第12話


         第三章


 十月の半ばを過ぎた。

 

 小人たちの戦いが続く庭には、秋たけなわの陽光が降り注ぎ、鳥たちがさえずる。

 

 色付き始めた木々の葉がきれいだった。まさか、この庭で、激しい戦闘が繰り広げられていると誰が想像するだろう。

 

 お義母さんがうどんを食べたいと言い出して、環奈は急遽、中華にするつもりだった夕食のメニューを変更した。

 天ぷらうどんにすれば、惣菜の天ぷらさえ買ってくればいい。


 財布の中身を確認して、スーパーへ向かった。財布の中身は、七千円ちょっと。惣菜を買うにはじゅうぶんだが、お札を見ても現実感が湧いてこなかった。

 スーパーでは、安い天ぷらを探すだろう。レジ横のセール品にも目がいくだろう。

 だが、そんなことをしてもどうなるというのだ。

 

 四百万。

 

 遥斗の借金を思うと、五百円の惣菜を四百円にしたところで、何の役にも立たない。


 今朝、遥斗は、いつものように仕事に行った。憔悴した様子だったが、声をかける気にはならず、顔を背けていると、いつのまにか出て行った。

 昨晩、ベッドの中で、

「なんとかする」

と、何度も言っていた。どこの誰に頼るつもりなのか、訊けないまま、悶々と夜が過ぎた。

 

 いったい、これからどうなるのか。

 どうすればいいのか。


「いってきまーす」

 玄関で声を張り上げても、お義母さんから返事はなかった。返事の代わりに聞こえてきたのは、ドスンという音だった。何か重い物を落としたときのような。

 靴に入れた足を止めて、環奈はふたたび廊下へ戻った。

 

 お義母さんの部屋へ入ったが、姿はなかった。ベッドの上の布団は、剥いだままの形で折りたたまれている。


「お義母さん?」

 物音がした。クローゼットの中だ。

「どうしたんですか」

 見ると、お義母さんはクローゼットの床の上にしゃがみこんで俯いている。


「ないのよ」

「ない?」

「何か探してるんですか」

 夕食にうどんが食べたいと言ったときは、いつものようにベッドにいて、いつものようにテレビのワイドショーを見ていた。あれから、まだ、三十分しかたっていない。 


「おかしい、どう考えたっておかしい」

 独り言のように、お義母さんは続ける。

「何がなくなったんですか」

 昨日の薬の件が蘇った。

「赤い縮緬(ちりめん)の生地だから、すぐ見つけられるはずなんだけど」

 なんのことを言っているのか、さっぱりわからない。


「わたしのお財布。お気に入りだったのに。京都で買ってきて、大切に使っていたのに」

「お財布? お財布がなくなったんですか」

「明夫に見つからないように隠していたのに」

 明夫? 聞き覚えのない名前だった。


「お義母さん!」

 お義母さんの横にしゃがみこむ。

「どうしたっていうんですか。ちゃんと説明してください」

 振り向いたお義母さんは、子どものように目を丸くして、じっと環奈を見つめた。まるで、なぜ、環奈がここにいるのかわかってないかのようだ。


「明夫さんって、誰のことですか」

 質問ばかりしている。

 お義母さんとの会話では、七割が質問ではあるが。

「誰って―-、弟の明夫よ」

「弟?」

 そういえば、お義母さんには、弟がいたと遥斗から聞いた憶えがある。生きていたら、遥斗のおじさんになる人だ。

 生きていたら。

 そのおじさんは、お義母さんの小さい頃に、風邪をこじらせて死んだと聞いている。


「きっと、明夫が盗ったんだわ。いいな、それって言ってたから。大体あの子は、わたしの京都旅行を羨ましがってたから。だから盗ったのよ」

 ふいに、四年ほど前、遥斗がお義母さんを連れていった京都旅行が蘇った。

 そういえば、あのとき、お義母さんは和風のがま口を買ってきた。赤色の、着物の生地でできた財布だった。


 あれのことを言っているのなら、それを明夫というおじさんが盗るはずはない。盗もうにも、おじさんは生きていないのだから。


 やっぱり、進んでいる。お義母さんの頭が壊れかけている。


 こういうとき、どんな対処をすべきなのか。


 環奈に知識はなかった。こんなに早くお義母さんの認知症が進行するとわかっていたなら、それなりの準備をしておいたのに。

 明夫という弟が死んでいると諭すべきなのか、それとも聞き流すべきなのか。

 

