しっぽちゃん

夏空蝉丸

第1話


神社の入口前の道路にいたキジトラ猫。

危ない。

このままじゃ轢かれちゃう。

そう思った私はキジトラ猫を助けた。

子猫のような軽さのキジトラ猫はすり寄ってくる。

どうしようと思うものの運命を感じて助けてしまう。


翌日、病院に連れて行ったら子猫ではない。実は初老の猫ってことが判明。

元気はないけど、助けたならば世話をするしか無い。

少しずつ仲良くなっていこう。


本作はシッポちゃんと名付けた保護猫と私の触れ合いを描く、ささやかな日常のお話です。



【サブタイトル】

1.野良猫を助けることにしたよ



 猫がいた。


 時刻は午後七時三十分過ぎ。夏の終わり八月末。既に陽は落ちている。電灯は離れた場所にあり、周囲は暗闇に包まれている。ジメジメした暑さが残る神社の前の道路。カブトムシを思い出させる樹液の匂いがかすかにする中、招き猫のように座っていた。


 センターラインもない一車線の田舎道。暗い道路の中央にいた猫は子猫に見えた。手のひらに乗るほどではないが、小さかった。


 私は、見なかった。気づかなかった。そう思い込もうとしながらも立ち止まった。大きな石かもしれない。などと考えても、目を凝らして見るとやはり猫だった。


 何故こんな場所に。野良猫だろうか。神社に住み着いていたのだろうか。猫の方を見ていると、明かりが近づいてきた。自動車だ。それほどスピードは出していない。だが、このままだとかれるかもしれない。


 私は手に持っていたスマホのライトを点灯させた。猫にライトを向ける。明かりで逃げ出すだろう。そう思うものの動かない。まずい。けれども、猫は何も考えていないようだ。慌てて今度は車に向かってスマホを向ける。眩しいかもしれないので、少しだけ角度を落とす。何か緊急の出来事がある。それくらいは理解できるだろう。


 その願いが通じたのか、自動車は猫の手前でスピードを落とした。ヘッドライトに猫の姿が映し出された。


 これで、大丈夫。猫の逃げる時間が稼げた。安堵したのも束の間。猫はちっとも動こうとしない。自らの命を差し出そうとしているかのようだ。


 自動車は猫を避けようとノロノロと動く。が、猫は道路の中央にいる。片側一車線の道路ならば避けれただろうが、この道路幅は狭い。車がすれ違うのがやっと程度だ。それに、急に動いたら轢いてしまうかもしれない。


 立ち往生している自動車を見て私はサッと道路に飛び出した。猫の首を掴んで持ち上げる。野良猫なら暴れるかもしれない。そう思ったが、猫は何事もないかのように私に首根っこを掴まれたまま歩道まで運ばれた。


「大丈夫か? もう少しで轢かれるところだったからね」


 猫に説教をしようとすると、自動車の助手席の窓が開いた。


「ありがとうございます。お姉さん」


 暗くてはっきりとは見えなかったが、声から判断して若い女性だった。運転は彼氏か旦那かがしているのだろうか。お礼を述べると同時にさーっと走り去っていった。


 ああ、私、お姉さんなのかな。もう二十代じゃないけど。内心苦笑しながらもお礼は嬉しい。若く呼ばれれば尚更。気分を良くしながら猫に微笑むと、私の足に擦り寄ってくる。


 ちょっと待って。野良猫ちゃんは清潔とは言えない。私がササっと距離を取ると、再び招き猫になった。お腹が空いているの? そう思いながら猫を見ていると、神社の入口にご飯が置かれているのに気づいた。近寄って確認した。猫缶だ。でも、ちっとも食べた形跡がない。


「君、あそこに餌があるじゃない」


 そう猫に話しかけてみるものの反応しない。猫が日本語がわからないから反応しない。というより、元気がないように感じられた。このままここに置いておけば死んでしまうかもしれない。と言うのも道路の中央にいたのが、自殺願望に思えたからだ。


 猫にそんな知能があるはずない。冷静に理論的に考えればそうかもしれない。けど、状況から判断するなら、それ以外は考えようがなかった。


 関わり合いにならなければ良かったの? そんなことを思いながら家族に電話をする。


「猫がいるんだけど」

『猫くらいいるんじゃない』

「野良猫のようなんだけど」

『そう』

「拾ってあげた方が良いかな」

『えっ?!』


 不満そうな声だったが、母親が運転する車は数分後に到着した。神社の駐車場に停車させると、お菓子の蓋を持って降りてくる。


「なにこれ」

「なにって、これに乗せたほうが良いかな。と思って」


 いや、それならダンボール箱を持ってきてよ。みかん箱とか。と言いたくなったが、今更取りに帰るわけにもいかないだろう。そう判断した私はお菓子の箱の蓋の上に猫を乗せた。暴れまわったり逃げたりするかもしれない。一瞬だけ危惧したが、猫は大人しく蓋の上で動かない。


「チャンス」

「待って、ドアを開けるから」


 私は後部座席に猫を置いた。ちょっと乱暴だったかもしれない。ヒヤリとしたが、猫は動かない。まるで招き猫のように、運命を知っているかのようにジッとしている。


 このまま大人しくしていてね。そう声をかけながら助手席に乗り込もうとした時、セミがジジッと鳴いた。


 拾ってきた猫を家に連れてきたら父親が待ち構えていた。団地の片隅にある一軒家。玄関の前で仁王立ち。それって何処のドラマの見すぎ? 町内の人に見られたら恥ずかしい。ちょっと演出がかった行動だが、冗談でやっているわけではない。


「飼わないぞ」


 父親は私と母親を見て仏頂面を見せるが、私も母親も意に介さない。


「見て見て!」


 私はお菓子の箱の上に乗せた猫を見せる。


「小さいな」

「多分、子猫だと思う。この子をそのまま道端に置いておいたらどうなると思う?」

「死ぬかもしれないな」

「死んじゃうかもよ。このまま家の前に置いたら」

「何を言ってるんだ。いた場所に置いてこい」

「そんなことをしたら、私たちが猫を捨てたみたいじゃない。それでも良いの」

「良くない」

「じゃあ、飼うこと決定ね」


 私が速攻で言いくるめると、父親は腕を組んだまま動かない。だが、しかめっ面は崩れている。打ち崩されたのに必死になって続投させられるピッチャーのような表情をしている。


「その猫は洗うまでは家の中に入れるのは禁止だ」

「どうして?」


 と、これは母親。


「だって、蚤がいるかもしれないだろ。ダニだって。少なくとも家に上げるのは、ちゃんと調べて健康ってわかってからだ」


 ここだけは譲れないと言わんばかりの父親。私も母親もすぐには同調しない。だが、実はその意見に私も母親も賛成。今日はもう暗いから、何もできない。だから、明日にでも体調とか病気とか調べる予定。ちょっと不平不満を述べてから提案を受け入れることにする。


「えー、じゃあ、このままここに置いておくの? 逃げちゃうかもよ」

「キャリーケースがあるだろ」


 以前に飼っていた猫用に買ったキャリーケースがある。その中に入れておくのは少し可愛そうかもしれない。だが、そうは言っても他に名案はない。私も母親も、お風呂場でシャンプーとは言わなくても、猫用タオルで拭いてあげることくらいは必要との認識はある。


「仕方がないなぁ。お母さん、ケース何処にあるの?」

「はいはい。ちょっと待っててね」


 母親は家の中に入っていく。すぐにキャリーケースを持って戻ってくるだろう。それまでに、逃げ出さないか私は猫を見張る必要がある。


 お菓子の箱の上に乗せていた猫を玄関の前に降ろす。奇妙な動きがないか注意する。突如走り出して逃げ出してしまえば追いかけようがない。私より猫の方が足が速いだろうから。


