第23話
腰の痛みが若干楽になったのは、遥斗から家を売るつもりだと聞いて、ひと月が過ぎた頃だった。
十一月になっていた。
このところ朝晩は冷えていたが、今朝はあたたかな陽の光が降り注ぎ、絵に描いたような小春日和となった。
どうしても会って話さなければならない顧客のために、遥斗は朝早くから出勤していた。朝食を用意する間もなく出て行った遥斗の代わりに、環奈はお義母さんの部屋へ食事を運んだ。
お義母さんの部屋に入るのは久しぶりだった。
同じ家なのに、ここだけは独特の臭いがある。前に住んでいた遥斗の実家から持ってきた家具から臭いが染み出しているように感じる。不快というほではないが、違和感がある。
いままで、この臭いをあまり感じなかった。オムツを外したと遥斗から聞いている。おそらく、お義母さんの生きる臭いというものがあって、それが家具の臭いを消していたのだろう。
「朝食を持ってきました」
声をかけて入っていくと、驚いたことに、お義母さんは窓際に椅子を運んで腰掛けていた。
「まあ、環奈さん。もうだいじょうぶなの」
「お義母さんこそ。起きていて辛くないんですか」
どこが悪いわけでもないのに、ほとんどベッドの上で過ごしていたのだ。
「気持ちのいい朝だから、庭を眺めていたのよ」
顔の血色もいい。
回復しているというのはほんとうだったのだ。まだパジャマのままだが、座っている膝にストールもかけていない。たしかに、今朝はあたたかいけれど。
訝しく思いながら、食事をベッドサイドのテーブルに置いた。いつもなら、テーブルの上には食べかすや丸めたテッシュペーパーがあり、そんなものを片付けなくてならない。ところが今朝は、妙にきれいだ。
「庭は直さないのね?」
お義母さんは窓に顔を向けたままだ。隣の白鷺さんの家の庭からは、相変わらず工事の音が聞こえている。
「はい。遥斗さんが、無理だからって」
最愛の息子が、このまま家を売り、そして母親を施設に送ろうとしていると、とても自分の口から知らせる気にはなれない。
「そうね。遥斗が直さなくたっていいのよ。ちゃんと直してくれるんだから」
意味がわからない。やっぱり、お義母さんの認知症は進んでいるのだ。
「インスタントですけど」
味噌汁を置いた。
「ほら、今朝もがんばってる」
「え?」
環奈は窓に顔を向けた。
「えらいわ。休まず働いているのよ」
窓の向こうのレンガの小道の、その先のとんがった細い草の陰に小人たちが動いている。
葉の上に土を載せて二人がかりで運んでいる。そんな小人のペアが、何組も草の陰を行き来している。
数十人はいるだろうか。ジョーの姿も、あの女兵士の姿も見当たらないのが残念だったが、数としては申し分ない。
小人たちは活気に満ちていた。葉から降り注ぐ露をものともしていない。掛け声は聞こえないが、きっとエッサ、ホラサと励まし合っているのだろう。
土砂崩れときに見かけた、子どもの小人の姿も確認できた。大人の小人たちに交じって、懸命に土を運んでいる。
思わず、涙がこみ上げてきた。助かった者もいるのだ。土砂に流されず、庭のどこかに隠れているかもしれない。
「わたしの薬を盗むのはよくないけど、あれで元気になれたんだったら許してあげなくちゃね」
「薬って、ドネペジルのことですか」
お義母さんを振り返ると、ふふふと笑い返された。
「あの薬が、小人たちの強壮剤になるなんて想像もしてなかったわ」
「強壮剤……」
「そうよ。わたしの考えでは、小人たちが争っていたのは、あの薬のせいね。隣の庭の小人たちもあの薬を欲しかったんだと思うのよ」
「知ってたんですか、戰爭のこと」
お義母さんはこっくりと頷いた。
「この大きな窓」
お義母さんは庭に面した窓を仰ぎ見る。
「小人たちの戦いは、嫌でも目に入ってくる」
もしかすると、環奈よりも先に、小人たちの存在に気づいていたのかもしれない。
口にしなかったのは、信じておらえると思わなかったからだろう。環奈だってそうだった。そんなことを口にすれば、頭がおかしくなったと思われかねない。
まして――。
新たに草の陰から現れた小人のペアを目で追う。
メルヘンチックな小人の目撃談ではないのだ。
戦っている小人たち。
戦争をしている小人たちなのだ。
「なるべく見ないようにしていたんだけどね。だって、思い出しちゃうから」
「何をですか」
「何をって、戰爭に決まってるじゃないの」
見開かれた目が、呆れたように環奈を見据える。
「私はね、太平洋戦争が終わったとき、十歳だったのよ」
そうだ。八十六歳のお義母さんは、戦争を知っている。
「横浜もね、ひどかったのよ。食べるものがなくて、毎日ひもじい思いをしていたの。今の若い人には想像もつかないでしょうよ」
お義母さんは、悲しげに首を振る。
「空襲で逃げ回ったもんだったわ。大空襲があったのは、東京だけじゃないのよ。横浜だってすごくやられたんだから。嫌な思い出ばっかりよ。家は焼けてしまうし、上の兄さんは、南のほうで戦死するし、戦争が終わって、下の兄さんは生きて戦地から戻ったと思ったら、左足を失くしていて」
