第22話
庭で起きた土砂崩れは、広さにして六平方メートルほどだった。
建物の土台部分とは関係のない場所だったせいで、建物への影響は免れたものの、それは建物を揺るがす事態にならなかったというだけで、庭としての損傷は激しかった。
不動産屋の指示に従って、遥斗はすぐに市の防災課へ連絡した。
もし、不動産屋がいっしょにいなかったら、ただ呆然と庭を眺めていただけだろう。
連絡後、すぐに来てくれた市の防災課の役人からは、大々的な崩壊防災工事を行うよう強くすすめられたが、遥斗は首を縦に振らなかった。工事には、少なくとも二、三百万はかかるだろう。手元にそんな余剰金はない。
市が定める、急傾斜地崩壊危険区域の指定基準を満たしていれば、補助金が出るようだったが、ここは基準を満たしていなかった。補助金の出る基準は、傾斜角度が三十度以上、崖の長さが五メートルはなくてはならない。そして、崩壊箇所の影響で、五戸以上に危害があると予想される場合と規定されている。
庭の崩壊を目の当たりにした不動産屋は、それでも査定を出してくれたが、金額は遥斗の想像以上に低いものだった。
「このままでは買い手を探すのは難しいでしょう」
不動産屋は、気の毒そうにそう言ったらしい。
「庭全体をコンクリートで埋めてしまえば、なんとかなるかもしれませんがね」
結局、家を売って借金を返そうという遥斗の目論見は泡と消えた。
そんな場所を滑り落ちたのに、環奈の怪我は大事にならずにすんだ。強く腰を打ったが、骨折は免れたのだ。病院で痛み止めを処方され、それからは、近所の整骨院へ通った。軽いマッサージと筋肉に刺激を与える電気治療を始めた。
それでも、二週間、環奈はベッドから起き上がれなかった。動くたびに激痛が走り、家事もままならず、どうしてもやらなければならないことだけを、痛い腰を庇いながらこなした。
その間、お義母さんには、介護給付金を使い、ヘルパーさんを雇った。要介護認定二を申請し、許可されたのだ。
運動機能を考慮すると、お義母さんに要介護二を貰うのは難しかったが、環奈の状態が考慮されたことと、お義母さんの発言が決め手となった。
訪れたケアマネージャーに、お義母さんは言ったのだ。
「小人たちはいなくなってくれたのね?」
遥斗とケアマネージャーは、当然、お義母さんが何を言っているのかわからなかった。はじめ、聞き流し、それでも小人、小人と繰り返すお義母さんに、遥斗もケアマネージャーも手を焼いた。
お義母さんを落ち着かせるために、仕方なく遥斗は、小人の存在を受け入れたふりをしたという。
「わかった、わかったよ、お母さん。小人はもういないよ」
すると、お義母さんは、ほっと胸を撫で下ろし、
「これでわたしの薬を盗まれなくてすむ」
と返したらしい。
小人はお義母さんの妄想が作り出したもの。遥斗とケアマネージャーはそう判断し、結果、要介護二を認められた。
この話を、環奈は、遥斗が昼食を作るのを眺めながら聞いた。遥斗はこのところ、リモートで仕事をする機会が増えている。新型コロナウィルスは依然猛威をふるい、取引先に出かけられなくなったのだ。
遥斗は忙しい忙しいと口にしているし、実際、パソコンの画面の向こうの取引先と話をしたり、部内の会議をしたりしているが、やっぱり、以前に比べ、仕事の時間の都合はつくようになった。
お義母さんの世話や環奈が頼む家事をするとき以外、遥斗はほとんどの時間パソコンの画面を見つめている。
どうやら為替の値動きを見ているようだ。そんなに自分の取引ばかりに注意を持って行かれては仕事にならないだろうと思うが、多分、外で仕事をしているときも、隙間時間にスマートフォンを見て、FX取引をしていたのだろう。
ただ、以前よりも、遥斗の表情が穏やかになった。投資金額の半分ほどが、若干持ち直したからだ。遥斗が買っていたドルが、急に値上がりしたのだ。バーツのほうは変わらず値を下げたままだが、その損失もカバーできそうな値上がりだった。
「コロナでさ、アメリカの製薬会社が儲かってさ、その影響でドルの値が上がったんだよ」
遥斗はそう言って喜んでいるが、なんとなく嫌な感じがした。どこかで誰かが嫌な目に遭い、そのおかげで誰かが得をする。
そういうのは、なんだか気分がよくない。
それに、得をするか損をするか、そんなに簡単にふりこが傾くとしたら、ふたたび、大きな損を被ることだってあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。
ドーンドーンと、白鷺さんの家の庭から工事の音が響いてきた。白鷺さんの家の庭は、すぐに土砂崩れの補修工事が入った。市からの補助金をあてにできず、工事を先延ばしにしている環奈の家とは違い、白鷺さんのところは早速自腹で工事を始めたのだ。
その音が、毎日続いている。
耳障りではないと言えば嘘になるが、白鷺さんの家の庭は、遥斗によると、環奈の家の庭よりも崩れかたが激しいらしい。早急に工事に着手しなければ、土台が崩れると思ったのだろう。