 幾ばくかの不安はあったが、猫は逃げ出そうとはしなかった。むしろ、私の足にすり寄ってくる。まるで、以前に飼われていたかのような人懐っこさだ。


 勿論、首輪などはない。飼われていた証拠は何処にもない。けれども、野良猫のはずなのに、人に対して警戒心がなさすぎる。以前に我が家の庭に不法侵入してきた野良猫は、近づくと威嚇したりすぐさま逃げ出したりした。餌をもらおうなどとすらしなかった。それに対してこの猫は反発するより共存する意思を見せている。いや、甘えてきているようにしか見えない。


 私は猫に話しかける。


「君は今まで飼われていたの?」


 質問に対して答えはない。にゃあ、と返事をすることもない。ただ、黙ってウロウロとするだけだ。私の記憶では神社に猫がいた事はない。少なくとも一週間前に見た記憶はない。とすると、猫がやってきたのはここ数日の話のはず。猫缶が置かれていたから、見知らぬ人が用意した可能性より、この猫を置き去りにした人間が置いた可能性のほうが高いように思える。


「今日はまだ涼しいから我慢してね」


 私が猫の尻尾の付け根を撫でると、嬉しそうにピンと尻尾を立てる。嬉しそうで甘えた様子を見せている。でも、ニャアと鳴くことはない。そこまで慣れているわけではないのかな。猫はしばらく私の足にまとわりついた後、疲れたようにその場所に座りこむと動かなくなる。


 やっぱりこの子は病気なんだろうか。考えていると、母親がキャリーケースを持って家から出てきた。


「キャリーケース見つけるの大変だったの?」

「これ探していたのよ」


 母親はキャリーケースを私の前に置くと、猫用のステンレス製の小皿を二枚、ケースの中から取り出す。


「餌は持ってきた?」

「全部は持ってこれないわよ」


 母親は家の中に戻るが、すぐに出てきた。私はその間に庭にある外栓で小皿に水を入れている。猫の前に置いてみるが、飲もうとはしない。


「元気がないみたい」

「明日、病院につれていくしか無いねぇ」


 私は動かない猫を両手で掴む。さっきと同じく抵抗することはない。「一日の我慢だからね」声をかけながらキャリーケースの中に入れる。はみ出そうな尻尾を押し込んでからケースの扉を締める。ニャアと言いながら声をかけるが、猫は反応せずに小さくなる。その時、近くの家からニャアニャアと猫の鳴き声が聞こえてきた。


 翌日、朝、猫はキャリーケースの中にいた。ピクリとも動かない。一瞬、死んでいるかと勘違いするほど大人しい。


「お母さん、この子……」

「生きているよ。でもねぇ」


 母親は悲しそうな声で返事をする。


「病院に連れて行かなきゃ」

「そうしてもらいたいけど、会社があるんだろ?」

「フレックスで何とか。流石に在宅勤務をサボって病院ってわけにはいかないから」


 私はとりあえず、朝食を取り、化粧をして出社できる準備を整える。動物病院の時間を調べると九時からだ。朝一に行けば十時には会社に行ける。もし、遅くなっても、十一時には間に合うだろう。最悪、時間が厳しくなったら帰りは母親だけに任せてもいいし。


「なんか、食べさせたほうが良いのかねぇ」

「でも、チュールの残りも食べないんでしょ」


 私は思い出してみる。神社の入口に置かれていた猫缶やミルクは手がつけられていなかった。その時は、お腹が空いていないんだろう。そう考えていたけど、それは多分違う。体調が悪くて食べなかったんだ。安っぽいカリカリならまだしも。猫缶だ。健康な猫ならば一口でも食べるのが普通だろう。


 近づいて猫の様子を見ると、ズビーって音を立てている。鼻が詰まっている。病気なのは間違いない。


 私と母親は車で数分の動物病院に行く。診察開始の十分前に動物病院に到着すると、一台だけ病院の前の駐車場に外車が停まっていた。


 一番乗りを期待していたわけではない。準備に手間がかかり、遅れてしまったのだ。だから私は、駐車場に停められないほど診察待ちがいないだけ助かったような気持ちになっていた。


 入り口に置かれていた二番の予約カードを取り、待つこと十分。病院の入り口が開かれた。


 順番は決まっているから慌てる必要はない。猫が入ったキャリーケースを持った私は、母親と一緒に病院の中に入る。椅子に置くわけにもいかないか。そう考えて床にケースを置いた。髪が床につかないように手で抑えながら、ケースの中を覗き込む。こっちを見て喜んでくれるかと思ったが、猫はじーっと横たわったままだ。


「ねぇ、……。病院に来たけどわかる?」


 話しかけながら私は気づいた。まだこの子には名前がない。私は覗き込むのを止めて椅子に座る。


「新一、まだ起きないのかい?」


 母親が私に話しかけてくる。どうやら、名前があったようだ。


「ちょっと待って。勝手に名前を決めないでよ」

「新一って良いと思わないかい?」

「それおかしいって。そもそもこの子、女の子かもしれないじゃない」


 私が言うと母親は、はっとした表情を見せる。どうやら、母親の中ではこの子はおすってことになっていたらしい。 ブツブツと新一じゃなきゃ、蘭が良いか。とか言っているが気にしない。命名権は私にある。


 動物病院で待つこと、さらに十分くらい。思ったより早く呼ばれて診察室に入る。診察台の上に猫を置いて、先生に見せる。


「この子猫なんですけど、殆ど動かなくて調子が悪くて死にそうなんです」


 一気通貫に言ってしまい一呼吸おく。すると、先生は診察台の体重を確認してから、じーっと猫を観察する。


「この子、子猫じゃないよ。間違いなく大人だね。どれどれ」


 先生は若い助手の女性に猫を抑えさせると素手で口元を確認する。


「ああ、口内炎が酷いねぇ。それと、うん。あ、そうか。多分、六~七歳だね」

「えっ? 六ヶ月ですか?」

「いや、六歳とか七歳かな。人間で言ったら初老だね」


 私は呆然とする。だって、軽々と持てる重さだ。前に飼っていた猫は、十八歳でも6kgもあったんだよ。


「体重は1.6kgだね。鼻も詰まっているようだし病気のようだね」


 先生はそう言いながら猫の背中の皮膚をつまむ。元に戻る時間が長いほど、水分が足りないのだ。これも前の猫のときにやっていたから知っている。


「とりあえず、点滴で良いかな。それにしても、この子、前からこんな感じだったの?」

「え、はい。いえ、実はこの猫、昨日拾ったんです。道端で動かなくて轢かれそうになっていて、見捨てたら死んじゃうな。って思って。子猫なら、少しすれば回復するだろうって」

「ああ、保護してくれたんだ。ありがとうね。治療はどうする? 一万円くらいはかかっちゃうけど」

「大丈夫です。お願いします」


 私が頭を下げると、先生は点滴の準備をする。その横で助手の女性が革手袋をはめて猫を抑える。


 猫の点滴は皮下注射なので楽だ。人間に打つ静脈内注射とは違いかなりの速度を出せる。人間にも皮下に点滴ができたら楽ですよね。とか言ったら笑われたことがある。


 点滴は思ったより時間がかからず終了した。けれども、先生はすぐには猫を開放しない。


「耳にダニはいないねぇ。かなり綺麗だよ。あと、ちょっと、このギザギザが少し気になるなあ」


 先生が触っている耳の先っぽは少しばかり三角に切れている。


「カラスにでもかじられたんでしょうか?」

「いや、避妊手術をするとき目印に耳を切るんだよね。でも、これだとちょっと中途半端だから、マーキングなのか自信がないな。お腹もちょっと切った後っぽいのがあるんだけど、ちゃんと診てみないとわからないなぁ。もし、避妊手術をしたくなった時に正式に確認すると良いと思うよ」

