婚約者(疑惑) 1
「まずは教科書を1人1冊用意した方がいいです。家に持って帰れると効率が違いますから」
外出から帰った翌日の朝、リヒト様の部屋。
私の目の前には手帳とペンを持ったリヒト様がいて、お互いソファーに座っているという状態だ。いつも日中は屋敷から出かけていて不在にしているリヒト様が、今日は朝からいるという状況に……私はげんなりしていた。
いや、今までなら嬉しかったかもしれないが、私は今大失恋の身。今だけはリヒト様の顔を見たく無かった。つい涙が溢れそうになってしまう。
……ううん、これ以上傷を抉りたくはないけど、子供達の教育環境改善の為には通らねばならない道だ。何食わぬ顔をして対応するしかない。
お願い、耐えて私の心!
「それが理想ではあるが、何せ費用と本を書き写すための人員が不足している。費用は私の私財から出せば全く問題ないが、人員不足は深刻だ」
「え? 本を書き写す……?」
そう言われてみれば、こちらの世界に来てから見た本――昨日見た子供達の教科書だったり、マリーちゃんが調達してきた文字の教本だったりは、全て手書きだった。
言語が違うのであまり気にならなかったが……まさかこの世界、活版技術が無いのだろうか? 日本史の授業でも、手書きで書き写して広められる本は貴重であったと習った気がする。世界史の授業でも、聖職者たちが本を書き写していた記述があったように思う。
「当たり前だろう。手で書き写さないのであれば、どうやって本の文字を記入するんだ」
やはり想像通り、手で書き写していたようだ。ならばお金はあるのに本が足りないという現状にも納得できる。
「あー……リヒト様、この世界って判子ありますか?」
「ハンコ?」
「判子、印鑑、印章、シーリングスタンプ、版画……何か知っている物ありますか」
「シーリングスタンプならばこの部屋にもある」
そう言いながらリヒト様は立ち上がり、自らの机の引き出しの中からシーリングスタンプを取り出し私に手渡した。形状を確認するが、やっぱり私がいた世界で見たことのある、封筒に封をするときに使うやつだ。
「例えば封蝋を使わずにこのシーリングスタンプにインクを塗って紙に押すと、どうなりますか?」
そう言いながら、私はシーリングスタンプを手のひらに強く押し当てる。そして紋様がついた手をリヒト様の方に向けた。
「その彫られている模様が紙に押されるな」
「では、『私はある日この世界に突然召喚されました。』という風に文章のスタンプを作って押せばどうです?」
「……確かに何十冊も作るならその方が早い。しかし、それだと本の内容全ての文を木に彫らなければならなくなる」
流石リヒト様だ。話が早くて助かる。
「このスタンプ面を1文字ずつはめ込み式にした物が製造できるなら、それこそ一気に1ページ丸々を一瞬で記入できますけど」
勉強して分かったのだが、この国の文字は日本で言うところのローマ字に近い仕組みをしている。そして日本語のようにひらがな・カタカナ・漢字が入り乱れるような事もない。ならばスタンプ面を1文字ずつはめこみ式にさえ出来るなら、きっと簡単に導入できるだろう。
タイプライターなんかを作るには少し時間がかかるだろうが、これならきっと比較的短い期間で済む。
「キラ……恐ろしく天才的な発想だ。それとも、君のいた世界ではこれがありふれた日常として存在するのか?」
むしろ時代遅れの文化として、印鑑レス推奨だったり身近にある本は電子書籍だったり、紙媒体であってもそれを出力しているのはデジタルプリンターであったりするんだけど。……そんなことは言えない。
だって、どのような仕組みになっているのか片っ端から聞かれるに決まっている。そんな事を言われても、私はただの高校生だから原理もわからずに使っていただけなので、知るわけがない。
「まぁ、そうですね。ありふれすぎて古く見えてしまう程、日常風景でした」
「……採用しよう。キラ、すぐにその話を今からこの部屋に来る女性にしてくれ」
リヒト様はそれだけ言うと手帳をしまって立ち上がり、部屋から出ていく。……私の返事も聞かずに。
「は? ……はぁ、まあ良いですけど」
リヒト様では無く別の女性に? と違和感を感じたが。……もしかすると、そういう方面の専門の職人がいるのかもしれない。
そんな風に考え呑気に待っていた私は、まさかその後修羅場になるなんて思ってもみなかったんです。
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