第20話


「あ、環奈」


 振り向いた遥斗が、マスクの上で、瞬きを繰り返した。ばつが悪いときの遥斗の癖だ。遥斗はキッチンでシンクの上の扉を開けようとしている。


「お邪魔しています」

 遥斗の後ろで立つ男が、笑顔を向けてきた。

 戸田という男だろう。彼もマスクをしているから目元しか見えないが、きっと愛想笑いをしているはずだ。


「何してるの?」

 戸田に挨拶もせず、環奈は遥斗を睨みつけた。

「何って、システムキッチンを見てもらってるんだよ」

「新しいですね」

 すかさず戸田が言う。

 戸田をふたたび無視して、環奈は遥斗に近寄ると、腕を取った。

「ちょっと、来て」

「なんだよ」

 キッチンから廊下へ遥斗を引っ張ってきた。


「どういうこと?」

 遥斗は目を丸くして環奈を見つめる。目を丸くしたいのはこっちのほうなのに。

「不動産屋でしょ、あの人」

 遥斗が頷く。

「この家を売るつもりなの?」

「……ごめん」

「ごめんじゃない。そんな大事なこと、相談もせずにすすめるなんて」

「わかってる」

「わかってない」

「だって仕方ないじゃない」

「だからって、こんな突然」

 言いながら、鼻の奥がツンとなった。


 ひどすぎる、こんな状況。

 この事態。


「ほんとに、ごめん」

 遥斗が環奈の肩に両手を置いた。その手を環奈は大きく払う。

「とりあえず見てもらうだけだよ。いくらになるか査定してもらうだけで」

「売ったら、お義母さんはどうするの」

「どうって、どこか、ホームに入ってもらうしか」

「本気で言ってるの?」

「だって、仕方ないじゃないか」

 そんな簡単に答を出さないで欲しい。お義母さんだって納得できないだろう。持っていたお金をすべてこの家につぎ込んでくれたのだ。


「外回りを見せていただいてもよろしいでしょうか」

 不動産屋の声に、遥斗は踵を返した。

「ちょっと、遥斗!」

 環奈の声は無視された。仕方なく、環奈も遥斗に続く。

 


 三人で庭へ出た。雨上がりの庭は、ひんやりした風に吹かれていた。これから秋も深まっていく。雨がふるたびに、気温も下がっていく。


「外壁はまだきれいですねえ」

 不動産屋は外壁に軽く触れた。

「買ったときに塗り直しはしました。樋なんかも、そのとき全部取り替えたんですよ」

 遥斗が説明する。

 そうですかと、頷いた不動産屋だったが、特に感心している様子はない。築年数を鑑みて、相応の外観としか思っていないのだろう。


 濡れた地面で靴を汚したくないのか、戸田はレンガの上を注意深く歩いている。そして、ほんの少しつま先立ちになって庭を見渡すと、呆れたような声を上げた。

「これは、かなり急な斜面ですねえ」

「そうなんですよ。手入れが大変で」

 遥斗も苦笑しながら、言う。

「いろいろ植えてらっしゃるんだ」

「前の持ち主がガーデニング好きだったみたいで」

「そうですか」

「手入れが大変ですからね。売るとなったら、斜面は全部コンクリートで固めてしまってもいいと思ってるんですよ」

 

 ギョッとした。


 コンクリートで固める? 


 そんなことをしたら、小人たちはどうなるのだ。

 

 明るい不動産屋の声が続く。

「そのほうがいいですね。このままでは土砂崩れも心配ですし」

「それはないと思いますよ。地盤は硬いと聞いてますから」

 遥斗の言い分に不動産屋は頷いたものの、全面的に納得したようには見えない。

「斜面だと、やはり、売値は下がりますか?」

 気弱な声になった。

「あまり好まれませんね。立て直しに割高な費用がかかりますし」

 