「ところで先生、シャンプーとかできますか?」


 母親が話に割り込んできた。どうやら、父親から言われていたことが気になっていたらしい。


「出来るけど猫だからねぇ。麻酔をかけないと難しいかな。でも、この体重で麻酔するのは良くないから、実際にはちょっとね」

「でしたら、ノミ取りとかはどうすれば良いんでしょう」

「そうですね。それもしておきましょう」


 助手の女性が持ってきた薬を猫にかける。


「一日で効果は出ますから安心してください」

「ありがとうございます」

「それと、抗生物質を出しておきますね。飲まないと思いますので、食事に上手く混ぜて与えてください」


 食事ができれば良いんだけどなぁ。と思いつつ私と母親は先生に頭を下げた。そして、猫をキャリーケースに入れる時、先生が思い出したかのように声をかけてくる。


「あと、気づいているかもしれないけど、この子は雌だよ」


 先生のこの一言で母親の野望は潰えた。はず。再び先生にお礼を言ってから診察室を出ると母親は少しだけ首を傾げていた。独り言ににもならない声でブツブツとなにか言っているが聞こえない。多分、名前でも考えているのだ。


 私も名前考えなきゃいけないな。何が良いんだろう。と考えている間に、受付に呼ばれる。


「一万四千円です」


 受付に言われて私はショルダーバッグから財布を取り出す。母親の財布をあてにしていたんだけど、と思いつつも母親を見ると、まだ名前で悩んでいるようで動かない。給料前で痛い出費ではあるけど仕方がない。軽い財布からお札を取り出そうとした時、受付に先生が現れた。


「さっき、一万円って言ったから、一万円で良いですか?」

「えっ?」


 ありがたい提案に、すぐにハイとは言えずに間抜けな声を出す。


「でも、診察していただきましたので」

「その子は保護してあげたんでしょ。でしたら、私から保護猫ちゃんへのカンパと思ってください。あ、一万円はお願いしますね」


 私はクスッと笑ってから一万円を受付の女性に渡す。レシートと抗生物質を貰ってから何度も頭を下げた。お金だけの問題じゃない。この子を拾ったことを認めてくれたような気がして、胸が苦しくなる。


 動物病院を出た私と母親は車に乗った。


「今日、会社休む」

「そうね。色々と買わないといけないからねぇ」


 母親はそう言いながらハンドルを握る。助手席にいる私のことを見ようともしない。前方を睨むように見て安全運転に注力していた。


 私は母親と猫を家に置いてから近くのショッピングモールに向かった。そこには、ホームセンター並の大きさのペットショップがある。うちのような田舎でも困らないくらいの品物が売られている。


 今回の目的はケージだ。キャリーケースの中にずっと入れておくのは流石に可愛そう。だからと言って、家の中を自由気ままに歩かせるわけにはいかない。勿論、外で放し飼いにするには論外。逃げ出しちゃうかもしれないし、フラフラと道路に出てかれてしまうかもしれない。


 それらの妥協点がケージというわけ。車をペットショップの入り口すぐ近くに停める。平日の午前中だからお客さんは殆どいない。私は目的のケージを見つけると、ショッピングカートの上に乗せる。餌を買おうか少しだけ悩む。と言うのも、病院で数日分は消化器系に良い餌を買っていたからだ。


「今度でいいか」


 呟いてからおもちゃを見る。折角だから遊んであげたい。焼き鳥の長細いタイプのつくねとかバーアイスの形の白いふわふわしたおもちゃと、釣り竿にネズミをつけた形状のおもちゃを買う。他にも面白そうな形のおもちゃがあるが、とりあえず様子見。遊ばないようならば他のおもちゃを買うことにする。


 他になにか必要なものがないかとペットショップの中をグルグルと回っていると、トリミングコーナーがあった。概要を見てみると犬種に並んで猫もシャンプーが出来ると書いてある。


 もし、ここでシャンプーをしたならば家の中を歩かせられる。父親も反対しないだろう。そう考えてトリマーさんに声をかけようとした。が、ショーウィンドウの中にいる女性トリマーさんは目前のトイ・プードルに集中している。私に気づいているのかいないのか、一心不乱に作業をしている。


 邪魔をするわけにはいかない。そう思って移動しようとした時、少し離れた場所に猫と犬のショーウィンドウがあり、その受付があることに気づいた。話でも聞こうと近づくと受付の人が老夫婦と犬の販売に関して話をしている。


 長くなりそうだなぁ。心のなかでため息をつきながら並んでいると、背後から声をかけられた。まだ二十代っぽい若くてスラリとした女性だ。


「購入ご希望のワンちゃんか猫ちゃんがいらっしゃいますか」

「購入じゃなくて、猫のシャンプーをしたいのですが……」

「猫ちゃんですか……。猫ちゃんは難しいんですよね……。まず、予防接種が必要です。そこに書かれている予防接種をされて、動物病院の証明書を持ってきていただきます。それで、あちらのトリミング施設にてシャンプーをすることになるんですが、猫ちゃんは暴れる場合もありますので、その場合はその時点で中止になります。それで宜しければ予約することができますが、いかが致しますか?」


 私は瞬時に言われたことの全てを理解することできなかった。けれども、予防接種を受けていないことだけはわかっている。少なくとも証明書なんかないから、ここでシャンプーをすることは無理なことだけは理解できた。


「少し考えてください」


 私は営業スマイルを浮かべて断るとその場を離れる。レジに向かいながら頭の中で会話を思い出していると、ふと、一つの疑問が浮かぶ。暴れる場合は中止って、その時のお金はどうなるのだろうか。と。全額取られるならばあまりにもリスクが大きいし、無料ならば店側は手間だけ発生した無駄働きになってしまう。どっちなんだろう。疑問に感じて踵を返したくなる。しかし、予約はしないし、そもそも予防接種の証明書がない。


「帰ろ、帰ろ。シッポちゃんが待ってる」


 独り言を呟きながら気づく。シッポちゃん? それって名前? 無意識のうちに決めてしまった?


 猫は、茶色い毛に黒い縞模様の線があるキジトラ猫だ。獣医の先生の話では初老とのことだが、小柄で痩せていて子猫のように見える。そんな猫のひときわ目立つのが長いシッポだ。茶色と黒のコントラストが美しいだけではなく、スラリとして綺麗なんだ。


 私はペットショップでの買い物を終えて家に帰る。荷物を持って玄関に入り、そこに荷物をおいてから家に到着後、家族に宣言する。


「この子の名前、シッポちゃんにしたから」


 と。


 私としては、一歩も引かない。そんな意思を込めて言ったにもかかわらず、母親に「貴方の猫だから貴方が決めて問題無いからね」と軽く言われる。


 玄関入ってすぐのところにケージを置いた。中に新聞紙を敷く。このままだと流石に座り心地が悪い。古くなって捨てるのを待っていたタオルを敷き、一番奥に前の猫の時に買ったトイレを設置した。勿論、猫砂とトイレ用脱臭シートは用意済みだ。


「ちょっと狭いけどしばらく我慢してね」


 私はシッポちゃんに声をかけた。父親との約束があるから、リビングには連れていけない。それ以前にダニとかノミとかがいたら困るから、それこそ父親の言うようにシャンプーをするまでは自由に歩かせたくはない。


 ふと、猫にはどんな病気があるのかとネットとかで調べてみると、沢山の情報がヒットする。情報は必要なものとわかっていながらも、情報の海に放り込まれるとパニックになりそう。猫ひっかき病とかマダニとか、狂犬病は日本には無いと信じたい。不用意に引っかかれたり噛みつかれたりしないように注意するのは当たり前かもしれないけど……。もし、引っかかれたり噛まれたりしたら、私、死んじゃう可能性がある?


