトル入れてんだから、もっとゆっくり入れろよ。感謝の言葉とかないの?」

 名門大が舌打ちをする。カズマは合図無しにボトルを開けてしまった事を後悔した。そんな初歩的なミスをするなんて、頭に血が上っているのだろうか。

「すいません。ボトルオーダー、ありがとうございます!」

「今更おせーよ。あほだな。」

 太鼓持ちが意地悪くつっこむ。便乗してしか文句の言えない嫌な野郎だ。カズマの顔が思わず歪む。

「気になってたけど、お前そんな不潔な髪型でよく働けるな?それがニューヨーク流ってやつ?」

 カズマはやり過ごす言葉を探すが、名門大はお構いなしにたたみかける。

「きみ、何しにニューヨークいるの?」

 一番嫌な質問だった。答えを待つ沈黙。次に余計な口を出したのはアゲハだった。

「この子アーチストなんだって。ね?絵描きさん」

 なんでこの女がそんな事を知っているのだ。カズマは不意をつかれて、軽く会釈しながら引きつった愛想笑いを浮かべる。名門大はまるで詐欺師を見る様な軽蔑した目でカズマを覗き込む。

「かっこいいねえ。いかにもニューヨーク!だからドレッドなのかあ。バスキアの真似かなんか?」

「さすがジンさん、アートにも詳しいんですね」

太鼓持ちが口をはさむ。

「そりゃバスキアくらい知ってるよ。常識でしょ。この子の事は何も知らんけど」

「やだ〜ひどい、ジンさん!」アゲハが甲高い声をあげて笑う。


押し黙ったまま最後に自分用のグラスにブーブを注ぐカズマにリンの哀れみの混じった視線が注がれる。

「まあそのアートとやらで食えないからこんな仕事してるわけだ。ご両親が知ったら悲しむだろうねえ」

 カズマは一瞬手を止め、引きつった顔で名門大を見上げる。

「両親との縁はもう切れてますので、ご心配なく」

 カズマが低いトーンで言い放つと場が凍る。太鼓持ちが何か文句をつけようとするが、名門大はそれを制して大物ぶった大声で笑い出す。

「おー家出少年か。ワイルドだねえ!気に入った!よし飲もう!」

 フロアに膝をつけたままのカズマは自分の太ももをこっそりつねりながら怒りを堪え、目の前のグラスを持ちお辞儀をしながら杯をあげた。

「カズマ君はワイルドだから一気で飲むよね」

 アゲハの馬鹿げた提案だ。名門大は顔を綻ばせて囃し立てる。

「いいね、ブーブの一気飲み、ぜいたくだな!」

「どうぞ!ハイ、一気、一気、一気!」

 時代外れの一気コールに隣卓の客もニヤニヤしながらこちらの様子を見ている。これは仕事なんだ。頭の中で「一気」を「金」に置き換える。そして目を閉じて飲み干す。ゲップが出ると同時にカズマの目が見開き、名門大の男の瞳を捉えてしまう。

「お前さっきから目つきが生意気だよな。大事な客に対して、態度悪すぎないか?」

 名門大の表情が曇ると同時に太鼓持ちも黙ってこっちを睨む。

「シャンパン、もう1本追加で。今度はハウスのでいいや。お前に接客っていうものを教えてやるよ。日本流のな。俺たちは神様なの!ブーブは後でうちらで飲むから」

 カズマはかろうじて「かしこまりました」と答えると、静かにバーカウンターに戻った。

 

 日本の接客ってなんだよ?ここはニューヨークだぞ。客が神様なのはお前の社会だけだ。ニューヨークをなめるとどうなるか…。


 一気飲みした高級なシャンパンが身体中を駆け巡りカズマを抑えていた理性を振り倒していく。カズマはぶつぶつ呟きながらバーに向かい、そこからシャンパンをひったくると、思い切り上下に振った。白人のバーテンはにやにやしながらそれを観察しているが注意をする気配はない。

「It's been nice working with ya(今までお世話になりました)」

 カズマはバーテンにそう声をかけると、ゆっくりとテーブルに向かって歩きだす。


マネージャーの哲也がカズマの代わりに、名門大と太鼓持ちをなだめながら間をつないでくれているのを見ると少し申し訳ない気持ちになった。

「お、大スター!早く早く!座れよ!」

 太鼓持ちが無駄な大声で叫ぶ。

 哲也はお辞儀をしてテーブルを立つと、心配そうにカズマを見て肩をポンと叩いて耳元で囁いた。

「しっかりとおもてなしさしあげろよ」

 哲也が去っていくのを見届けて、カズマはシャンパンの口を名門大の顔にそっと向けた。空圧がコルクを抑える指元にだんだん溜まってくる。指を引き離すと、コルクは名門大の額をまっすぐにとらえた。そしてボトル口の半分に親指をおき、シャンパンを名門大と太鼓持ちに的確に浴びせかけた。

「これがニューヨーク流の接客です。ではさようなら」

 カズマは立ち上がって体を半回転すると店のネクタイをその場に捨て、大げさに行進して店の外へ出た。後ろから聞こえる怒号はもう自分とは関係のないものだ。


 ファックユー。


 周りを敵に回そうが、味方に迷惑をかけようが、仕事を失おうが自分の尊厳だけは決して失わない。それはカズマがニューヨークで培ってきた唯一の財産だったし、こんな場所でそれを失うことは自分が許せなかった。

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