修復工事をするにあたって、あの小人たちが争っていた二等辺三角形の土地はどうなるのか。気になったが、環奈は確かめられなかった。まだ、斜面を下りて行くのは無理だ。
パスタが出来上がり、テーブルに置かれた。レトルトの明太子がまぶしてあるだけの簡単なパスタだが、用意してくれるだけでほんとうに有難いと、環奈は思う。環奈は、一日のうち、まだ数時間をベッドの上で過ごしている。
「これ、お義母さんにも、同じの?」
フォークを手にして、環奈は思わず口にしてしまった。
まず、ありがとうと言うべきだとはわかっているが、出てきたのは非難の言葉だった。
庭で腰を打って満足に動けなくなって以来、遥斗の働きには感謝しているものの、恨む気持ちは消えていない。土砂崩れは遥斗のせいではないが、遥斗が勝手に行った投資の失敗が、悪い運気をこの家に呼び寄せた気がする。
「そうだよ。なんで?」
「だって、お義母さん。パスタなんか食べないじゃない」
「え、そう? おいしそうって言われたけど」
息子が作るものならなんでもいいのか? 環奈が作っていたときは、ごはんと味噌汁がないと、機嫌が悪かった。
遥斗が家にいる時間が長くなって、きっとお義母さんは喜んでいる。
パスタをフォークにからめながら、環奈は思った。リモート就業になった意味を理解しているのか定かではないが、単純に息子の顔が見られる時間が増えた事態を歓迎しているのだろう。
「環奈さんはだいじょうぶかってきかれたよ」
「まだ、痛い」
「わかってる。だから、そう言っといたよ」
「来週には、普段どおりに動けるようになると思うんだけど」
「無理しなくていいよ。僕がうちにいられるんだから。それに、お母さんの調子が良くなってさ、楽なんだよ」
環奈は顔を上げた。
「調子が良くなった?」
「そうなんだよ。トイレの付き添いもいらなくなった。昨日も今日も、一人で行って、まったく汚してないんだ」
「まさか」
「ほんとだよ。環奈が動けなくなったから、自分もしっかりしないとマズいと思ってくれたのかな」
俄かに信じ難かった。それに、そんな気持ちの持ちようだけで改善するような症状ではなかったのだ。
「お薬、ちゃんと飲んでる?」
小人たちが盗んでいたドネペジルだ。もう、数が少なくなっているはず。
いや、環奈が腰を痛めてから、遥斗が医者に処方箋を書いてもらったとは聞いていないから、薬はないはずだ。
「飲んでるはずだよ。薬がないなら、いくら呆けてたって、ないと言うだろ」
薬を飲んでもいないのに、トイレの付き添いがいらなくなったなんて。
もしかして、飲んでいないからこそ、症状が改善してきたのでは。
小人たちに薬を奪われたからこそ、お義母さんの意識がはっきりしてきているとしたら。
「ねえ、ほんとに改善しているの? お義母さん」
「そうだよ」
「あの――オムツは」
いくら息子でも、いや、息子だからこそ、母親のオムツの話などしたくないだろう。
「それがさ、取れたんだよ。一応、夜は履いて寝てるけど、昼間は外してる」
「嘘」
遥斗は非難するような目を向けてきた。
「なんか、おふくろが回復するのが嬉しくないみたいだな」
「そんなわけないけど」
「だったら、素直に喜べよ。あの調子なら、金のことを相談してもだいじょうぶそうだし」
環奈は目を剥いた。
「まだ、そんなこと言ってるの?」
「まだって。どうにかしなきゃならないんだから」
「お義母さんに貯金はないって言ったでしょう?」
「わかってるよ。貯金なんか、もう、あてにしてない」
「じゃ、何を相談するっていうの?」
遥斗は答えないで、環奈の皿を顎でしゃくった。
「食べないの?」
お義母さんの話に驚いて、環奈は食欲をなくしてしまっている。
「食べないなら――食うけど」
環奈は乱暴に、皿を押しやった。
「ねえ、答えて。何を相談するつもり?」
「家のさ」
もぐもぐと、口を動かしながら、遥斗は続けた。
「この家の名義さ、おふくろも半分入っているから」
そうだった。この家は、遥斗とお義母さんの名義になっている。もし、遥斗が売ろうと思っても、勝手な真似はできない。ということは――。
「まだ、売るつもりなの?」
「ああ」
「すごく安いって言ってたじゃない。それに、庭を直さない限り売れないって不動産屋も言ってた……」
「庭の工事代を差し引いた金額で売りに出せばいいんだよ。それでもかなりの金額になるんだ」
不動産屋とは話がついているのだろう。
いくらぐらいになるのか、聞く気にもなれなかった。
「とにかく、おふくろが回復してくれて、感謝だよ。おふくろの承諾がなきゃ、売れるものも売れないんだから」
また、おふくろだ。
言いにくい話になるとき、遥斗はお義母さんをおふくろと呼ぶ。
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