「あー、止め止め」


 私は考えるのを中止してシッポちゃんを見る。点滴をしてもらったのにぐったりとしている。昨日より元気がなさそうに見える。


「暑いのかねぇ」


 様子を見に来た母親に声をかけられる。


「人間でも暑いから暑いのかなぁ。でも、それ以前の問題のような気もする。やっぱり病気なのかな」

「拾ってこない方が良かったかもね」


 母親に言われて反論をしようとした。だが、ぐっと言葉を飲み込む。それは私も思っていたことだ。自分自身の汚い気持ちを言葉にする必要はない。


「とりあえず、頑張ってみるよ」


 呟くように言ってからシッポちゃんを見た。薄っすらと目を開けながら寝ている。見えているのかいないのか。わからない。早く元気になってね。心のなかでそう声をかける。横たわったままのシッポちゃん。これからどうなるのだろう。私は考えるのを止めれるよう努力しながらその場所を離れた。


 午後、八時。私が家に到着する時間である。いえね、本当は五時が定時。でも、残業や何やらで帰るのは七時過ぎになるのがいつも。二十分程度とは言え暗い夜道を若い女性が徒歩で通勤するのは危険。もっと早い時間に帰りたい。


「シッポちゃん、たーだいまー」


 玄関の扉を開いて、シッポちゃんに声をかける。けれども、ニャア。って反応はない。代わりにケージの前でしゃがんでいた父親が振り向いた。手には私がペットショップで買ったおもちゃがある。


「こ、これは、だな」

「勝手にシッポちゃんで遊ばないでよ」

「い、いや、遊んでない」

「もう」


 文句を言ってから自分の部屋に戻る。部屋着であるジャージを着て戻ると、父親がシッポちゃんをじーっと見ていた。


「起きてる?」

「ああ、起きとるよ。結構元気になったんじゃないか?」

「昨日、点滴を打った後はまだぐったりとしていたから、一日かかったのかな」

「午前中は動いとったけどな。まあ、ケージの中をウロウロしていただけだが」

「退屈してるんじゃない? 狭いから。外出してあげよ。って、その前に体拭かなきゃ。手伝ってね」

「ああ」

「ウェットティッシュ取ってきて」

「はいはい。母さん、ウェットティッシュ何処だ?」


 父親がリビングの方に移動していくのを見ながら、猫グッズを見ていて気づく。昨日ペットショップでシャンプータオルも買っていたことに。


 私はシャンプータオルを一枚取り出してからケージを開ける。鳴き声もなく出てきたシッポちゃんは、やはり甘えた様子。私は嫌がったり抵抗されたりするかとも思うものの、シャンプータオルで背中を拭く。頭を撫でると、とても嬉しそう。今までそうされていたのが慣れていたかのように。


「気持ちいいのかな」


 シッポちゃんに声をかけながら全身を拭く。すると、しゃがみこんでいた私の足にまとわりつく。


「ちょっと遊んで見る?」


 ネズミの模型が付いた紐付きのおもちゃを掴んで立ち上がる。ゆらりゆらりと動かすと、凄く興味を示した。だから、猫が興味を持つような動きを見せると、シッポちゃんはネズミを追いかけ始める。元気な猫ほどではない。でも、手を動かす速度は流石に猫。完璧に避けたはずのネズミをしっかりと捕まえる。


 やはり、メス猫だからおもちゃへの反応が良いのだろうか。ネットでは、オスの方が好奇心があって遊ぶ。とも書かれていたが、前の猫は雌の方が遊んでくれていた。


 それとも個体差なのだろうか。おもちゃの動かし方で反応が変わるのは同じようなんだけど。


 ちなみに、おもちゃの動かし方にはコツが有る。よく、猫の前で鬱陶しいくらい動かしたりする人がいるが、あのやり方は良くない。人間だって、目の前で札束振り回されたり、顔をペシペシ叩かれたりしたら苛つくのと同じ。少し離れた場所で、ホレホレ、どうだ? ちょっと隠してみせるよ。おおおおっと、出てきちゃいました。てな感じで動かすと、はじめは興味を持っていないふりをしていた猫も飛びついてしまうのだ。


 私はおもちゃで散々遊んだ後でカリカリを目の前に置く。運動したらお腹が空く。これは人間も猫も同じ。そう考えていたんだけど、シッポちゃんはちょっと口をつけるだけで食べようとはしない。


 もしかして、運動した後は食べ物が喉を通らないタイプ? 観察しようかと思って頭部に触れてみると、猫パンチが飛んでくる。本気で引っかきにきているわけではない。だから当たりはしない。それでも嫌がっているのはわかる。


 余っていたチュールを持ってきて口の前に近づける。でも、反応はない。顔を近づけると、ズビーって音がする。ちゃんと見ていなかったから気づかなかったけど、風邪をひいている。昨日、動物病院で抗生物質を貰っていた理由を思い出す。


「確か……、水に溶かしてスポイトで上げれば良いんだよね」


 戻ってきていた父親に話しかけるが、良くわからないとばかりに首を傾げる。


「いいからシッポちゃんを持ってて」


 台所からプリンのカップに水を入れて持ってきて抗生物質を入れて溶かす。スポイトで吸ってからシッポちゃんの口元に近づける。


「もうちょっと口を上げれる? 噛まれないように注意してね」


 父親は文句も言わずにシッポちゃんの顔を少しだけ上げた。


「はい、良い子だから飲んでね」


 開かない口に無理やり差し込んでスポイトで押し込む。すると、上手く飲んだ……。かのように見えたが、バタバタと暴れだすとその場に吐き出す。


「ひえええぇ」


 父親が変な声を出した。


「一度、ケージの中に入れて」


 私はシッポちゃんが吐き出した抗生物質を拭き取る。普通のティッシュを持ってきて吐き出した付近を念入りに綺麗にする。


「酷い状態なんだが……」

「今から、お風呂入っていいよ」

「扱いも酷いんだが……」

「一番風呂じゃない。文句言わない」


 父親は悲しそうな表情でお風呂場に向かう。まだ、お湯は沸かしていないからシャワーでも浴びるのだろう。でも、風呂場の掃除も着替えも母親がやってくれるのだから、それほど待遇が悪いわけじゃない。え、私? 私は一家の大黒柱だからいいの。


 ウェットティッシュを一枚取り出しケージを開けてシッポちゃんの顔を拭く。鼻水を拭き取るとくしゃみを繰り返している。


「ごめんね。調子が悪いんだね」


 謝りながらケージを閉めた。本当は自由気ままに家の中を歩かせてあげたい。そう思いながらも、私も家族もその判断ができないままでいた。


 昨日はいっぱい遊んでくれたシッポちゃんだが、水もあまり飲まないしごカリカリも食べてくれない。薬は飲ませようとすると吐き出すし、トイレも一回だけで殆ど出ていないようだ。


「病院に行くしか無いかなぁ」


 朝食を食べ終わった時、私は母親にたずねる。的確な答えを求めていたわけではないが母親は食器を片付けながら曖昧に「そりゃあね」と答えた。


「九時からなんだけど」

「お父さん、出番よ」

「儂か……、だが、今日は土曜日だぞ」

「大丈夫。土曜、日曜もやっているから」

「それは偉いなあ」


 父親は多少疲労感のある表情を見せるが、別に行くこと自体は否定しない。


「母さん、儂の服はあるか?」

「はいはい」


 あっちはあっちに任せることにする。別にそれほど気張った準備は必要ないけど、それなりに時間がかかる。当然、シッポちゃんの準備も必要だから。


「まだか?」


 父親から催促の言葉を投げかけられて少しイラつく。でも、そのことに文句は言わない。


「シッポちゃんのケージの下に敷いている新聞紙交換しておいてもらっていい?」

「一人じゃできんぞ」

「キャリーケースに入ってもらってからならできるから」


 私の言葉に返事はない。不満があるから。というより、了承したときの父親の態度はこんな感じ。もう少しコミュニケーション能力を高めてもらいたい。と思いつつも、六十を超えると無理かもしれないので、これ異常悪化しないのを願うのみだ。


