第3話
「翔?」
ハッと顔を上げる。
今、僕の前には、振袖姿の翠がいる。
赤い布地に薄桃色の花がこれでもかと咲いた鮮やかな振袖だ。髪は丁寧に編み込まれていて、うっすらと化粧もしていた。
「…………」
翠が、いる。いつもより、とびきり可愛く着飾った最愛の幼なじみが、目の前に。
有り得ない状況に、理解が追いつかない。
確かめようと翠に手を伸ばしたとき、脳裏にだれかの声が響いた。
『ここは、あなたが望んだあの日の夜よ』
「あの、日……?」
女性の声にハッとする。
……そうだ。僕は、神社にいたはずだった。
***
翠の事故から一ヶ月が経った。その間、僕は生きているのか死んでいるのか、よく分からない日々を過ごしていた。
家に引きこもり、なにもしないまま一日が終わる。翠が死んでからというもの、食欲がめっきりなくなり、精神安定剤が手放せなくなっていた僕は、ほんの些細なことで自殺したい衝動に駆られるようになっていた。
マスコミは翠のご両親だけでなく、僕のことまで追い回してきた。
翠さんとは幼なじみだったようですが、容疑者に対してどういうお気持ちですか? お付き合いされていたという話もありますが……。
僕を金としてしか見ていないマスコミからの質問に、僕はそのうち気が狂いそうになった。
するとマスコミは、さらに僕を悲劇の恋人として祭り上げた。
「翔、しばらくおばあちゃんちに行ってなさいよ」
「え? ……どうして」
僕のメンタルを心配したお母さんが、僕に岡山の祖父母宅へ行くように進めてきた。
「今月はもう自由登校なんだし、報道が落ち着くまででも」
言われて初めてカレンダーを見る。気が付けば、翠が亡くなってもう一ヶ月が経とうとしていた。
僕は少し考えて、「いいや」と断る。
祖父母とは盆と正月くらいしか顔を合わせたことがないから逆に休めなさそうだし、正直それすらも面倒くさい。
「……そう。……あ、少し換気しようか。こっち側には、マスコミもいないだろうから」
お母さんが窓を開ける。
まだ春になれていないひんやりとした風が、肌をさす。
「……僕、ちょっと散歩行ってくる」
「気を付けるのよ」
一ヶ月ぶりに家を出て向かったのは、翠が事故に遭ったあの交差点。
今日は、二月九日。翠の月命日だった。
事故現場は駅から繁華街へ繋がる五叉路の巨大交差点で、車よりも歩行者のほうが多いことで有名な場所だった。
歩行者用信号機の下には、たくさんの花やお菓子、飲み物が供えられている。中には、翠をよく知る人物が供えたらしい生前彼女が好きだった食べ物や、ラッコのぬいぐるみなんかもあった。
その中に、僕も持ってきた花束をそっと置く。
手を合わせてから、ふと周囲を見渡す。
交差点は、道路が見えないほどのひとで溢れ返っていた。
スーツを着た会社員や学生たち。
ずっと見ていると、あまりにも多くのひとたちが忙しなく交差点を過ぎていく。
その光景を見て、思った。
……こんなにたくさん、ひとがいるのに。
なんで、翠だったんだろう。
あの事故に巻き込まれて死んだのは、翠だけだった。
どうして神様は、翠ひとりを連れていったのだろう……。
翠じゃなくて、違うひとにしてくれたらよかったのに。
奥歯を噛み締める。
ふと、ニュースのワンシーンを思い出した。
『参拝客で賑わっていながら、死者がひとりしか出なかったことは不幸中の幸いだった』
偉そうなコメンテーターは、そうコメントしていた。
死者がひとりしか出なかったことが幸い?
十八歳の少女の未来を奪ったことが幸い?
被害者遺族の未来も、なにもかもすべてを奪ったことが……。
ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな。
怒りで身体が震えたのは、初めてのことだった。
「神様のくそったれ……」
小さく吐いた暴言は、誰の耳にも触れることなく、真冬の寒空に溶けて消える。
ほどなくして歩道用信号機の音が鳴り始め、足を踏み出す。交差点の真ん中に差し掛かったところで、足を止めた。
足が向いた先の歩道用信号機の下にも、同じようにたくさんのお供えものがあった。
今回の事故では、翠以外に犠牲になったひとはいない。
つまり、あれも翠へのお供えものなのだろう。
お供えものとは、両側に置くものなのか。あとでもう一束、花束を買ってきてこちら側にも供えなくちゃ。
そんなことを思っているうちに、僕の周りからはひとがいなくなっていた。音が止み、信号機が点滅を始める。
早歩きをして交差点を渡り切ろうとしたときだった。
女性とすれ違ったような気がした。
すれ違いざま、視界の端で女性の赤いマフラーがひるがえる。
その色彩に引き寄せられるように振り返る。しかし、振り返ってもだれもいなかった。ひとも、赤も。
首を傾げ、再び歩き出す。そのまま、彼女と初詣に行った神社へと向かった。
年が明け、一ヶ月が過ぎた神社は閑散としていた。
人気のない参道を進み、本殿を睨むように見上げる。
あの日、僕は神様に願った。
これからもずっと、翠と一緒にいられますようにと。
でも、神様はそれを叶えてはくれなかった。
初詣から十日経たずして、翠はこの世を去った。
「なにが神様だ……くそったれが」
どうしたらこの虚しさは発散されるのだろう。考えても考えても分からない。考えるほど、出口のない迷路を彷徨っているような心地になる。
いったい、出口はどこにあるの?
