第19話

「環奈さん、環奈さん」

 

 お義母さんに呼ばれて、環奈は我に返った。

「電話が鳴ってるわよ。うるさいから早く出てちょうだい」

 お義母さんの布団の上で、環奈のスマートフォンが振動しながらジージーと音を立てている。

 慌てて手に取ると、聞き覚えのない男の声が、

「葉山不動産の戸田でございます」

と、告げた。


「本日は査定の件でお電話させていただきました」

 戸田と名乗った男は、台本を読むが如く、すらすらと喋り立てた。

「ご主人の小森遥斗さまから、ご自宅の査定を承りまして」

「査定?」

「はい。ご売却のご予定とのことで、本日――」

「ちょっと待ってください。そんな話、聞いてなくて」

 胸ぐらを掴まれたような衝撃に、環奈はふらつきそうになる体を、お義母さんのベッドの手すりでようやく支える。

 

 金策はうまくいっていないのだ。どうにもならなくなった遥斗が、家を売ろうとしているのだ。

 

 相手は、瞬間沈黙したものの、めずらしいパターンではなのか、すぐに言葉を返してきた。

「ご主人さまからご連絡がありまして、奥さまに立ち会っていただくようにと」

「聞いてません、聞いてないんです」

「はい。本日四時のお約束で」

 はいと承諾しながら、約束の時間を告げる。

 馬鹿にされている気がした。

 自分の存在を無視されている気がした。

 電話の向こうの不動産屋にではない。遥斗に、だ。

 

 環奈は即座に電話を切った。遥斗が何を約束しようと知ったことか。この家を売るなんて、冗談じゃない。


「だあれ?」

 お義母さんがのんきな声で訊いてきた。

「間違い電話です」

 家を売るなどと言ったら、お義母さんはどれほど衝撃を受けるだろう。

 絶対に知らせるわけにはいかない。もし、午後に不動産屋がやって来ても、居留守を使ってやろう。


「あら、雨」

 

 お義母さんが窓に顔を向けた。今眠りから覚めたかのようなすっきりした顔をしている。直近のことを忘れてしまうお義母さんの症状には、救われる。もう、錠剤や小人たち、そして電話のことなど忘れてしまったようだ。

 

 窓の向こうの空は、真っ黒な雲が立ち込めていた。ポツッ、ポツッと、大粒の雨が窓を叩き始める。

 部屋の中は暗くなった。

「洗濯物を入れなきゃ」

 慌てて環奈は部屋を出た。

 

 ベランダへ出るサッシの窓を開けると、勢いを増した雨が降りかかってきた。

 土砂降り。ゲリラ豪雨だ。

 洗濯物を抱え家の中に逃げ込みながら、庭が心配になった。二日前、白鷺さんの庭の小人たちを撃退するため大量の水を撒いてしまった。水を含んだ地面に、さらに大量の雨が降りかかればどうなるか。

 

 ふいに空が明るく光って、雷鳴が轟いた。思わず両手で耳を塞ぐ。

 小人たちを見に行きたいが、この豪雨では庭に出るのは危険だ。

 ふたたび空が光った。


 もう、我慢できない。

 環奈は雷が苦手だ。

 

 窓のカーテンを閉め、ソファに座って雷鳴がおさまるのを待った。スマートフォンの画面を開き、天気のアプリで確認する。

 もうちょっと。

 あと三十分もすれば、厚い雲は通り過ぎるだろう。

 

 地響きにも似た雷鳴を聞いていると、いいようのない不安がこみ上げてきた。

 遥斗がつくった借金のこと。

 認知症の症状がすすむお義母さんのこと。

 負けているジョーたち。

 

 白鷺さんの勝ち誇った顔が浮かんだ。そんな表情をされた憶えはないのに、なぜ、そんな顔の白鷺さんを思い出すのか。

 白鷺さんが造った車輪のついた戦車もどき。その四角い姿が、徐々に大きくなっていく。環奈に迫ってくる。

 

 斜面で必死に戦う女兵士の姿も浮かんだ。その脇で倒れていくほかの小人たち。

 

 いつしか、うとうとしていたようだ。浅い夢の中で、環奈は戦車もどきに押しつぶされそうになっていた。正面についた筒の中から、火花とともに砲弾が飛び出してくる。


「やめてぇ」


 叫び、両手で顔の前を払ったとき、玄関のほうで人の話し声がした。

「いやあ、すごい雨でした」

「どうぞ、早く中へ」

 などと言っている。遥斗と誰かの声。パタパタとスリッパの音が続く。

 部屋の中は明るかった。雨はやんだらしい。ベランダへ出る窓から、強い日差しが注いでいる。


「どうぞ、ぞうぞ」

「失礼します」

 聞き覚えのある声だ。そう、あれは、さっき電話をかけてきた戸田とかいう不動産屋の声じゃないか。

 ガバと体を起こし、環奈は声のするほうへ駆けていった。



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