「母さん、古新聞何処だ?」って声を聞きながら、出かける準備を終えた私は時計を見た。九時ジャスト。今からなら、それほど待たされることはないはず。


 そう思って到着した動物病院は想定異常に混んでいた。それでも、五番目に診察できることになった私たちは、エアコンを付けた車の中で待機することにする。今の時期、待合室に入れるのは、次の診察の動物と飼い主だけだからだ。


 フロントガラスに銀色のサンシェードを置いて直射日光を避ける。シッポちゃんが乗っているのは後部座席だから、直射日光で熱くなることはない。それでもこれ以上、症状が悪化しないかと不安になる。だから、受付の人が来るやいなや私はシッポちゃんを連れて車から出る。待合室で待つこと数分。呼ばれて私はシッポちゃんのキャリーケースを持った父親と一緒に診察室に入る。


「どうしました?」


 先生はキャリーケースから出したシッポちゃんに訊ねる。


「食事を取らないので診ていただこうと思いまして……」

「えーと、体重は2.0kgか。一昨日よりかは増えているね。どれどれ」


 先生はシッポちゃんの口元を念入りに調べる。助手の女性が抑えてくれているが、噛まれたりしないか心配になる。


「もしかして、腎臓病とかでしょうか? 腎臓とかが弱っているから食べれないとかないでしょうか?」


 私は思わず思いついたことを口にする。だが、先生は眉を少しばかり眉間に寄せてから私に答える。


「可能性はあります。ですが、他の病気の可能性もあります。精密な検査をしてみないことにはなんとも言いようがありませんね」

「検査すれば治るんでしょうか?」

「検査すれば、病気を特定できる可能性が高いでしょう。まずは、病気を特定して、それに合わせた治療を行うことが大事です。しかし、治るかどうかは別問題です。例えば、もし、慢性病であれば、特効薬で治せるというものではありません。それにいくつかの症例を併発している可能性もあります。どちらにせよ、対処療法的な治療を続ける以外の方法がない場合もあります」


 先生の言葉に私は何も言えなくなる。余計なことを言ってしまった。素人なのに失礼なことを言ってしまった。と後悔する。それに、先生は明言はしていないが、根本的な治療が難しいと言わんばかりだ。検査をすれば治せるならば、もっと強く推奨するはず。それなのに、対処療法を強調するかのような言い方は、治療が難しそうであることを感じさせる。


「口内炎もかなり進行していますね。あまり食べようとしないのは口が荒れているからなのかもしれませんね」


 先生に言われて思い出す。以前に飼っていた猫も口内炎があったことを。けれども、以前に飼っていた猫は口内炎でも問題なく食事は取れていた。カリカリは無理でもチュールのようなものは食べれるのではないだろうか。


「とりあえず、脱水症状もあるようですし、点滴をしておきますか? もし、検査もご要望されるのでしたら準備をしますが」

「はい。点滴をお願いします。検査はもう少し、様子を見て考えさせてください」

「わかりました」


 私は点滴をされているシッポちゃんを見下ろす。多分、この子は長生きはできない。自分の意志で食事を取れないのであれば死ぬしか無い。それでも、最後まで精一杯の治療をするのが私の義務なのだろうか。毎日のように動物病院に来て点滴をするべきであろうか。けど、それは単なる延命でしか無い。そもそも義務感のためだけに治療をする必要があるのだろうか。治療だって無料ではない。お金を唸るほど持っている大富豪でもない。


 答えなんて出るはずない。正解なんか何処にもない。


 私は治療と支払いを終えて帰る車の中でも考えていた。シッポちゃんにとって何が最良の選択肢なのだろうかと。


「全ては運命の手に委ねるしか無い」


 玄関を開ける時、父親が呟くように言った。私は思わず顔を覗き込んだら無表情のまま。何かを話しかけたわけではない態度を取る。持っていたキャリーケースを玄関に降ろすと、後は任せたと言わんばかりにスリッパを履いてリビングに行ってしまう。


「元気、出してくれるよね」


 私は話しかけながらキャリーケースからシッポちゃんを出そうとする。けれども、自分から飛び出てはこない。両手でシッポちゃんの両脇を持って出す。


 そのまま自由にさせてあげたい。そう思わなくもなかった。けれども、疲れている様子のシッポちゃんをそのままにしておく気にもなれない。可愛そうだとも思うけど、ケージの中に入れる。横になって丸くなって寝ている状態のまま動こうとはしない。ニャアと鳴くこともない。


「日曜日なのに早いわね」


 目を覚まして顔を洗っていると、母親の声がした。手ぬぐいで拭いてから、声の方を向くと母親は洗濯機から洗い物を取り出している。


「早いってほどでもないけど……」


 私の記憶では午前七時。いつも起床する時間と同じだ。日呼びだから特別早いというわけでも遅いというわけでもない。


「それより手伝ってくれる?」

「シッポッポの掃除かい」

「そうそう。シッポちゃんの掃除って言うより、ケージの底に敷いている新聞紙を交換したり餌を新品にしたりだけどね」

「餌ねぇ……」


 洗濯を中断させた母親と一緒にケージの中を見ると、シッポちゃんは元気そうだった。と言っても、暴れまわるほどではなく、昨日の死にかけているかのように横たわっているのに比べてって意味だけど。


「やっぱり、残っているんだ」

「食べれないのかね」

「どうなんだろ。拾ったときも神社の鳥居下に置かれていた猫缶もミルクも口をつけていなかったから」


 私はケージを開けた。すると、シッポちゃんは自分の力でケージから出ると、私にすり寄ってくる。甘えているのかな。私が頭を何度も撫でていると、シッポちゃんは飽きたとばかりに玄関の土間部分に降りた。


 やはり、猫は探検好きなんだ。いろいろな場所に興味を持ち、箱でもあれば自分のサイズなど考えもせずに飛び込んでしまうのだろう。私が微笑ましく見ていると、シッポちゃんは土間の中央でしゃがんだ。


 何をするのだろう。そう、呑気な気持ちで見ていると、徐々に広がりだす黄色い液体。あ、だ、ダメダメ。そこはトイレじゃない。


「お母さん、なんとかして!」


 ボーッと見ていた母親に声をかける。しかし、母親も何が起こったのか理解できないのか動きが遅い。


 優先度を考えて、私は慌てて自分の靴を持ち上げる。ダイジョブ。玄関ホール側に脱ぎ捨てられていた靴まで洪水は届いていない。すぐさま、靴入れに放り込んで安全圏に脱出させる。


「どうしようかねぇ」


 シッポちゃんを持ち上げた母親が困っている。


「すぐにケージに入れちゃって。まずはここの片付けを優先」


 私は母親に命令すると、ティッシュ箱に手を伸ばす。が、すぐに引っ込めて雑巾を取りに行く。階段下の収納スペースから、こんなときにはなにかに使えるかもしれない。と、捨てずに取っておいた雑巾代わりのボロボロのタオルを取り出す。小走りに玄関まで戻って面積を広げていた水害を抑えることに成功する。


「これ、もう捨ててもいいよね」

「好きにしていいわよ」


 ケージの横に置いていたビニール袋に詰めて外に持っていく。外栓でジョーロに水を汲み土間の清掃を始める。


「ちゃんとトイレはケージの中に入れておいたのに」

「そんなこともあるんじゃないの」


 猫は基本的に綺麗好きだ。トイレも苦もなく覚える。躾けるわけではない。猫の習性がトイレを使わせるのだ。そのはずなのに、シッポちゃんは土間の部分でオシッコをしてしまった。どうしてなんだろう。片付けながら考えていると、母親がぼそっと口にする。


