第10話
駅前にあるスーパーは、昼前のせいか思いの外混雑していた。ネギだけ買いに来たつもりだったが、帰りのエコバッグは大きく膨らんでしまった。
生鮮食品以外の場所で買い物をしたせいもある。駅前のスーパーは大型店で、日用品も大量に置いてある。
小人たちのための弓矢造りに必要な品を、環奈は物色してきたのだった。
矢は釘でいい。だが、矢だけあっても飛ばすことはできない。弓のほうを造って、そして見本を見せてやれば、ジョーたちも使い方がわかるだろう。
スーパーまでの道のりの間、信号待ちをしながら、弓造りの動画を検索した。動画はいくつもアップされていた。丁寧に説明されていた。子ども用の動画を選んで、造り方を頭に叩き込んだ。これならなんとかできそうだ。
竹串と輪ゴム。弦として輪ゴムを使うアイデアは、白鷺さんの真似をすることにした。竹串は、焼き鳥に使われるもの。短く切り二本を接着する。そのためのテープも買った。スーパーの日用品コーナーの先には百均の店があり、すべて揃えても三百円で済んだ。
家に戻ると、お義母さんはウトウトしていた。お昼ですよと声をかけると、
「あら、もう、そんな時間?」
と眠そうに目をこする。
泥棒騒ぎなど忘れてしまったようだ。
食事と後片付けを済ませ、環奈は居間で早速、弓造りにとりかかった。ジョーたちの身長を考えて、竹串は七センチに切った。竹串に輪ゴムを引っ掛けるために、カッターで切り込みを入れるのが案外難しかったが、三つめぐらいから手馴れてきた。
二十個を仕上げたところで疲れを覚え、一旦休憩することにした。スーパーで買い物をし終えたとき、レジの横に山積みされていたセール品のクッキーの中から、チョコレート味を選び買ったのだ。クッキーの袋を開け、二枚ほど食べる。
おいしかった。安物のクッキーだが、甘味が嬉しい。
充実感を覚えた。仕事の合間に食べる糖分は、後ろめたさを感じない。
さて、問題は。
お湯を沸かして紅茶を淹れながら、小人たちに見本を見せるにはどうしたらいいかを考えた。
そのためには、自分も戦闘に加わらなくてはならないだろう。
なんだかゾクゾクした。ワクワクといってもいい。
自分が加われば、戦況は大きく変わるはずだ。
うちの庭の小人たちに勝利をもたらすだろう。なんたって、戦場をひとまたぎできる大きさの者が加わるのだから。
出来上がった弓の束を掴み、庭へ出ようと玄関に向かうと、カチャリと玄関ドアが開く音がした。カチャチャと鍵を回す音もする。
「え?」
遥斗が立っていた。
「どうしたの? こんな時間に」
まだ午後早い時間だ。遥斗が帰ってくる時間じゃない。
「いや――その」
マスクを取ると、顔色が悪い。憔悴しきった表情で、億劫そうに靴を脱ぐ。
「ね、どうしたの? 何かあったの」
ワックスで固められているはずの前髪が、だらしなく額に落ちている。心なしか、歪んだネクタイがくたびれてみえる。
「早く終わるなら、ラインで連絡くれればよかったのに」
いやと、遥斗は顔を背けて、そしてどっかりと玄関の敷物の上に腰を下ろした。その拍子に、脱いだばかりの環奈のスリッパを踏みつける。
「ねえ、ちょっと、踏まないで」
お気に入りのスリッパで、甲の部分にふっくらとしたリボンがついている。踏まれたら、形が崩れてしまう。
「うるせえな」
「え?」
「細かいこと言うなよ」
いつもの遥斗ではなかった。
「どうしたの? ねえ、何かあった?」
遥斗は顔を背けたまま、立ち上がり、奥へ向かってしまった。
何かあったのは間違いない。あんな遥斗を見るのは初めてだった。玄関の靴箱の上に弓の束を置き、環奈は慌てて遥斗の後を追った。
遥斗は、キッチンにいた。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、ラッパ飲みしている。帰宅後は、まず丁寧に手洗いうがいをし、着替えをするのが常の遥斗が、鞄を玄関に置いたまま、水をラッパ飲みしている。
声をかける言葉が見つからず、環奈は呆然と生き物のように上下する遥斗の喉仏を見つめた。
「おふくろは?」
「おふくろ?」
遥斗は普段、母親をおかあさんと呼んでいる。
「そうだよ。俺の母親だよ!」
「お義母さんの部屋にいるわよ。いないわけないじゃない」
ふんと、遥斗は鼻を鳴らし、それから環奈の脇を乱暴にかすめて、キッチンを出て行った。
「ただいま―!」
声を上げながら、遥斗はお義母さんの部屋へ向かっていく。
環奈も続いた。