十歳ならば、じゅうぶん、理解できただろう。まわりで何が起きているか。世界で何が起きているか。そして、日本がどうなっていくのか。
小人たちの戦いを見る、白鷺さんの生き生きとした目が蘇った。白鷺さんは、環奈と同様、戦争を知らない。だからこそ、あんなふうにおもしろおかしく観戦できたのかもしれない。
「いつだって、どこだって同じね。なんかを奪おうとして争うのは」
薬をめぐる戦い。
二等辺三角形の土地で、白鷺さんの庭の小人たちが、ドネペジルを奪っていた様子が蘇った。
おそらく、もっと強くなるために、両者の小人たちはドネペジルを欲したのだろう。
強くなれば、所有が曖昧だった土地を奪える。それは、白鷺さんにも願ったり叶ったりだったのだろう。だからあんなに次々と武器を造って提供したのだ。
「小人たちのおかげで、ずいぶん地面が元に戻ったわ。ほら、あそこ」
お義母さんが指差すほうへ目を向けた。地面に、高さ数センチの畝ができていた。
あの土塁だ。彼らはまた、あの土塁を造ろうとしているのだ。
「前よりも、きっと頑丈に造ってるんだと思うわ。ちょっとやそっとの雨にも負けないように」
「でも……」
土塁を造っているのは、また戦いを始めるためではないだろうか。ひどい土砂崩れのおかげで、敵も味方もなく損害は甚大だったはずだ。だから、もう、戦いは終わりだと勝手に思い込んでいた。
甘かったかもしれない。
戦いは、小人たちが庭にいる限り続くのかもしれない。
もし、あの二等辺三角形の土地が、まだ争われているとしたら。小人たちの戰爭は終わってないのだ。
ピシューッという聞きなれない音が、庭の方から聞こえてきた。
「何かしら」
お義母さんも遠くを見るように目を細める。
ふたたび、ピシューッと音が続く。
「あっ」
環奈は叫んだ。何かが庭に落ちたのがわかった。赤いもの。小さいが、たしかに燃えているもの。
それが落ちると、今度は煙が上がった。悲痛な小人たちの叫び声もする。
「環奈さん、あれはなに?」
不安気にお義母さんが訊く。
「わかりませんけど、きっと、あれは――」
環奈は慌てて部屋を横切り、窓を開けた。その間にも、不穏な音は続き、庭のあちこちで火の手が上がった。「何か」は、白鷺さんの庭から飛んでくる。
白鷺さんの仕業だ。環奈は確信した。小人たちは、火を起こす技など持っているはずがない。
飛んできたのは燃えている火玉だった。おそらく花火の先だけを千切り、それに火を点けて、戦車もどきから投げているのだ。白鷺さんの家にあった、孫が置いていったという花火が思い出された。孫たちも、自分たちの花火が、こんな武器に変わったと知ったら嘆くのではないだろうか。
あちこちで上がった火の手は、草を燃やして燻った。このところ雨が降っていない。庭は乾いているはずだ。いくら小さな火の玉でも、何十発も打ち込まれれば、庭を火の海にしかねない。
ボン!と音が響いた。
火の玉が、庭に置いたままのプラスチックの植木鉢に当たったようだ。
まずい。あの中には、そのうち捨てようと思っていた発泡スチロールの破片が入れたままだ。あれに火が落ちたら。
案の定、植木鉢は燃え盛った。嫌な臭いも湧き起る。
草の陰に、小人たちが逃げ惑う姿が見えた。糸が切れた凧のように、小人たちはただ右往左往している。
「焼夷弾なの?」
お義母さんの声が尖った。
「ね、焼夷弾なんでしょ。あんなに何発も」
「焼夷弾って――」
環奈には答えようがなかった。その名前を、中学生の頃、社会科の授業で聞いた憶えはある。アメリカの戦闘機B29が日本に落とした爆弾のことだろう。
「防空壕に入らなきゃ」
そう言ったお義母さんの表情は、恐怖に歪んでいる。
「防空壕に入らなきゃ、みんなやられてしまう」
「お義母さん!」
環奈は駆け寄り、お義母さんの肩を抱いた。お義母さんは震えながら、環奈にしがみついてくる。
「怖いよぉ、怖いよぉ」
まるで、小さな子どものような声で喚く。恐ろしい記憶が蘇ったのだろうか。いや、せっかくおさまっていた認知症の症状がぶり返してきたのかもしれない。
「だいじょうぶですから」
小人たちはどうなるのだろう。隠れる穴はあるのだろうか。そう。お義母さんが言うように、小人たちに防空壕はあるのだろうか。
いっとき、火の玉の雨がやんだ。すると、聴き慣れた戦車もどきが動く音が聞こえてきた。お義母さんを抱いたまま顔を向けると、何台もの戦車もどきが、白鷺さんの庭との境界線あたりに蠢いているのが見えた。
大軍だ。
そして、その向こうに見えたのは、片手にバーベキューの際に使うチャッカマンを握り締めた白鷺さんの姿だった。二等辺三角形の土地だけではない。庭全部を掌握しようとしているのだ。
なんとかしなくては。
このままではやられてしまう。
敵を倒して、この戦いを終わらせなきゃ。
こんな争いは、もう止めさせなきゃだめなのだ。何か一発でこの戦いをお終いにする武器さえあれば。
そのとき、玄関で、
「おじゃまします」
と、声がした。リハビリの先生、槇原の声だった。
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