そもそも、あるの……?
「だれか、教えてくれよ……」
思わずそう呟いたとき、ぴゅうっと冷たい風が僕の横を吹き抜けていった。
『こんにちは、お兄さん』
どこからか女性の声がした。ハッとして、顔を上げる。
お賽銭の手前側に、薄いベージュ色のロングコートと赤いマフラーをかけた女性が佇んでいた。
長い髪が風に揺れる。
驚くことに女性の身体は半透明に透けていて、向こう側がうっすらと見えていた。
僕は思わず、何度も目を擦る。けれど、どれだけ目を凝らしても、女性の身体は透けたまま。しばらく目の前の状況に放心していたら、ふと気が付いた。
女性の姿に、見覚えがあるような気がしたのだ。
「あ……もしかして、さっき、交差点で」
彼女はさっき、交差点ですれ違ったあの女性ではないだろうか。
女性と目が合う。
『私は、
「かみ、さま……?」
美空というその女性は、真顔で非現実的なことを言った。けれど、ふつうなら笑い飛ばしてしまうはずのセリフも、その透けた身体を見たら信じざるを得ない。
神社に人気はほとんどないが、ひとりもいないわけではない。
疎らにいるひとたちの様子を窺うけれど、ほかのひとたちは彼女の声を聞くことができないのか、こちらを気にしている様子はない。というか、彼女をすり抜けてお賽銭を投げ入れるひとまでいる。
「もしかして、本当に……?」
少し背筋が冷えたが、透けてはいるものの、しっかりと足まで見えるためかそこまで恐怖は感じない。
「……あの、僕になにか用ですか?」
美空さんは静かな笑みを浮かべて、言った。
『ねぇあなた、さっき私に喧嘩を売ったわよね』
どきりとする。
『神様のくそったれ……って』
ついさっき、口をついたセリフを思い出す。
「……それは、だって……本当のことだろ。僕はここで、翠とずっと一緒にいられますようにってあんたに願ったのに!」
言い返すと、美空さんは思いのほか弱気に目を伏せた。
それが余計に腹が立って、僕は畳み掛けるように言う。
「なんで翠が死ななきゃいけなかったんだよ。翠があんたになにかしたのか? 嫌われるようなことしたのか? ……本当に神様だって言うなら、翠を返してくれよ。そうしたら、土下座でもなんでもするから」
喚く僕を、美空さんはただ黙って見つめている。
「なんなんだよ……黙ってないでなんとか言えよ!」
掴みかかる勢いで彼女に詰め寄ると、美空さんは喉を引き絞るような声で言った。
『……ごめんなさい』
苦しげな表情から思わず目を逸らす。
「……やっぱり、くそったれじゃないか」
虚しさが広がった。
……本当は分かっている。
翠の事故は、ただ車を運転していた男だけが悪かった。前を歩いていた親子のせいでも、彼女のせいでもない。
『……残念だけど、死んだ人間を生き返らせることはできない。でも、もう一度だけ会わせることならできる』
「え……?」
驚いた顔をして美空さんを見ると、彼女は切れ長の目をさらに細くして、言った。
『あなたが望むなら、会わせてあげる。あなたの大切なひとに』
「会わせる……? なに言ってるんだ? 翠はもう死んでるんだ。そんなの」
無理だ、と否定する前に、美空さんはきっぱりと言った。
『私ならできる。だって私は、神様だから』
「……だからその神様ってなんなんだよ」
美空さんは僕を無視して続ける。
『ただし、いくつか条件がある』
「はぁ?」
『死んだ人間に会うことができるのは、私が力を使うことができる夜のみ。つまり、過去会いたいひとと夜に会ったことがなければ会うことはできない。それから、死んだ本人に事故の事実を告げることはできないし、本人が死んだ現実も変わらない。事故当日に会って、過去を変えるための細工をしたとしても、生き返ることはない』
美空さんは、淡々とした口調で言った。
翠が巻き込まれた事故が起こったのは、昼間の交差点だ。
「……あの、それだとつまり、僕が事故現場に居合わせるのは不可能ってこと?」
美空さんが頷く。
『事故が昼間に起きているのなら、その事故に居合わせることはムリね。とはいえ、そもそも事故の瞬間死んだ本人と一緒にいても、現実は変わらないのだから、わざわざ居合わせるなんてことはそもそも無意味よ。注意は以上だけど、ほかになにか質問は?』
なにも考えられず、首を横に振る。
『そう。それじゃ、本気で彼女に会いたいなら、今夜またここに来なさい』
それじゃあね。
美空さんはそう言って手をひらひらと振ると、ふっとロウソクの炎が消えるように消失した。
「消えた……!?」
困惑して周囲を見るが、それ以降、彼女の声が聞こえることはなかった。
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