第4話

 その日の夜、僕は再び昼間美空さんに会った糸繋いとつなぎ神社に来ていた。

 真夜中の神社は昼間よりもいっそう寂しく、乾いた空気が漂っている。

 ひとの気配がまるでない境内のなかでは、歩くたびじぶんの足音が大袈裟に響く。

 参道からずっと美空さんを探して歩いてきたが、姿は見当たらない。

「……いない」

 やっぱり、あれは病んだ心が見せた幻だったのだろうか。

 そもそも、冷静に考えたら死んだ人間に会えるだなんて有り得ないことだ。

 ……それなのに、翠と夜に会ったときのことを思い出して、有り得ない話を鵜呑みにして。

「……なに考えてんだろ、僕」 

 頭は、冷却水に浸かったようにどんどん冷静になっていく。

 そもそも彼女だって、たとえ再会できたとしても、翠が死んでしまった事実は変わらないと言っていたではないか。

 どんなに願ったって、翠が戻ってくることはないのだ。

「……そうだよ。今さら、どんな顔して翠に会えばいいんだ」

 ぽつりと呟き、帰ろうと踵を返した。

 柳の枝葉が揺れ、肌が粟立った。

『本当に来たのね』

 声が聞こえ、ハッとする。振り向くと、柳の木の下に、身体が半透明に透けた美空さんがいた。

「本当に……いた……」

 呆然とする僕に、美空さんが歩み寄ってくる。

『やぁ。決心は着いた?』

「……分かりません」

 素直な心境を言うと、美空さんは目を瞬かせた。

『分からない? それなのに来たの?』

「なんか……衝動的に。でも……翠が助かるわけじゃないなら、今さら会ったって、辛いだけなんじゃないかな、って、迷ってしまって」

 すると、美空さんはふぅん、と呟いた。

『……驚いたな。つまりあなたは、彼女に言い残したことも、伝えたいこともないってことなんだね?』

「えっ……?」

 おもむろに美空さんが冷たい口調になり、背筋がぞわりとした。言葉もなく、美空さんを見つめる。

『たしかに、彼女は戻ってこないわ。でも、それを踏まえても彼女に伝えたいことはないの? あなた、これまでずっと彼女と一緒にいたのよね? 彼女が亡くなったのはあまりにも突然だったはず。これからもずっと一緒にいられると思ってたのに、それは永遠に叶わない。本当なら、これから伝えるはずだった想いがあるはずでしょ? それなのに、なにも伝えないままのさよならでいいの?』

「……でも、なんて言ったらいいか……というか、ちゃんと、翠の前で笑える気がしないし、辛気臭くなっちゃうのは、やだし……」

『そんなの、会ってみなきゃ分からないでしょ! 大丈夫よ。いつだって、デートで主導権を握るのは女の子なんだから。あなたはただ、彼女に会いたいか会いたくないか、それだけ決めればいいのよ』