遥斗の様子は尋常じゃない。もしかして、お酒を飲んできたのかもしれない。アルコールの匂いはしないが。
「おや、遥斗。おかえり」
楽しげなお義母さんの声が響いてきた。
「今日は早いのねえ」
声に不審感はない。やっぱり、お義母さんはどこか壊れ始めている。
遥斗はどかりとベッドの横の床の上に腰を下ろしていた。
「ねえ、まず、着替えてきたら?」
声をかけたが無視された。体をベッドに向けて、お義母さんを仰ぎ見ている。
「あのさ、話があるんだけど」
遥斗が少し体を持ち上げて、言った。
お義母さんは満足気な表情で、頷いている。遥斗を前にするといつもこの表情になるのだ。
「俺、大変なことになっちゃって。それで、助けてもらいたいんだ」
え、と環奈は耳を疑った。反射的に、遥斗に駆け寄り、肩を掴んだ。
「ちょっと、どういうこと?」
「いいから!」
遥斗に乱暴に腕を払われて、環奈は思わずよろめく。
「金がいるんだ。お願い、金を貸して欲しい」
「ちょっと!」
聞き流すわけにはいかなかった。
「ねえ、遥斗、何言ってんの?」
遥斗は母親に顔を向けたままだ。
「だからさ、四百万ぐらいあればなんとかなるんだ」
金額の大きさに、環奈は息をのんだ。
お義母さんは、わけがわからないのか、ただ呆然と息子を見つめている。
「四百万って、どうしてそんな大金が必要なの?」
もう一度遥斗の肩を掴み、今度は強引にこちらに顔を向けさせた。
「競馬なの? また始めちゃったの?」
遥斗はギャンブル好きだったのだ。その嗜好は、家を買ったことで封印されていた。
でも、やっぱり、人はそう簡単には変わらない。我慢していた分、爆発したのかもしれない。それで、大きく賭けて、大きく損をして――。
ところが、遥斗は意外なことを口にした。
「間違えちゃったんだよ、読みを」
「読みって、なんの?」
「言ってなかったけど」
その先を聞くのが恐ろしかった。できれば聞きたくなかった。
「FXで損しちゃったんだ」
「FXって?」
どこかで聞いた覚えのある言葉だが、それが何なのか、環奈にはよくわからなかった。
「為替だよ!」
「為替? 何それ」
「だから、お金、通貨。たとえば円とドルのレートがあるだろ。その差額で儲けるんだ」
「儲ける?」
「そう。一ドルを百十円のとき買ったとするだろ? その後、一ドルが百二十円になったら売る。そしたら、十円の儲けになる」
意味はわかったし、そういう取引があるのも知っていた。だが、目の前の遥斗とは結びつかない。
「それで?」
「それでって――だから、やってたんだよ、そういうのを」
「どうして」
「どうしてって、資金を増やそうと思ったんだ。僕でもできそうな取引だと思ったから」
「聞いてない、そんなこと」
そういうのは、自己資金に余裕がある者が行うというのが環奈の認識だった。遥斗の年収は、同世代の平均といっていいぐらいで、特に高いわけでも低いわけでもない。
中古とはいえ、持ち家があり、母親の援助のおかげで、住宅ローンを組まずに暮らしているが、といって、日々の生活費が潤沢なわけじゃない。
遥斗はどこからその資金を手に入れたのか。
大体、そんな大事なことを、妻に黙ってしているというのが信じられなかった。自分の夫である遥斗が、妻に隠れてそんなことをしているとは。
「聞いてないよ、そんなこと」
同じことを呟く環奈に、遥斗はぞんざいに言った。
「言うほどのことじゃないと思ったんだよ。ちょっとした小遣い稼ぎだから」
「小遣い稼ぎって――」
さっき、四百万と口にしたではないか。小遣いの範疇を超えている金額じゃないのか。
「大体」
環奈はバクバクし始めた心臓に手を当てながら、大きく息を吸って、そして吐いた。
「どこにそんなお金があったわけ?」
貯金は始めたばかりで、まだ百万も貯まっていないはずだ。
「わずかな金で取引が始められるんだ」
「わずかなって?」
「取引額の四パーセントの資金があれば始められるんだよ」
けだるい遥斗の口調は、どこか他人事のようだ。
「四パーセントって、残りは、誰が出すの?」
いくら投資と無関係な環奈でも、何か引っかかる。
かすかに、遥斗の表情が歪んだ。
「平たく言えば、借りたんだ」
耳を疑った。
「借りたお金で取引をしたってこと?」
気まずそうに、遥斗は頷く。
「いつ? いつから始めたの?」
「七月のはじめだったかな」
「七月のはじめ……」
ボーナスが出たときだ。
「いくらから始めたの?」
「いいよ、もう、そんなこと」
「よくない!」