 頭の上にぶら下がる服を払いながら、お義母さんはふたたび財布を探し始める。


「もう、やめてください。わたしが探しますから」

 寝巻きの前をはだけて、四つん這いになって暗い床の上を撫で回す姿は見ていられなかった。なんでもいい。明夫が生きていようと死んでいようと、財布があろうとなかろうと。

 と、お義母さんが呟く。


「大金なんか入れておくから盗まれちゃって」

 環奈は耳を疑った。

「お金を入れてたんですか」

 お義母さんは返事をしない。

 お義母さんの横に並び、環奈は顔を突き合わせた。そしてもう一度訊ねる。

「お金が入ってたんですか」

 お義母さんの顔に、言いようのない表情が浮かんだ。悪いことを見つけられた子どものような表情。目は泳ぎ、口元を歪め、人を小馬鹿にしたような。

 

 嫁には話したくない。表情はそう語っていた。

 

 失礼ね。

 

 環奈が見つければ、盗るとでも思っているのか。

 

 環奈は起き上がって、グイッとお義母さんの体を起こした。

「痛い!」

「買い物に行かなきゃならないんです。おとなしくベッドでテレビを見ていてください」

 強引にお義母さんをベッドに引き戻した。

 寝かしつけたとき、ちょうど、テレビのワイドショーの出演者が笑ったところで、笑い声が大きく部屋の中に響く。

 お義母さんはおとなしくなった。

 

 荒い足音をさせ部屋を出ると、環奈は玄関に戻った。

 むしゃくしゃした。わけのわからない焦燥感が突き上げてくる。

 水が押し寄せてきて居場所が狭くなるような、そんな不安感に襲われる。

 

 エコバッグに財布を入れて、乱暴に玄関の鍵をかけた。お義母さんを一人にするとき、必ず施錠する。

 門扉を開けたとき、塀越しに隣から声がかかった。


「ちょっと、小森さん!」

 顔を向けると、白鷺さんが掌を動かしながら呼んでいる。

「すみません、これからちょっと買い物に」

 気のいいお隣さんといっても、気を使わないわけにはいかない。今は誰ともしゃべりたくない。心を無にしたい。


 だが、白鷺さんは容赦なかった。


「ちょっと、ちょっと」

 口をすぼめて、辺りを見回しながら続ける。

 人目をはばかるのは、小人の話に違いない。仕方なく、白鷺さんのいる塀のところまで行った。


「大変なのよ」

 大きく見開いた目が迫ってくる。

 大変なのはこちらのほうだ。そう言いたいのをこらえて、環奈は訊(き)いた。

「小人たちですか」

「そうなの。もう見てられない」

「昨日は休戦していたみたいですけど」

「いっときね。だけど、今日はすごいのよ、激戦」

 小人たちの戦闘をおもしろく見ていた白鷺さんだが、今日は眉間に皺を寄せて、本気で心配している。

「何人やられたかわからない。なんだか、お宅の小人たち、新しい武器を手に入れたみたいで」

 ドキリとした。


「昨日まではね、どこか牧歌的な雰囲気があったのよ。それが今日からは様変わりしちゃって。やられた数が半端じゃないの。かわいそうに、埋葬しているのをみていると、わたし――」

「埋葬?」

「そうよ。やられた仲間を葬ってる。小さめのヤツデの葉にくるんでね。うちと時島さんのお庭との境に、市の所有地があるでしょう?」


 この辺の住宅街には、ところどころに市の所有地がある。二坪ほどの小さな土地で、おそらく宅地開発がされたときできた土地なのだろう。開発業者が線を引いたとき、土地の傾斜を考えずに四角に引いたせいで余りの土地が出現してしまったのだ。

 そんな土地は、家々の隙間に、三角や台形の形で存在し、誰も手入れをしないから、ヒメジョオンの楽園になっている。


「あそこに運んでるの。埋めているかどうかは、ヒメジオンの陰になって見えないんだけど」

 

 どうしよう。

 

