君の願いの籠った名前が好きだ
看守のおじさんは、眠り薬でも盛られているのかというくらいにぐっすり寝ていたので、隣を普通に素通りして外に出た。
……こんなに警備が甘くてこの国は大丈夫なのだろうか。
そして暗闇に紛れて、馬車に乗り込んでの逃走。雨によって車輪や蹄の音が掻き消され、逃走にはもってこいの天気だった。
闇に紛れるようにと彼が羽織っていた外套の中に引き寄せられ走ったのに、それでも髪が長い為に濡れてしまい……毛先から水が落ち馬車の床に模様を残した。
「これで拭くといい。風邪を引くと大変だ」
別にこれくらいで風邪なんて引かないよね? と思ったけど、これ以上馬車を汚してはいけないのでありがたくお借りした。
日本ならばすぐにドライヤーで乾いてしまいそうな濡れ具合だが、ドライヤーなんて無いこの国ではしっかりとタオルで拭くしかない。
「あの、外套もありがとうございました。おかげであまり濡れませんでした」
「構わない。君こそあんな窮屈な場所に閉じ込められて大変だっただろう」
愛想が無い、少しぶっきらぼうな言い方。
それでも冷たく感じる事はないのは、彼が私を心配し助けに来てくれたのが分かるからだろうか?
「さて。ではまず自己紹介からさせてもらおうか。私の名はリヒト・クルークハイト。この王宮から少し離れた場所にあるクルークハイト伯爵領の領主だ」
水滴のついた眼鏡を外して、それを拭きながらの自己紹介。
なんとも適当感のある自己紹介だが、これくらいの方が緊張せずにいられて良い。
「リヒトさん……いえ、リヒト様。牢から助けていただいて本当にありがとうございました」
爵位のある人に対しては『様』をつけるのが適していると思い、言い直す。そして馬車に乗っているので座ったままではあるが、深々と頭を下げた。
「結構。それより、自己紹介を受けたら自分もするものだ。君の名前は?」
「私は、この世界に来てからは聖女様と呼ばれていまして。フツウノ・コウコウセイという名でも呼ばれた事があります」
「それは通称や通り名の類だろう。私が聞いているのは君の本名だ」
……私は、自分の名前が好きではなかった。だからこそ、この世界に来てから一度もこの名を名乗らずに過ごしてきた。
それでも、助けてもらったこのリヒト様には……正直に名乗らねば失礼に当たるだろうと、迷った上で口を開く。
「……私の名前は煌。星川煌です」
ただ自分の名前を言うだけなのに、思わず声が震えた。
「ホシカワ・キラ? すまないが異世界の名前は聞き馴染みがなく、教えて欲しい。どちらが姓でどちらが名だ」
「キラが名前でホシカワが苗字です」
「なるほど。で、君のご両親は君の名にどのような意味を? 聞き馴染みがない響だから、由来も是非教えて欲しい」
……お願いだからそれ以上深掘りしないで欲しかった。
所謂キラキラネーム、本当に煌めいた名前で生まれてこのかた18年やってきた私にとって、この質問は地雷。
それでも……命助けてくれたリヒト様の質問に答えない訳にはいかないので、自らの地雷を踏み抜く覚悟を決める。どうせいつも通り、けったいな名前だと笑われるか、可哀想だと憐れまれるかだ。
「星が煌めくように、私の人生もキラキラと輝くものになりますようにと……母が名付けてくれました」
未婚でシングルマザーとして私を生み育ててくれた唯一の家族。私にとって本当の家族とは……母だけだった。私が小学生の時に事故で死んでしまったけど。
そんな母が私の事を思ってつけてくれた名前だけれども。
……私にとってこの名前は胸を張って自慢できる名前ではなかった。本当に眩しい名前ねって、義理の家族には言われ続けた。学校でだって、揶揄われた。
今まで私は俯くしか出来なくて……今もまた俯いた。
「良い名だ。君の将来が明るく輝くようにと願いを込めた母上の思いが伝わってくる」
「……え? 馬鹿に、しないの?」
本当に何でもないといった風な返答が帰ってくる。揶揄うでも、気を使うでもない、普通の回答。
私が今までに関わってきた人たちと同じように……
私を憐れみの目で見ないの?
偏見を向けないの?
「なぜ馬鹿にする必要がある。私は何事でも意味や理由のある物が好きだ。だからキラ……、君の願いの籠った名前が好きだ」
私の名前が、好き?
初めてだった。
キラキラネームと言われた自分の名前を「好き」だと言ってくれた人は。
異世界で名前の形態が異なるせいかもしれないけど。
文化の違いからくるものかもしれないけど。
それでも私は、何の偏見も無しに呼んでくれ、それが良いと言ってくれる人に初めて出会った。
……私だって本当は、母がとても大きな願いを込めてつけてくれた名前だって分かっていた。
本当はそんな願いのこもった自分の名前が大好きだった。
胸を張ってこの名前を堂々と名乗れる、そんな私に……ずっとなりたかった。
知らない世界に来て、考え方が180度違う文化に戸惑って。……私はずっと気を張り詰めていた。もっと言うなら、私は母が死んで義理の家族の元にいる時から、周囲に壁を作って1人閉じこもっていた。
それがこの人の一言で氷が溶けるように融解していく。まるで塩をかけられた氷のように。そして溶けた氷は涙となり、目尻からこぼれ落ちる。
塩をかけて溶かしただけあって、やっぱりその涙はしょっぱかった。
「キラ?」
価値観の違う世界で、私はやっと見つけた。
偏見なく、私と同じ価値観を持つ人を。
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