逃げよう

 そうして私は薄暗い牢に放り込まれることになった。

 どこからともなく呻き声が聞こえ、暗雲立ち込めるといった雰囲気の牢獄で……私はこの世界の『当たり前』を知った。



「勉強は大事だぁ? よくそんな事大ぴらに言えたな。王族の目の前でそんな発言したら、即座に処刑だったかもな」



 私に真実を教えてくれたのは、牢の見張りをしていた酒臭い看守のおじさんだった。



「なんで勉強しちゃダメなの?」

「そりゃぁ、勉学なんて物は神様への冒涜だからだよ」



 この国の基準は神様だ。


 世界は神が創造したもので、その神の姿に倣って生きるのが尊い生き方とされる。そしてその神々は、毎日歌って踊って恋をして……楽しく暮らしているとされている。


 つまり、尊くなければならない高位の貴族であればあるほど、神に倣って怠惰に生きなければならない。


 勉学や仕事をして生計を立てなければならない平民は別として、その甘い蜜を吸えばいいだけの貴族が勉強や仕事を熱心にするのは、非道徳的な生き方となるらしい。


 むしろ貴族の仕事はいかにして甘い蜜を吸うかであって、その為に少々領地の運営管理などをしてあとは楽しく遊ぶのが理想とされる。



「じゃあおじさんは今看守人として仕事をしているから、神様への冒涜になってしまうの?」

「あったり前だよ。でも俺たち平民は仕方ねぇんだ。お貴族様達に納税して神様のように暮らしてもらうことによって、神からお許しをいただいてるんだよ」



 貧富の差はあれども『法の下の平等』が掲げられてきた日本で生まれ育った私には理解できない考え方だ。


 それでも郷に入れば郷に従えという言葉があるように……私は勉学を貶すべきだっただろうか?



「……難しいね」



 ぽつりと呟いた。


 勉強を否定してしまえば、それだけを頑張ってきた自分を否定するようで怖かった。唯一私と一緒に来てくれたこの化学の参考書をドブに捨ててしまうような考え……私には難しかった。



 胸に抱いた参考書をさらにぎゅっと抱きしめた。



「そういや聖女様、あのリヒト・クルークハイト伯爵を庇ったんだって?」



 誰の事かわからなかったので聞き返すと、私へ投げかけた言葉のせいで周りに責め立てられたあの男性の事だった。


 咄嗟の事だったので、アクアシルバーの髪を綺麗に七三分けにして眼鏡姿の……若いサラリーマン? と言いたくなるような姿だった事しか覚えていない。

 あの後彼はどうなってしまったのだろう。



「まさか私と同じように囚われていたりとか……」

「そんな心配しなくても悪辣の統治者なら大丈夫だろう。聖女様も不運だったなぁ。あんな奴に目を付けられた上に、こんな場所にぶち込まれるなんてさ」



 何その悪辣の統治者って。

 そう思ったのが顔に出ていたのか、看守のおじさんの方から説明してくれる。



「あの伯爵領には悪い噂しかないんだと。領民に勉学を強要し、伯爵自身も研究が好きだとかぁ? そんな場所に生まれなくて良かったと心から思うぜ」



 ……私は、どうせ召喚されるならそういう環境の方が良かったな。



 話のキャッチボールもだんだん少なくなっていき、看守のおじさんは酒が回って完全に寝ついてしまったようだ。

 そのいびきが煩かったのもあって全く寝付ける気がせず、私は雨水がしとしとと降る音をただ目を閉じて座ったまま聞いていた。



 

 ――キィッ……と錆びたドアが開く音がした。



 誰か来たのかな? そろそろ深夜だから看守のおじさんの交代かもしれない。ならばこの煩いいびきも無くなって丁度いいのにな。



 そんな事を考えているうちに……牢の錠前が開く音がして目を開けた。



 すると目の前にあったのは数時間前に見た綺麗なアクアシルバーの髪だった。その髪はきっちりと七三分けにセットされており、眼鏡の奥より私を見つめる髪と同色の瞳は……知的な印象を放つ。


 私を庇った事で皆から責められてしまった……確か、リヒト・クルークハイト伯爵だ。



「――! あなたはっ」



 静かに……と言うかのように、私の唇に彼の人差し指が当てられる。



「……私と一緒に来るんだ。逃げよう」

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