コンマ以下すらゼロの 1
「というわけで、女の子2人で楽しく会話できて幸せでしたわ」
窓の外の景色はすっかり星空。月が優しく私たちを照らす時間に……メーティス様はまだリヒト様の部屋にいた。
はい。あれからもうずっと一日中いるんです……私なんて朝からこの部屋にいるので、もう正直疲れました。帰りたい。
……部屋隣だけど。
……なんなら扉一枚で繋がってるけど。
「楽しかったのであれば何より。それより、メーティス姉上とキラとの距離がやけに近いように思うのだが」
ソファーに座っている私と、その真横に座るメーティス様。そして二人の間、お互いの太ももは……くっついている。ドレス越しではあるけど、年上で美しく気品もある女性とここまで密接しているなんていろんな意味で緊張してしまう。
まさかこの世界の貴族はこのくらいの距離で座るのが当たり前なのか? と考えていたけれども、リヒト様の反応を見る限りではそうではないようだ。
「あら、別にいいじゃない。キーちゃんとはもうお友達になったのだから」
ねえ? と女神の微笑みを向けられてしまうと、頷くしかない。お友達になった記憶はないけど、頷いておくしかできない。しかも今まで敬称付きだったのが、いきなりあだ名で呼ばれているし。それでも、もう頷くしかない。
「メーティス姉上とキラが? 友達に……?」
信じられないといった風にリヒト様が問うが、私には頷くことしかできない。だって横から伸びてきた華奢な腕が、私の肩周りに巻き付くようにして捉えてくるから! もはや緊張して何に頷いたのかすら分からない。
「そういう事。だから、こんな事しても許してくれるのよ」
そして柔らかな吐息が私の頬にかかり……恐らくその可憐な唇が私の頬へ軽く接触した。
「……ッ!? え、はぅ、メーティすさま」
自らが置かれている状況に着いて行けず、完全に混乱する私。楽しげに微笑みを湛えたままのメーティス様。そして……
「姉上……いい加減にしてくれ」
私の隣、メーティス様が座っている方向とは逆側の隣に、リヒト様が無理矢理腰掛けてきた。1人分無かったスペースに無理に突っ込んできたリヒト様は乱暴にメーティス様の腕を払い除け、私の体を自身の膝の上へ横向きに抱え上げる。
……問題はそこからだった。
私の後頭部を大きな手が捉え、アクアシルバーの瞳と視線が交わる。そして次の瞬間には既に口付けられていた。もう驚きすぎて目を閉じる余裕すらない。ゆっくりと頬に羽根が触れるようにしたメーティス様とは違って、リヒト様のそれはまるで肉食獣が獲物を捉え捕食する時のようで。
「――ぃ……やッ」
一瞬口が離れた隙に唯一声となった抵抗の言葉ですら、そのまま飲み込まれてしまう。
空気が上手く吸えなくて苦しくて、目尻から涙が溢れた。無理矢理こじ開けられた口からツーっと顎に向かって液体が流れている感覚がある。
そしてそれが伝って胸元まで垂れた時、私の口内は解放された。
……もはやパニックになりすぎて0.1秒前の記憶すらない。先程まで自分が目を開けていたのか閉じていたのかすら分からない。
私は、ただただ……未だ口内に残る初めての感覚に呆然と身を任せていた。
「メーティス姉上に奪われるくらいなら、私が先に。……それこそ無理矢理にでも奪うまでだ」
「あらぁ〜……リヒトもやれば出来るじゃない。焚き付けた甲斐があったわ」
メーティス様の声で、徐々に我に帰る。
――私、今リヒト様とキスしたよね?
しかもリヒト様の実の姉であるメーティス様の目の前、真横、超至近距離で。
……え? これって……?
「キラが持つ知識を持って行くのは構わない。キラの友人として接するのも結構。姉上ならどちらも許す。しかしキラに触れて良いのは私だけだ」
「ふふ、心配して損しちゃったわ。でも至近距離で、弟とはいえイケメンのキスシーン見れて……小説のネタにしなくては!」
いやいやネタにしないで!? と心の中でツッコミを入れられるようになった時には、既にもう一度リヒト様の顔が近づいて来ていた。
「見たいならいくらでも見ていけばいい。仕事熱心で感心する」
「……ちょッ!? まってマッテ待って、色々と待って!!」
咄嗟にリヒト様の胸元を全力で押すことによって回避しようとするが、腕力で男性にかなう訳が無い。
でもね? 初めてのキスが人の目の前で、さらに追加でされようとしていて。この状況で「もう1回ですか? どうぞどうぞ」なんて言える訳ないでしょッ!?