「もしかして、路上生活が長くて土間のほうが道路に似ていたのかしらねぇ」


 一理ある。そう思うものの一瞬で否定する。シッポちゃんは神社にいた。神社にはトイレにしやすそうな砂利や土がある。都会のようなコンクリートジャングルではない。この街は、自然がふんだんに存在する。


「でも、良かった」


 私は土間の清掃を終えてから母親に言う。食事も取らない。水も飲まない。そんな状態で不安になっていたけど、今は元気そうだしちゃんとオシッコも出た。生きている証拠だ。


「ねぇ、お母さん忙しい?」

「忙しくない主婦なんかいないわよ」

「そっか。シッポちゃんにシャンプーをしてみたかったんだけど。オシッコで汚れちゃったし」

「いいんじゃない? 暇な人に手伝ってもらったら」

「暇な人?」

「いるじゃない。漬物石のように動かない人が」


 そう言うと母親は洗濯物を持ってリビングに向かう。そして、うなだれた様子の父親が代わりにやってきた。


「シャンプーするんだって? 噛まれないか?」

「噛むというより引っかかれる可能性はあるけど……。シャンプーして欲しいんだよね」

「ああ」

「抑える方よろしくね」

「大丈夫か?」

「ダメそうだったら中止にすればいいじゃない」


 私は風呂場のガスのスイッチをオンにして、シャワーを水を抜いたお風呂に流す。いくら夏で暑いとはいえ、水をかけたら暴れだしてしまうに違いない。私は人肌程度の温度になったお湯を洗面器に汲みシャワーを止める。


「連れてきてもらっていい?」

「ああ」


 私は猫用シャンプーを持ってお風呂場の奥に入る。そして、入口側にシッポちゃんを置いて父親に軽く押さえてもらう。


「ごめんね~」


 私は洗面器から少しお湯を取りシッポちゃんにかける。今すぐにでも暴れだし飛び回り逃げ出すんじゃないか。と思いきや、シッポちゃんは大人しく動かない。


「いけそうだな」

「うん」


 私はシッポちゃんが大人しいのを幸いに頭部以外はお湯で濡らしシャンプーで全身を洗う。首もお腹もお尻も尻尾も、綺麗にシャンプーで洗っていると、伏せの状態になっていたシッポちゃんは、お風呂場の床を舐めだした。


「ッ駄目だよ。それ、シャンプーのお湯だよ」


 私はシッポちゃんに注意するが、シッポちゃんは言うことを聞かない。暴れだすよりはマシだけど、シャンプー入りのお湯を飲むのは健康に悪そうだ。私は全身のシャンプーを洗い流す。


「タオル取ってもらっていい?」


 父親にお願いすると、父親は返事をせずにタオルを取りシッポちゃんの体を拭き始める。


「ちょっとドライヤー取ってくるね」


 シッポちゃんと父親の横を通り抜ける。居間に置いてあるドライヤーを持ってきた私は父親にお願いしてお風呂場から出してもらう。


「出来るのか?」

「手で温度を確認しながらやるから」


 私はシッポちゃんの体をドライヤーで乾かす。もう、神社の入り口にいたときのシッポちゃんとは違う。十分に綺麗になった。毛もふかふかしてきた。これで家の中で遊べそうだね。


 私がシッポちゃんの頭を撫でると、シッポちゃんは嬉しそうな表情を見せた。


 週明けはいつもダルい。会社に行きたくない。って気持ちを振り絞り出社する。一日働かされてヘロヘロになる。でも、今日の私は違う。家にシッポちゃんがいる。そう思うだけで元気が出るのだ。


「ただいま~」


 家に帰ってきてドアを開いて中に入った瞬間、変な臭いがした。獣臭ではない。食べ物を腐らせたような、カリカリがふやけて発酵したような酸っぱい臭いだ。


 直感でわかった。この臭いはシッポちゃんが放っている。そもそも、今日ほどではないが、昨日までもシッポちゃんが同じ臭いをしていた。でも、理解できない。昨日、お風呂場でシャンプーをした。だから、外でついた臭いは消えているはず。


 トイレの臭いではない。ケージの奥側に置かれたトイレに、うんちは残っていない。それに、オシッコっぽい臭いでもない。猫砂も汚れた様子はない。


 じゃあ、食べ物かと言うとそうでもない。食べ物はカリカリが少し置かれているが、発酵するほど古くはないし汚れてもいない。


 私はネットで検索をした。この臭いは正常ではない。シッポちゃんの体に何か異変がある。もし、原因を解明すれば、シッポちゃんが元気のない問題を解決できるはず。単純にそう思った。いや、願った。簡単に薬か何か振りまければ治療できる。そう信じ込みたかった。


 いくつかのサイトを見ていると、ある一つのことが見えてきた。そして、それが正解なのかシッポちゃんを観察して確認することにする。


 室内着に着替えて玄関まで戻ってきた私は、シッポちゃんを観察することにする。シッポちゃんはケージの中で眠っていた。横になったまま動かない。その状態のシッポちゃんに近づいてケージの入り口を開く。するとシッポちゃんは目を開けた。何処にそんな元気が残っていたのかと思うような動きで、ピョンと座り直す。


「そろそろ出たいんだね」


 シッポちゃんからの返事はない。代わりにケージからゆっくりと出てきた。


 私はウェットティッシュを何枚か用意し、すり寄ってくるシッポちゃんの顔を拭く。拾ってきたときほど鼻水は出ていない。だからと言って体調が回復したわけではない。顎の付近を拭き取ると、よだれがついてきた。いや、違う。涎じゃない。黄色い。医者じゃないから断定はできないけど、うみのようだ。


 あごの部分を見てみる。歯が飛び出している。何故だろう。これが普通なのか。それとも、口がただれていて歯が出てしまうのだろうか。


 歯周病のせいで嫌な臭いを発している。それは確定しても良さそうだ。と言っても、どうすればいいのだろうか。


「ちょっと窓を開けるか?」


 背後から声をかけられた。振り向くと父親が立っていた。しゃがみ込んで私が捕まえているシッポちゃんの頭を撫でる。


「どうして閉めていたの?」

「リビングのエアコンを効かせてたんだ。どうやら、暑いと調子が悪くなるようだ。なにせ、ここ数日は残暑が厳しいからな」

「だから臭いが籠もってたんだね」

「ああ。折角、シャンプーしたのに効果がなかったな」


 そんなことはない。そう反論したかった。でも、心の何処かで間違っていない。とも思えて言葉が出ない。


「歯周病みたいだな。歯とか口の中が良くないからご飯を食べないし、声も出さない」

「病院に行ったほうが良いのかな」


 私は奥歯を強く噛みしめる。


「それはお前に任せる。だが、病院に行っても延命しているだけだ。自分で飲んだり食べたりできなくなったのだから、寿命を科学で伸ばしているだけに過ぎん。それが悪いこととは言わないが、そこまでやらないことが悪いとは言わん」

「でも、責任があるじゃない」

「もし、ずっとうちで飼っていた猫ならばそうかもしれん。だがな、拾ってきた猫だろ。路上で死ぬよりは良かったんじゃないか」


 確かにそう。シッポちゃんは私が助けなければ、間違いなく車にかれていただろう。道路の中央から動かなかったし、御飯も食べていなかった。一日生き延びることだって出来なかったに違いない。


 でも、それは自然なことなのかもしれない。野良猫が食べ物を得ることができなくなり、動けなくなったら死んでしまうのは仕方がないことだ。野良猫の寿命は、一説には三~五年と言う。長く生きることが出来ない運命なのだ。