 と、美空さんは当たり前のように言った。

「会いたいか、会いたくないか……」

 呟いた言葉は、寒空に溶けていく。

 さらり、と赤いマフラーが揺れた。

『さて、もう一度聞くけど、会わせてあげられるのは一度きり。夜が明けるまでの間だけ。条件付きの再会、する?』

 美空さんは、静かな声で僕に訊く。

 翠に会うには、条件がある。

 本人に事故の事実を告げることはできないし、本人が死んだ現実も変わらない――。

 たとえ会ったとしても、翠は生き返らない。

 でも、でも……やっぱり僕は、翠に会いたい。

 素直にそう思った。

「……翠に会わせてください」

 そう、言った瞬間。

 世界が暗転した。


 車の音やひとの声、サイレンの音が響く交差点のど真ん中に、僕は立っていた。

「ここ、は……」

 視界のあちこちに、晴れ着を着たひとたちがいる。

 すれ違った瞬間、カップルの会話が聞こえてきた。

「新年まであと三十分だって!」

「紅白どっちが勝ったのかなぁ」

「帰ったら一緒に見よーねっ!」

 新年、紅白、晴れ着、と、飛び交うワード。

 もしかして、ここは。

「昨年の大晦日……?」

 歩行者用信号のメロディが止み、赤に変わる。僕は慌てて横断歩道を渡った。

 もしここが昨年の大晦日なら、と、僕はある場所へ向かった。

 翠と待ち合わせた場所――駅前の銅像が見えてくる。銅像の前に佇む、見覚えのある女の子がいる。ふと、女の子がなにか感じたようにくるりと振り向き、僕に気付く。

「――翔ーっ!」

 この一ヶ月、聞きたくてたまらなかった声が僕の名前を呼ぶ。

「みど、り……」

 どくん、と心臓が飛び跳ねる音がした。

 目の前に、会いたくてたまらなかったひとがいる。

 天使のような顔立ち、小動物を思わせる胡桃色の少し癖のある髪と、優しげに垂れた瞳の少女。

 僕の元へ駆けてきたのは、華やかな赤色の振袖を着た翠だった。

「嘘だろ……」

 僕は、目の前の光景に呆然とした。

 本当に、翠がいるなんて。

「ごめん、待たせたよね」

「…………」

 息を呑んだ。

 手を伸ばせば、触れられる距離に翠がいる。

 呆然と立ち尽くしていると、翠が不思議そうに首を傾げた。

「……あれ、どうしたの? 翔」

 ハッと我に返る。

「――翠! お前、本当に翠なのか?」

 急いで翠に駆け寄り、その肩を揺すった。触れた肩があたたかいことに、どうしようもない感動を覚える。肩を掴む手が震えた。

 ちゃんと、生きている。翠が、生きている……。

「え、なに? 急に? そんなに私、化粧濃かった?」

 若干戸惑いがちに笑う翠はあまりにも翠らしくて、涙が出そうになる。

 本当に、翠だ。美空さんが、僕の願いを叶えてくれたんだ。

「……翠……翠」

「なぁに? 翔」

 何度も確かめるように名前を呼びながら、僕は頼りない息を吐く。すると、翠はどこかくすぐったそうに息を吸うようにして笑った。

 あぁ、この顔、この笑いかた……。翠だ。間違いなく、翠だ。

「ねぇ! 早くしないと年明けちゃうよ! 早く神社行こっ!」

 と、翠は軽やかに袖を振って駆け出した。

「あっ……待って!」

 横断歩道へ駆け出そうとする翠の手を、反射的に掴む。

 翠が振り向く。

「翔?」

 翠はほんの少し戸惑ったような顔をして僕を見た。

 その顔を見て、気付く。

「あ……ご、ごめん。でもほら、信号。危ないからさ」

 翠はきょとんとした顔をして、僕を見つめる。

「さすがに赤のときは渡らないよ?」

「いや、それはそうなんだけど……翠は危なっかしいから」

 そう言って、僕はもう一度強く翠の手を握った。

 並んで信号待ちをしていると、遠くで鐘の音が低く響いた。

 鐘の音を聞いたからか、翠が周囲を見て言う。

「……神社混んでるかな?」

「まぁ、大晦日だからね。たくさんいるでしょ」

 僕たちの周りには、ひと、ひと、ひと。

 翠のように華やかな振袖姿の女性や、寄り添い合うカップルたちでごった返している。

 交差点を過ぎ、糸繋神社へ続く道に入ると、歩行者天国になっていた。両脇には、あたたかなオレンジ色の提灯と、露店がいくつも軒を連ねている。

 さっそく露店の食べ物に瞳を輝かせる翠に、「食べるのはお参りの後でな」と言って手を引く。

 神社に入ると、参道はものすごいひとたちでごった返していた。

「これはなかなか先に進めそうにないね……」

「まぁ、仕方ないね」

「あっ! ねぇ翔! あっちで甘酒配ってるよ! 貰ってこよーよ! あったまるよ!」

「ちょっ、そんなに引っ張ったらほかのひとにぶつかるって!」

 言ったそばから、翠はすぐ真後ろにいた初老の男性にぶつかった。

「わっ! ご、ごめんなさい!」

「いえいえ」

 男性はにこやかに微笑んだ。

「すみません」と僕も頭を下げつつ、翠へ視線をやる。翠は男性に頭を下げたままちらりとこちらを見て、舌を出していた。

「可愛いカップルねぇ」

 男性のとなりにいたご夫人が、にこにこと言った。

「私たちにもこんな時代があったのかしらね。懐かしいわねぇ」

「そうだなぁ」

「今日はひとがたくさんだから、気を付けてね」

「はい。ありがとうございます」

 僕たちは改めてご夫婦にぺこりと頭を下げて、そそくさとその場を去る。

「もう、言ったそばから!」

 歩きながら小言を漏らすと、翠はぺろっと舌を出した。

「ごめん〜!!」

「ほら、手を離すなよ」

「うん!」

 翠は元気よく頷き、しっかりと僕の手を握った。

 甘酒をもらったあと、僕たちはお参りの列に並んだ。ほどなくして順番が回って来る。お賽銭を入れ、両手を合わせた。

 ちらりと隣を見る。

 ……なにを祈っているんだろう。

 その横顔を見ながら、複雑な気持ちになった。

 社へ視線を戻す。

 社の中に、美空さんの姿は見当たらない。

「…………」

 昨年の大晦日、僕はここで、翠とずっと一緒にいられますようにと願った。その願いは翠の死によって叶わなくなったけれど……。

 美空さんは、どうして今になって、僕の願いを叶えてくれたんだろう。どうせなら、あのとき願ったほうを叶えてくれたらよかったのに……。

 ふと視線を感じて隣を見ると、翠が僕をじっと見ていた。

「わっ、な、なに?」

「……翔、なにお願いしたの?」

「……いや、べつに大したことじゃないけど。翠は?」

 と、訊ねると、翠はにこーっとらしい笑みを向けた。

「秘密ー!」

「なんだ、それ……」

 子供っぽい仕草に呆れつつ、懐かしさに胸がいっぱいになる。

「さて! チョコバナナと綿あめ買いに行かなくちゃ!」

「せめて年が明けてからにしろよ」

「じゃあ甘酒もらってこよ。さっき、あっちの参道のほうで配ってたから」

 甘酒をもらったあと、僕たちは社のすみっこで甘酒をちびちびと飲みながら、新年を待った。

 翠と他愛ない話をしていると、あっという間にカウントダウンが始まり、そして新たな年が始まった。

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