 環奈の心臓がバクバクし始めた。

 

 昨日与えた武器のせいだ。環奈の思惑どおり殺傷能力が格段にあがったのだ。そのせいで、白鷺さんの庭の小人たちの犠牲者が増えた。

 

 自分の庭の小人たちを勝たせてやりたかった。そう思っただけなのだ。侵攻してきたのは白鷺さんの庭の小人たちなのだから、悪いのはあちらの小人たちなのだから。

「激戦のあった場所を見に行ったの。そしたら、あなた、小さな釘がいっぱい落ちてて」

 思わず目をそらす。

「あんなのが飛んできたら、そりゃあ、うちの小人たち、やられるはずよ」

 そして白鷺さんは、叱るような口調で続けた。

「あなた、庭のどこかに、釘を捨てたままにしたんでしょ」

 そう、とも、いいえ、とも言えない。

 

 それに。

 

 どちらの小人たちのためにも、早くカタがつく武器があったほうがいいと思った。そのほうが、元の平和な庭に戻ると思ったからこそ武器を作り提供したのだ。


「ともかく」

 白鷺さんは、大きく息を吐いた。

「このまま指を咥えて見ているわけにはいかないから」

「どうするんですか」

 嫌な予感がする。

「これ見てちょうだい」

 白鷺さんは数枚の板を抱えていた。幅は三センチほど。長さは三十センチほどだ。

「これでね、造ってみようと思うの。うちの小人たちをもっと強くしてあげたいのよ。ちょっとアイデアがあってね」

 ふふふと、白鷺さんは笑った。自信たっぷりだ。


「新しい武器よ。小人たちには造れそうもない武器」

 やめてくださいとは言えなかった。環奈も釘を飛ばす弓を造ってしまった。白鷺さんだって造りたいだろう。それに、白鷺さんもまた、新しい武器が、小人たちの戦いを早く終わらせると思っているのだ。


「この板はね」

 白鷺さんは嬉しそうに続ける。

「以前、主人といっしょに庭のパーゴラを造ったときの余りの板なの。使い道に困ってたんだけど、うまい使用方法が見つかったわ」

 こげ茶色に塗られた板は、たしかに白鷺さんの庭のパーゴラと同じ色だ。

「細かい部分は主人に頼むつもり。あの人、模型やなんか造るのが好きなの。書斎にいくつプラモデルがあるかわからないくらい。だから、武器を造りましょって言ったら張り切っちゃって」


 白鷺さんのご主人は、定年後、時間を持て余していると聞いた憶えがある。

「新しい武器を作れば、小人たちは強くなるし、うちは廃材が片付いて、お互いが得するってわけ。こんなことでもなければ、裏の庭で腐るのを待つしかなかったんだから。ウインウインの関係って言うの? こういうのって」

 なんだか違うような気がしたが、反論する気にはなれなかった。


「今日中にはできると思うから、小人たちに提供するのは明日ね」

「――そうですか」

「明日、楽しみにしてて。なんなら、明日、またうちにいらっしゃいよ。パウンドケーキならすぐ焼けるからご馳走するわよ」

 それどころじゃないのだ。もう、小人たちの戦いなどどうでもいい。

 今は、家の中に大問題が勃発している。

 

 小人たちの埋葬場所となっているヒメジョオンの空き地も、見に行く気にはなれなかった。白鷺さんの庭の小人たちと同様、うちの小人たちにもたくさんの犠牲が出ただろうが、昨日までのように心が痛まない。

 

 所詮、他人事だったのだ。家の中に問題が発生すれば気にしてなんかいられない。


「わたし、買い物に行かなきゃならないんです」

「あら、ごめんなさい」

 そして白鷺さんは、細く目をすぼめた。

「お母様は、お元気?」

 そう訊かれた途端、不安な苛立ちが胸に溢れてきた。

「大変ね。コロナのせいで、外出もままならないですもんね。何かお役に立てることがあったら、言ってね」

「いえ……」

「遠慮しないで。他人事じゃないのよ、わたしもそろそろ七十に近いでしょう? 介護される側になるのは遠くないから」

 うっすらとファンデーションが塗られた血色のいい顔が曇った。

 頷くことしかできなくて、環奈はそのまま踵を返した。



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