 シッポちゃんは、先生の話では六~七歳。それを考えると野良猫としては長生きをしたと言える。本当に野良猫ならば……。


「出来る範囲でやればいいじゃないか。うちは石油王じゃないからお金が余っているわけではない。病院で延命しなくても、最後まで面倒を見てあげれば、それで良いんじゃないか?」

「でも、もしかしたら治るかもしれないじゃない」

「いや、もう、この状態だと難しいんじゃないか。見た感じ、口内炎や歯周病がかなり進行している。そのせいで内臓系もダメージが蓄積しているだろうし。もし、あと一年でも前に動物病院に行って治療を開始したならば違ったかもしれない。だが、症状は末期的だと思う。それに、先生も言ってたんだろ。対処療法しか出来ないって」

「違うよ。検査して見ないと最適な治療ができないって」

「けど、検査すれば治るとも言わなかったし、検査もあまり推奨されなかっただろ。もし、治せる自信があるならばそう言ったんじゃないかな。曖昧なことを言ったということは先生もあまり長くないことを感じていたんじゃないかな」


 父親の言うとおりだった。私も先生の言い回しがどことなく奥歯に物が挟まるような氷原に感じられた。


「大事なのは愛情を持って最後まで面倒を見てあげることだろ」


 父親の言葉に打ちのめされる。私はシッポちゃんに愛情を持っていただろうか。ちゃんと世話ができていただろうか。この子のために何かしてあげれただろうか……。


「偉そうに言って、面倒を見てるのはアタシじゃない」


 いつの間にか、母親が父親の背後に立っていた。エプロン姿で笑みをニッコリと浮かべている。


「二人共、夜ご飯できたわよ。その子をケージに入れて早く来てね。冷めちゃうから」


 母親は言うだけ言うと、リビングに戻っていく。


「御飯を食べてから、シッポッポに餌でもあげるか」


 父親は立ち上がり、母を追いかけるようにリビングに向かう。


 別に、急いでシッポちゃんに御飯をあげる必要はない。そもそもカリカリは食べないから、流動食を無理やり食べさせるしか無い。一人では出来ないから母親に手伝ってもらわなければならない。でも、そんなことをすることに意味はあるのだろうか……。


 ポジティブな考えがちっとも出てこない。人間、空腹時には良い考えが出てこないんだ。私はそう考えて、夜ご飯を食べてからシッポちゃんの世話をすることにした。


 九月に入り、夏は終わろうとしていた。けれども、暑さは続いていて、夜になっても気温は下がらない。ちっとも涼しくならないせいか、シッポちゃんは殆どの時間を横になったまま過ごしている。


「手伝ってくれる?」


 私は母親にお願いした。ケージから出したシッポちゃんを捕まえてもらう。頭を少し上げてもらいスポイトを握りしめた私は狙いを定める。


「はい、あ~んして」


 赤ちゃんに言うようにシッポちゃんに言う。けれども、赤ちゃんと違いシッポちゃんは口は開けない。むしろ、顔を背ける。噛まれないように注意しながら口を開き、スポイトでピュッと流動食を流し込む。


 嫌がっている様子はない。嫌がっているならば、抗生物質を飲ませたときのように吐き出すはず。むせることはあっても、素直に飲んでいる。けれども、十分な量を飲むわけではない。スポイトで五、六回ほど飲ませたら、暴れだして飲もうとはしない。とてもお腹が一杯になる量じゃない。でも、私も母親もそれ以上シッポちゃんに食べさせない。


「カリカリを食べてくれると良いんだけど」


 私が母親に言うと、母親も疲れた表情を見せる。


「今朝、お父さんに手伝ってもらって口の中に入れてみたけど、飲み込めなかったのよね。結局、無理やり取り出しちゃったのよ」


 シッポちゃんは私にすり寄ってくる。フローリングの床で滑るのか、フラフラとしながら近づいてくる。撫でられるととてもうれしそうな表情を見せる。だが、鳴くことは無い。舌を抜かれたかのように声を出さない。


「やっぱり、この子は飼われていたのかねぇ」


 人懐っこいシッポちゃんの姿を見て母親は言う。その言葉には、何ら根拠はない。けれども、説得力はある。シッポちゃんが人に飼われていたであろう理由はいくつも考えられる。


 まず、捨てられていた神社に餌が置かれていたこと。安っぽい餌や残飯ではない。そこそこの金額がするであろう猫缶が置かれていたのは不自然だ。勝手に捨てられた神社の関係者がそこまでするとは思えないし、近所の住人が勝手に猫缶を置くのも考えづらい。自分勝手にシッポちゃんを捨てた飼い主が、自分勝手に餌を置いていたのではないか。そんな推測が出来る。


 次に、耳にダニがいなかったこと。それに、数回出したうんちから寄生虫が見つかることもなかった。本当の野良猫ならば、ダニや寄生虫がいるのが普通だ。それなのに、六~七年も生きている猫が何もない。と言うのも不自然だ。


 そもそも、神社に猫は住んでいなかった。たまたま通りかかる一週間前には間違いなくいなかった。その猫が突然現れるのも不自然だ。更に言うならば、平均的な野良猫の寿命より明らかに長生きをしているのも不自然である。


 考えれば考えるほど、シッポちゃんが口内炎や歯周病を悪化させて、異臭を放つようになったから捨てられたとしか思えなかった。だからこそ、何とかしたかった。治療して捨てた飼い主を見返してやりたかった。元気になって一緒におもちゃで遊びたかった。お腹を撫でてあげてニャアと鳴く声を聞きたかった。


 だが、それは現実的に不可能だとわかっていた。実際には自分で食事も満足に取れない。口を開けることすら大変そうなシッポちゃんが長生きするのは無理だとわかった。完璧な治療を行うことはうちでは絶望的だった。


「自分勝手だったのかな」

「どうかしらね」

「責任を持って最後まで面倒を見なきゃ駄目なのかな。病院に連れて行って治療しないと駄目なのかな」

「でも、それは難しいわよね」


 毎日のように動物病院で点滴を打ってもらえば、多少は元気になるだろう。しかし、それは現実的ではない。私には会社があるし、両親も持病があり、動物病院に毎日通うことは出来ない。


 もし、一週間だけ通えば完治する。元気になることが出来る。そう保証されているならば通えたかもしれない。しかし、現実は不透明で、きっと治らないであろう病気をいつまで続くかわからないまま通院することは精神的にも辛すぎる。自分勝手で言い訳ばかりと思いながらも、自然の成り行きに任せることしか出来なかった。


「どうすれば良かったんだろう。やっぱり拾うべきじゃなかったのかな」

「そうね。拾わなければ何も起きなかったわね」


 違う!

 私は叫びだしたかった。シッポちゃんを拾わなければ、確かにこの苦しみは発生していない。けど、シッポちゃんは救われたのだろうか。飼い主に捨てられた状態で野垂れ死んで良かったのだろうか。


 偽善? そうかもしれない。でも、私は少しでも助けたかったのだ。


「まだまだ元気そうで良かった」


 翌日、会社から帰ってきた私が玄関を開けると、横になっていたシッポちゃんはパッと起き上がる。招き猫の姿勢になったシッポちゃんに「こんばんは」と挨拶をする。


 二階の自室で着替えてからリビングに戻ってくると、両親は夕食を食べ終わっていた。少しは待っていてくれてもいいのに。そう思わなくもないが、私の帰宅時間がバラバラ過ぎるのが悪い。


