第9話

「あのね、訊きたいんだけど」

 

 リハビリは案外疲れるらしく、終わったあと、お義母さんは若干元気をなくす。

 声も、姿勢も、しぼんだように見えた。

「なんですか」

 早く弓造りをネットで調べたい。


「お薬、足りないのよ」

「そんなはずないです。動かしてませんから」

 薬というのは、医者から処方されている認知症を遅らせる薬のことだ。ドネペジルという名の白い錠剤だ。一日に飲む数は決まっていて、二週間分処方されている。処方箋を持って環奈が薬局に行ったのは十日前だから、まだ四錠は残っているはずだ。

「だって、ほら」

 お義母さんは、そう言ってサイドテーブルに体を向けると、薬が入れてあるプラスチックケースを環奈のほうへ押しやった。


 長方形の箱の中に、大まかに仕切りがあるケースを覗き込んだ。

 たしかに、なくなっている。錠剤は一粒しかない。

「どうしてですか」

「だから、それをあなたに訊いてるんじゃない」

「知りません、わたし」

「一日一錠でしょう? だから、あと四錠ないとおかしいのに」

「落としたんじゃないですか」

 環奈はベッドまわりを見渡した。眼鏡やタオル。週刊誌やパジャマ。お義母さんは頻繁にベッドまわりに物を落とすのだ。

「大事なお薬なのよ。落としたら騒ぎ立てるわよ」

「――そうですね」

 何が落ちても、たとえば、テレビのリモコンを落としても、お義母さんは二階にいる環奈を呼ぶのだ。薬ケースを落とした際に騒ぎ立てないはずがない。


 寝ている間に落としたのかもしれない。このところ、お義母さんは眠れないといって、睡眠薬を飲む回数が増えた。これも医者に処方してもらった薬で強いものではないが、そのせいか、朝、環奈が起こしにいくと、死んだように眠っているときがある。

 

 環奈はしゃがみこんで、ベッドの下を覗いた。

 なかった。薄く埃が積もったフローリングの上に、錠剤は見当たらない。

「ありませんね」

「だから、落としたんじゃないから」

 お義母さんは口を尖らせる。

「でも」

 苛立ちが湧き上がったが、同時に、おかしいかもと、環奈は心の中で呟いた。

 ケースごと落としのなら、ケースに入った他のものもなくなっていることが考えられるのに、ほかのものは元通りの場所にある。携帯用ティッシュや鈴のついたお守り。

 

 おかしいかも。

 

 お義母さんは忘れているのかもしれない。環奈の見ていない間に、間違えて多めに飲んだことを。

 

 認知症が進んだ?

 

 無理もないと思う。新型コロナウィルスが流行り始めてから、お義母さんの外出は極端に減った。ディサービスにも行く機会が少なくなったし、頻繁に連れていっていた整骨院通いもやめた。そのせいで、明らかに、以前できていたことができなくなった。

 

「誰かが盗んだのかもしれない」

「誰かって――」

「ここに誰かが入って、お薬を盗んだのかもしれない」

「泥棒が入ったっていうんですか」

 お義母さんは深く頷く。

「まさか、そんな」

 泥棒が家の中に侵入して、お義母さんの認知症の錠剤だけを盗んだというのか。


「何か、そう思えるふしがあるんですか」

 衝撃のせいか、ゆっくりとした口調になった。それを、お義母さんは、環奈が真剣に聞いていると思ったようだ。

「話そうか迷ってたんだけど」

 環奈は首を傾げた。

「あの穴……」

 お義母さんは、顔を壁に向けた。視線を追うと、床からすぐのところにある穴を見ている。前の持ち主が開けた、猫の出入り口だ。

「もしかして、あそこから入ってきたっていうんですか」

 呆れる。直径十五センチほどの穴なのだ。

 

 ざわざわとした不安が、環奈を襲った。本気にしないことだ。聞き流してしまおう。そうすれば、何事もなかったように事は収まるだろう。

「出入り口はあそこだけだから」

 環奈は無視した。部屋の鍵をかけ忘れたのを誤魔化すならともかく、あんな小さな穴から泥棒が入ってきたと言い張るなんて。


「やっぱり、環奈さんは信じないと思ったのよ」

 怒りとも悲しさともつかない気持ちが湧き上がる。

 お義母さんを特に嫌っているわけじゃない。いっしょに暮らすまでは、上品で控えめな人だと思っていた。ちょっと遥斗にたいして過保護なところもあるが、一人息子にたいする母親というのはこんなものだろうと思っていた。

 特に問題はなかったのだ、いっしょに暮らすまでは。


「でも、ほら、扉が開いているでしょう?」

 たしかに、穴を塞ぐ簡易な扉が半開きになっている。風で開いただけだ。それなのに。

 わざとらしく足音を立てて、環奈は穴に近づきしゃがみこむと、ピシャンと扉を閉めた。


「あの――昼食は」

 立ち上がって、お義母さんに顔を向けた。

 お義母さんは憮然とした表情で返事をしない。

「お蕎麦にしようと思ってまず。でも、ネギがないから」

 買いに行ってきますと言いながら、環奈は部屋を出た。


 喉が乾いていた。慌てて小人たちに釘を持っていったせいかもしれない。

 キッチンに戻り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、コップに入れて飲む。

 二杯立て続けに飲んで、ようやく気持ちが落ち着いてきた。お義母さんの認知症の進行が、自分で思っていたより衝撃だったようだ。


 いつか、いつか大変なことになったら、施設に入ってもらうから。

 そう言った遥斗の声が蘇った。

 大変なことって? 

 その線引きはどうやってすればいいのだろう。

 徘徊を始めたとき? 

 下の世話が必要になったとき?


 それとも、辻褄の合わないこと、有り得ないことを言い始めたら?


 だが、決定権は自分にはない。

 遥斗が決めることだ。

 だが、遥斗はきっと決められない。


 環奈はコップを流しに置くと、ジャーッと勢いよく水を流した。



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