環奈の叫び声に、お義母さんが驚いてサイドテーブルの上のペン立てを倒した。ボールペンや体温計が床に転がる。
「言って! くわしく言って!」
「たった十万だよ。それぐらい自由に使う権利はあっていいでしょ」
「それで?」
「百九円のとき、ドルを買ったんだ。そしたらすぐに百十円になって」
遥斗の目が輝いた。さっきまで澱んでいた目が、輝きを取り戻した。
「俺って、案外、こういうのに向いてるって思ったんだよ。そしたら、前からやってて儲けてる岩城がさ、ほかの通貨でもやってみろよって言ってきて」
「岩城? 大学のサークルでいっしょだった?」
顔だけなら見た憶えがある。派手なグループに属していた人で、自分には関係ないと感じていた。
あの岩城が、遥斗と親交があったとは。当時から、岩城には、学生にふさわしくない金の使い方をすると噂があった。岩城はその頃から、様々な投資をしていたのかもしれない。
十万がいくらに化けると遥斗は思ったのだろう。岩城はいくらに化けると、遥斗をそそのかしたのだろう。
ギャンブルじゃないか。競馬と同じとしか思えない。
遥斗はお義母さんに顔を向けた。
「お願い。貸してくれ」
お義母さんはようやく事態が理解できたのか、怯えた表情になった。
「あんた、何したの」
「だから、言ったでしょ。投資に失敗したんだよ。でもね、お義母さんが貸してくれれば」
「いくら?」
「だから四百万あれば」
「それぐらいなら、家を売ったお金があるから」
「お義母さん!」
環奈は叫んでいた。
「家を売ったお金って、それをほとんど、この家を買うとき出してくれたじゃありませんか!」
そう。お義母さんの銀行口座に、お金など、ほんの数十万しか残っていない。年金の引き出しにいつも同行している。お義母さんの財産を把握している。
「遥斗!」
環奈は夫の腕を引っ張った。お義母さんを交えて話す内容じゃない。遥斗からしっかり説明を受けなくては。
強引に遥斗を廊下へ連れ出し、環奈は迫った。
「なんだよ!」
「なんだよじゃないじゃない。もっとくわしく話して――」
遥斗はふうと息を吐いてから、壁に寄りかかった。
「バーツを買ったんだ」
「バーツ?」
「タイのお金だよ」
睨み据えて、先を促す。
「ドルでうまくいったから、証拠金――はじめに必要なお金なんだけどさ、それを借りてさ、それで始めたんだ。そしたら、びっくりするような儲けが出たんだ」
「そんなの、ビギナーズラックなんじゃない? そんな当たりが続くはずないじゃない」
「当たり――って、ギャンブルみたいに言うなよ。投資は素人だったかもしれないけど、始めた以上勉強はしたんだ。為替投資だから、世界情勢についても知らなきゃいけなかったし」
そんな甘いものであるはずない。素人が聞きかじって儲けを生めるほど、世の中は甘くないんじゃないか。
男にしてはふっくらした遥斗の頬を、環奈はぼんやり見つめた。キメが細かく、赤ちゃんのようにきれいな肌。環奈が好きな遥斗の肌。
「岩城にもすごいなって言われて、別の通貨でもやってみようと思ったんだ。それで、トルコリラを買ったんだ。それが失敗の元で……」
タイバーツだのトルコリラだの、環奈には馴染みのない通貨ばかりだった。遥斗だってそのはずだ。それなのに、借金をしてまで取引をして儲けを企むなんて。そんなのは、投資じゃない。
手品で出てくる鳩を待つようなものじゃないか。
「な、環奈」
遥斗の目が、生気を見せた。
「お母さんの口座の金、なんとか引き出してきてくれよ」
「……」
「お母さんを銀行に連れてってくれ。僕は仕事があるから」
「行ったって無駄よ。ほんとにお義母さん、もうお金を持ってないのよ」
「じゃあさ、生命保険をかけてるだろ。それを解約させて」
解約させて。
まるで、自分の所有物た。
そうか。遥斗にとって、母親は所有物だったのか。
そして、お義母さんにとっても、遥斗は所有物なのかもしれない。
「解約したって、二十万にもならないわよ」
「それでもいいよ」
四百万のうちの二十万。焼け石に水だと思うんですけど。
「明日、明日頼むよ、環奈」
懇願するような目を向けられて、環奈は思わず後ずさった。
目の前にいるのは、環奈の知っている遥斗じゃない。見慣れた口元、首筋。遥斗なのに遥斗じゃない。
踵を返して、環奈は玄関に向かった。逃げ出したかった。その気持ちだけで、環奈は庭へ出た。
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