 テレビを見ている父親の横でユーチューブを見ながらご飯が出てくるのを待つ。良いの良いの。この家の家計を支えているのは私だから。


「昼間はちょっと遊んでくれたんだけどね」


 母親が食器を置きながら話しかけてきた。


「やっぱり調子が悪いの?」

「そうね。ちゃんと歩けないし、御飯もちっとも食べれないからねぇ」

「じゃあ、ご飯を食べ終わったら、手伝ってくれる?」

「そうね。たまには、面倒を見てあげないといけないしねぇ」


 母親はお盆に食べ終わった食器を乗せてキッチンに戻っていく。食洗機があるとは言え、家事は沢山ある。のんびりとしているわけではない。一人でやった方が良いのだろうか。


 考えていると、テレビを見ているはずの父親の視線を感じた。チラチラと私の様子を伺っている。もし、命令口調で言えば父親も手伝ってくれるとは思う。でも、折角の母親の申し出を断る気にはなれない。気づかないフリをする。


 慌ただしく食べ終えた私はシッポちゃんのところに向かう。ケージを開けて食事をしてもらおうと思った。母親が来る前に、口周りや汚れている部分を拭き取りたかった。ウェットティッシュに手を伸ばし、一枚取り出してからケージを開く。


 シッポちゃんは帰宅時と違い横になっていた。眠っているかのように丸くなっていた。使い古されたバスタオルの上に、心地よさそうにニャンモナイトになっている。静かに何かを待ち続けるかのように動かない……。


 全く動いていなかった。それまでは、横になっていた時も、お腹が上下していた。呼吸をしていた。けれども、今は完全に停止している。


 手を握ってみた。勿論、反応はない。猫の体温はこれくらいのはずない。というほど、冷たくなっている。


 目を閉じようとした。まぶたを指で閉じようとするが動かない。無理やり続ければ閉じたかもしれない。しかし、見開いた目は虚ろで、苦しげな様子はまったくない。私は頭を撫でるだけにして鼻をすする。


「お母さん! シッポちゃんが……」


 私はリビングに向かって大声を出す。すると、両親は何事かと言わんばかりに玄関まで来てくれた。状況が理解できていない表情だった。でも、何が起こったのかは、シッポちゃんを見ずともすぐに理解した。ただ、覚悟していたものが訪れただけだと理解していたようだった。


 三人でシッポちゃんの体を撫でてあげた。もう、鳴くことも甘えてくることもない。大人しくて甘えん坊だったシッポちゃんは、ここに抜け殻だけ残している。動かないまま私たちのことを見つめている。鳴き声どころか物音一つ立てずに、シッポちゃんは天国へと旅立っていたのだ。


 シッポちゃんが死んで、悲しかったけれども冷静だった。もう長くは生きられないと、頭の片隅でわかっていたんだろう。

 私は持っていたウェットティッシュで体を入念に拭いた。最後は出来るだけ綺麗にしてあげたいと思った。


「明日、朝一で火葬場に行ってくる」


 父親は迷ったような表情で私に告げた。


「うん。私も行くよ。有給は余っているし、急ぎの仕事もないから」

「今日は冷やしておいたほうがいいのかねぇ」


 母親は涙をハンカチで拭いながら言う。シッポちゃんのことをそれほど好きそうには見えなかった母親だが、一番面倒を見てくれて感情移入していたのかもしれない。すぐに、涙は止まるが伏し目がちだ。


「捨てていい保冷剤あるかな?」

「持ってくるね」


 母親が保冷剤を取りに行く間に、シッポちゃんをケージから猫ちぐらに移動させた。


「安らかな顔をしているな」

「でも、本当に良かったのかな。最後までちゃんと面倒を見きれなかったんじゃない?」


 私は父親に突っかかる。言っていることがおかしいかもしれないと思いつつ、どうしても感情が押さえられない。


「人間には出来ることと出来ないことがある。うちは出来る範囲でベストを尽くした。それがたとえ自己満足なものであったとしても、死にそうになったシッポッポを保護したんだ。たかが、一週間しか長生きが出来なかったけど、私たちはシッポッポと十分に心を通わせたはずだ。冷たい路上で死んでゴミのように廃棄されるのではなく、最後を知ってもらうことが出来たのは、シッポッポにとって良かったことに違いない」


 私は何か反論したかった。湧き上がる理不尽さを何処かにぶつけたかった。でも、出てきたのは単なる涙だった。


 猫ちぐらを玄関に置いたままで片付けを始めた。ネズミのおもちゃは既に傷んでいた。あまり使われていないのに、十分に遊んだかのように傷ついていた。

 家族三人で葬儀場に行った。私は年休を取得した。


 インター近くのペット用葬儀場は少し人里離れた場所にある。落ち着いた雰囲気の場所で、車から降りると、職員の方が迎えに来た。


 私はシッポちゃんを寝かせた猫ちぐらごと持って施設の中に入る。


「本日はご愁傷様です。当施設をご利用されたことは初めてですか?」

「いえ、数年前ですがお世話になっています」

「ありがとうございます。以前にご利用いただけたとのことですが、念の為、当施設の説明をいたします。合同の火葬と個別の火葬がありますが、如何がなさいますか?」


 合同とは、亡くなったペットがある程度の数が集まってから火葬する方式で、個別は文字通り、依頼の度に別々で行う火葬のことである。費用は個別のほうがかかるが、合同だと最後の瞬間が見れなくなるので、個別にすると両親と決めていた。


「個別でお願いします」

「埋葬とかは如何がなさいますか? 共同墓地に埋葬することも出来ますし、個別も出来ます。骨壷に入れて持ち帰られてからというのも可能ですが」

「共同墓地でお願いします」

「わかりました。準備ができましたらご連絡いたしますので、少しお待ち下さい」


 私たちはそれほど長い時間ではないが、待合室で準備が出来るまで待機させられた。膝の上に置いた猫ちぐらの中のシッポちゃんは、眠っているようだった。今すぐにでも起き上がって、すり寄ってくるような気がして頭を撫でた。


 柔らかい毛並みだった。キジトラ色がキレイに見えた。手に触れてみた。ピンクに黒が混じった肉球は冷たくぷにぷにと柔らかい。足の肉球も同じように触ってみた。シッポちゃんは、足を触られるのを嫌がっていた。ウェットティッシュで拭く時、他の部位より抵抗した。


 でも、今はされるがままだ。動かずに私に揉まれている。


「準備ができました」


 職人に呼ばれて火葬場に行く。猫ちぐらごと設備の中に入れて焼却を開始する。


「15分くらいかかります。もう一度待合室でお待ち下さい」


 私たちは再び待合室で待機した。私も両親も無言だった。なんら楽しい会話は思い浮かばなかった。ただ、シッポちゃんの最後を見届けようとしていた。 骨になったシッポちゃんはとても小さかった。以前に飼っていた猫の半分もなさそうだった。それもそのはず、シッポちゃんは初老の猫でありながら、子猫と間違えるくらいの大きさだった。手のひらに乗りそうなほどの猫だったんだ。


 私は不意に手を伸ばそうとして止めた。触れたら崩れそうな頭蓋骨は、もう何も語らない。灰の塊になったシッポちゃんは、土に還るのだけを待っている。最後は静かに天国に送ってあげたい。


 私たちは共同墓地への埋葬を依頼した。少し薄情な気もした。でも、個別で埋葬しても墓参りには来そうにもない。一週間とはその程度の重みなのか、冷酷なだけなのかはわからない。混乱しかけたが、一番冷静な父親が話をまとめてくれた。その場に流されやすい私と母親にとっては助かる存在だ。


 全てを終えた私たちは、無言のまま帰路についた。家のドアを開けると、既にそこには何もなかった。ただ、スリッパが家を出たときのように脱ぎ捨てられているだけだった。ケージも猫ちぐらも片付けられ燃やされた。あれほど困惑した臭いすら殆ど残っていなかった。


 私はスンと鼻を啜りながら、玄関に上がりスリッパを履く。何事もなかったかのようにリビングに向かおうとしたその時、シッポちゃん毛が一本だけ宙に漂っていることに気づいた。

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しっぽちゃん 夏空蝉丸 @2525beam

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