 そのとき、どこからか、生臭いような臭いが流れてきた。


 なんだ、この臭いは。

 泥と黴を合わせたような。

 環奈は辺りを見回した。さっきまでの嵐で、どこからかゴミでも飛んできたのかもしれないと思う。それとも、何か動物の死骸とか。


 斜面の下のほうから、グシャッと、聞きなれない音が聞こえてきた。奇妙な音だった。

 一斉に音の下ほうへ顔を向ける。


「なんですか、あの音」

 不動産屋が不安げに呟いた。

「さあ」

 そう言った遥斗が斜面に沿ったレンガ道を下り始めた。

「見てきます」

 環奈も続いた。


 斜面には滝のような水が流れていた。足元は、すでに泥と化し、ぬるぬるとした粘土質が茶色く顔を出し、ところどころ水溜りができ始めている。

 遥斗が、

「うわっ」

と叫び声を上げて、転んだ。庭を歩くつもりはなかったせいか、普段用のサンダル履きだ。服装は仕事帰りのスーツのままだったから、余計に動きにくかったのだろう。

「ちぇっ」

と舌打ちして立ち上がった遥斗は、スーツのズボンの膝下を泥で汚してしまった。

 環奈も滑ってしまった。服は汚さなかったものの、両手が泥だらけになった。思ったより、さっきまでの雨で斜面は緩んでいる。

 その証拠に、切り株だけ残っていたザクロが、ぱっくり地面から剥がれてしまっている。


 さらに下った。滝のように流れる水の筋が、徐々に太くなる。そんな筋があちこちで見られる。

 環奈の不安は、否応無しに増す。


 小人たちはだいじょうぶだろうか。


 地面を見る限り、小人たちが造っていた土塁の跡はどこにもない。全部流されてしまったのだ。白鷺さんの小人たちの破壊力よりも、自然災害の威力のほうが大きかったのだ……。

 この先には、白鷺さんが、

「この土地は、うちが貰うわ」

 そう宣言した二等辺三角形の地面がある。


「おい、まずいぞ」

 遥斗が立ちすくんだ。

「なに?」

 遥斗の声の深刻さに、

「どうかしましたか」

と、不動産屋も呼びかけてくる。


「あっ」


 環奈は息をのんだ。


 崩れている。土砂崩れだ。二等辺三角形の地面の上側の、ちょうど低い崖となっている箇所が崩れてしまっている。そのせいで、ショベルで穴を掘ったかのように斜面が削られてしまっている。最初の崩れは小さかったのだろうが、砂山が崩れるように穴が広がったようだ。


 さっき聞こえたグシャッという音は、新たな崩れが起きた音だったのだろう。

 あの嫌な臭いは、表面に出てきた古い土の臭いなのかもしれない。

「なんでもないですよー!」

 遥斗は上に向かって叫んで、環奈に目配せする。


 二等辺三角形の地面は、その形さえわからないほど泥で埋め尽くされていた。泥はフェンスの向こうの白鷺さんの庭にも及んでいる。これではもう、わからない。どこからどこまでがどちらの庭なのか。

 あんなに小人たちは必死で戦っていたのに。こんなに一瞬で、すべてが無駄になってしまうなんて。


「おい、もう、上がろう」

 遥斗にうながされて、環奈は先へ進むのを諦めた。

 遥斗が環奈を振り返る。

「あの崩れのこと、話すなよ」

 さっきの目配せの意味だ。

 言いたいことは理解できた。不動産屋に崩れた箇所があると知られたら、評価額は下がるに決まっている。

「ちょっとした工事でなんとかなる程度なんだから」

「そうかな」

 環奈は倦怠感に包まれた。小人たちの戦いの虚しさを痛感して、なにもかもどうでもいいと思える。

「そうだよ」

 遥斗は斜面を上りながら、続ける。

「そうじゃなきゃ大変だよ。これ以上崩れたら、うちの土台が崩れるってことなんだぞ。そんなことになったら、売るどころの話じゃなくなるよ」

 庭全体が崩れる。そんな事態になったら、そのときこそ、もう終わりだ。小人たちの戦い、いや、小人たちの世界は終わりを告げる。

 

 ふたたびグシャッと音が響いたのは、不動産屋の待つレンガ道まで、どうにか斜面を上ってきたときだった。

「わっ」

 声を上げたのは、不動産屋だった。

「見てください! あそこ!」

 不動産屋が目を丸くして、庭の一角を指差している。



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