第2話
翠が死んだのは今年の初め、一月九日のことだった。
翠は、大学受験の帰り道、高齢者ドライバーが起こした事故に巻き込まれた被害者のひとりだった。
アクセルとブレーキを踏み間違え、暴走した容疑者の乗用車が、赤信号だった交差点に侵入。
複数の歩行者を次々と撥ねて死傷させた。
事故発生当時は正月明け間もなく、すぐ近くに大きな神社があったことから、現場の交差点は参拝客でかなり賑わっていた。
撥ねられた被害者のうち、特に重傷だった翠はすぐに近くの大学病院へ搬送されたが、処置の甲斐なくその日の夜に亡くなった。
翠のお母さんから連絡を受けた僕は、母親と一緒に急いで病院へ向かった。
受付で事情を話すと、薄暗い部屋に案内された。それが単なる病室でないということは、雰囲気で分かった。
状況が理解できないまま部屋に入ると、中央に祭壇のようなものがあった。その前には、一台のベッド。
ベッドの傍らには、翠のご両親がいた。ふたりは僕たちに気付くと、目元を押さえたまま、静かに頭を下げた。
「……翔くん。来てくれて、ありがとね……」
僕は入口に立ったまま、動けなくなる。
「……翔」
お母さんが僕の肩を掴み、そっと歩き出す。覚束無い足取りでベッドに向かった。
白い布が取り払われ、翠と対面する。
「翠……」
頭の中が真っ白になった。
清潔なシーツに包まれた翠は、今にも大きなあくびをしながら起きてきそうな、とても穏やかな顔をしている。
「翠な、たまたま前を歩いていた親子が巻き込まれそうになって、その親子を押し飛ばして、暴走車から助けたそうだ。幸い、その親子は擦り傷は負ったけど、無事だったって……でも、その代わりに翠が撥ねられて……」
翠のお父さんが震える声で言う。その言葉に、翠のお母さんが声を上げて泣き崩れた。
翠のお母さんの悲痛な泣き声に、心拍が上がっていく。
「そんな……」
息をしていないなんて、嘘だ。絶対、嘘だ。
「……起きろよ、翠。おい、翠ってば」
縋るように彼女の細い肩を揺するが、反応はない。触れた皮膚はところどころ青ざめ、作りもののようにひんやりと冷たかった。
「なぁ……返事しろよ、翠……翠! 翠っ!」
「止めなさい、翔!」
いよいよ取り乱し、翠の身体を揺する僕を、お母さんが泣きながら引き剥がす。その手は、ぶるぶると震えていた。
「しっかりしなさい、翔!」
「いやだっ! 翠! 返事しろよ!」
何度も翠を呼ぶ。何度も、何度も呼ぶのに、翠は動かない。目を開けてくれない。
僕はその場にへたり込んだ。
「……嘘だ」
嘘だ。翠が死んだなんて――。
***
翠と出会ったのは、幼稚園のときだった。
翠は園児たちの中でも特に身体が小さく、内気で人見知りな性格だった。
話すことが苦手でとろいから、いつもひとりぼっち。男子からからかわれては大泣きする翠を、僕はよく遠くから眺めていた。
外で遊ぶ時間も翠は決まってひとりで、砂場にいた。
飽きもせず、毎日毎日砂の城を作っては鬼ごっこをする男子に踏み壊される、その繰り返し。
ある日、僕は勇気を出して、翠に声をかけた。
「お城作ってるの?」
翠は大袈裟にびくりとして、僕を見上げたまま固まった。
「これ、ひとりで作ったの、すごいね」
すごい、と言ったら、翠は嬉しそうに頬を染めた。
「……うん」
「こっち側、手伝ってもいい?」
「うん!」
それから僕は、翠の世話を焼くようになった。翠ははぐれた親鳥と再会したかのように、すぐに僕に懐いた。
『ねぇねぇ翔ちゃん! 今度はこの前よりももっとおっきいお城作ろっ!!』
『しょうがないな』
『翔ちゃん、お歌歌おう!』
『いいよ』
『ねぇねぇ翔ちゃん、翔ちゃん!』
『なあに?』
翠に頼られるのは、嬉しかった。
お兄ちゃんになったみたいで。
小学校でも中学校でも、高校に入学しても、翠の一番は僕だった。
翔ちゃん、翔ちゃん、と、いつも僕の後ろをくっついて歩いてきた。
そして一年前、高校二年生になった僕らは、夏祭りの夜に晴れて仲の良い幼なじみから恋人同士になった。
それを機に翠は、『翔ちゃん』から『翔』へと僕の呼び方を変えた。
これからも僕たちは、こうやって少しづつお互いの関係を変えていきながらも、結局はとなりにいるんだろうと、そう思っていたのに。
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