オキシトシン 1

「リヒト!」


 焦ったようなメーティス姉上の声。

 臨時でヴァイゼ侯爵家の庭に建設した資材置き場にて、クルークハイト領から引き渡された活性炭の確認していた時だった。屋敷の方から必死の形相で姉上が走って来ている。


 一緒に作業していたヴァイゼ侯爵も、驚いたように妻であるメーティス姉上の元に駆け寄った。

 それはそうだろう。姉上は大層変わった人間だが、外観だけは深層の令嬢……走っている姿など、子供の頃から殆ど見た事がない。



「どうした?」


「キ……、急いで帰って来いって……クルークハイトから早馬で速達が!」



 今、姉上は何かを隠した。この場にいるのは私と姉上とヴァイゼ侯爵。……ヴァイゼ侯爵は、私が聖女であるキラを匿っている事を知らない。ならば、今伝えたかったのであろう事柄はキラの事だろう。

 そして、わざわざ速達で手紙を送ってくる事態なんて、1つしかない。表情には出さなかったが、最悪の事態を想像して……血の気が引いていく心地を味わう。



「申し訳ありませんがヴァイゼ侯爵……領地で何か問題が起こったようですので」


「気にしなくとも、これは元々我が領の問題だ。まずは自分の領地を大切にしてくれ」



 ありがたいことに、メーティス姉上とうまくやっているだけあってヴァイゼ侯爵は理屈をわかってくれる人間だった。私が少々抜けたところで計画は滞りなく進めてくれるだろう。



「姉上、手紙が私宛なら」


「早く行って!」



 全てを言う前に上着のポケットに手紙が押し込まれた。姉上は本当に話が早くて助かる。




 急ぎ馬車に乗り、ポケットに押し込まれた手紙を確認する。


 ――想像通り、やはりキラが連れ去られたという内容だった


 屋敷の人間には、キラの身が危なくなれば相手を殺してでも守るように徹底させてきた。実際にそれで……何人も始末している。

 キラには勘づかれていないと信じているが、どうにもキラを外に1度出してから始末しなければならない人間がどっと増えた。

 やはり出さなければよかった。可愛く上目遣いで外出をお願いされた結果負けてしまった私の責任だ。



 そして王宮側はそれを理解したのだろう。……流石に第一王子自身に乗り込まれると、始末出来ない。しかも王宮の馬車を使って、形式に則り正式にクルークハイト伯爵家を訪問して来たのだから……暗殺しようにも無理があった。


 屋敷の人間達が本当に私の命令を正しく遂行していたら、今頃国家問題だったかもしれない。応用の効く使用人達で助かった。



 しかし一番の問題はそこでは無い。



 キラが……屋敷の生活にうんざりした上、私を嫌いになったと言い、二度と戻らないと発言したらしい。そして自ら王子の前に出て行ったというのだ。


 嫌がるキラを抵抗出来ない状態にして王子が無理やり連れ去ったのではない。……キラが自分から歩いて、王子と出ていったという。


 私はキラに嫌われるような事をしただろうか? ……思い起こせば、沢山したかもしれない。嫌だからやめてくれと言われた事項もかなりある。


 それでも。昨晩まで毎日一緒にいたのだから、嫌われていれば少しくらい兆候が見られたはずだ。


 キラは口付けだけは決して嫌がらなかったから毎日欠かさずしていたが……嫌いな男からの口付けなんて、普通は受け付けないだろう。「唾液の交換になって免疫力が高まったり、オキシトシンっていう幸せホルモンが出る」なんて知識を教えてくれたりもしたし……待て。健康体になりたいから異性である私とキスをしていた可能性もあるのか?


 恐ろしい事に気がついてしまい、つい手紙を握りしめて紙がシワになってしまう。


 好意を向けられていると思っていたのは私だけだったという可能性に……目の前が真っ暗になってしまった。……確かに、健康体である事は大切だ。




 振り向いて私の姿を確認する前から「お帰りなさい」と出迎えの言葉をくれたり

 私が脱いだ上着をハンガーにかけてくれる所が既に妻のように見えたり

 ちょっとした話題でも、私の知的好奇心を擽るものが多く、話していて楽しかった


 私が知らない異世界の知識を沢山くれただけでなく

 異性として私に、知らなかった感情・感覚を教えてくれた



 キラの笑顔はいつだってその美しい黒髪の中に煌めいて、まさに夜空に煌めく星だった


 眼鏡を外して見た星の煌めきが、滲み溶け出したかのように見えるのと同じで、深い口付けにより柔らかく溶けてしまうような表情をしたキラからは……確かに幸せが滲み溶け出しているように見えた。


 目の前が真っ暗になってしまったけれども、そこに一つの煌めきが見えた。


 あの日々が嘘だったなんて、私には信じられない。



 ――私の事は忘れて、どうか幸せに暮らしてください



 最後に紡いだというこの言葉。……自分に都合の良い発想でしか無いかもしれないが、キラはきっと本気で私を嫌っていない。嫌いならば、幸せなど願うはずもないからだ。地獄に堕ちろと罵り貶すだろう。


 嫌いと言って遠ざけて、私がまた助けに来ないように仕向けて、自分だけが聖女として贄となる。そんな構図を描いて出ていった……のだと信じたい。



「キラの居ない世界での幸せなど、有り得ない」



 あの煌めきを、忘れられるはずがなかった。

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