「あらー……見たい所だけど、ネタが降ってきたから部屋に戻らせてもらうわ。いくら掃除してない屋敷でも、元々私の部屋だった場所くらいは掃除してあるでしょう? また明日、どこまでいったか教えてね。キーちゃん」
そう言ってメーティス様はソファーから立ち上がり、心から楽しげな笑顔で退室していく。
え、まさか明日も顔を合わせないといけないの? 何なのこの姉弟は!?
「待ってメーティス様、お友達なら助けて!」
「じゃぁお友達じゃないわ。可愛い義妹ちゃんですもの」
――非情。その一言に尽きる。
「助けてトーマスさーんッ!」
「トーマス、要らない。朝まで放っておいてくれ」
リヒト様の声ならば扉越しでも分かると豪語したトーマスさんなだけあって……私の声が聞こえていようがいまいが、リヒト様にこう命じられて仕舞えば助けてくれる訳がない。だって、その主人の命令が聞こえているのだから。……流石リヒト様限定、人間盗聴器。
マリーちゃん……は助けに来れる訳がない。気絶して後頭部を強打するから来ない方がいい。
――あれ? これって私、かなりひっ迫した状況では?
「キラ……愛しているんだ。ずっと、ずっと……こうやって君に触れたかった」
瞼、額、鼻、頬……それこそ唇以外全てでは? と思うほどに降るキスの雨。
また脳内が混乱しそうになるけど、どうか落ち着いて……。
――そう、落ち着いて状況を把握していこう。
「い、一体いつから私にそのような気持ちを……?」
「最初からだが? それこそ君が私を庇ってくれたあの時からだ」
私を庇ったばっかりに周りから責められていたリヒト様を見ていられなくて、つい体が動いてしまったあの時。
……私がリヒト様の顔すらぼんやり薄っすらとしか覚えていなかった時ではないか!
「え……あれ? じゃあずっとリヒト様が結婚しようとか、愛しているとか言っていたのは……もしや冗談抜きで?」
「全て本気だが? 冗談でそんな事を言う訳ないだろう。愛する人の体だからこそ、隅々まで確認したいと思うのはおかしいか?」
……つまり?
リヒト様は、助けてくださった当初から私のことが好きで。
私を愛しているからこそ、時折そのような愛の言葉を述べていたということになる。
そして私は、自らの思い込みで……リヒト様には婚約者がおり、異世界から来た私が珍しいから研究したいだけだと思っていたけど。それは真実では無かった。
「キラはそのような関係を望んでいないようだったから極力自重していたのだが。他人に奪われるくらいなら、君の心を傷つけてでも自分のものにしてしまいたいと思ってしまった私を……君は軽蔑するだろう? それを許せとは言わないが、それでも……申し訳ないが離してやれない」
軽蔑なんてしない。だって……。
私はもう一度口付けられる寸前に、二人の唇の間に揃えた指先を割り込ませた。
「……すまない。嫌なのかもしれないが……」
「ごめんなさい。私、勝手にリヒト様の事を決めつけてました。興味ある事を追いかけるのが好きなだけの人だって」
だから長い間隠していたし、この恋心は捨てるべきだって思っていた。
「私も……リヒト様が好きです。それこそ助けていただいた時からずっと。私の名前を好きだと言ってくれた時には、もう……好きだったんです」
――やっと言えた。
私の勝手な勘違いのせいでしばらく両片思いの状態になってしまったし、リヒト様を悩ませてしまっていたのは申し訳なかったけど。ずっと胸に引っかかっていた詰まりが取れたかのようで、自然と笑みが溢れた。
そしてただ邪魔になった私の指は退けられて、二人の唇の距離はゼロになる。先程と同じくコンマ以下すらゼロの、本当のゼロだった。
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