第5話
「小森さん」
声は、隣の白鷺さんの奥さんに違いないはずだが、顔を向けても姿は確認できなかった。
「ここよ、ここ」
白鷺さんの家の庭の、ちょうど真ん中あたりに、大きな月桂樹の木がある。その枝の合間から、白いつば広の帽子の下に、茶色いマスクをしている白鷺さんの丸い顔が見えた。
「どうしたの? 難しい顔して」
白鷺さんは、六十代半ばの専業主婦だ。五十代までご主人の赴任にともなってイギリスのロンドン郊外にいたという人で、そのせいか、庭は日本とは思えないほど洋風にしつらえている。
植栽を洋風にするには、和風の庭の倍の労力がいる。常々、白鷺さんは口にしている。日本は温暖湿潤気候に属するから、植物の繁殖もヨーロッパと比べると旺盛だ。その分、整然と保つには手間がかかるという。
白鷺さんは庭仕事に熱心で、雑草抜きや剪定に、ほぼ一年中かかずらっているように見える。
今朝も、白鷺さんの庭は、すでに、枯れ葉や飛んできた草がすっかり取り除かれている。
「おはようございます」
環奈は挨拶をしてから、家のほうへ戻ろうとした。白鷺さんは隣人として申し分ない人だが、世代が違うせいか、話しやすいとは思えない。
「すごかったわねえ、昨日の台風」
環奈に背を向けられても気にならないのか、白鷺さんはマスクを取って声を上げた。
「そうですね。怖いくらいでした」
振り返って、答える。環奈の家の庭は、いまだ台風の最中のように散らかったままで、少し恥ずかしい。
「ねえ、球根いらない?」
白鷺さんは、ときどき植物の種や苗木を分けてくれる。有難いのだが、うまく育てられた試しがない。それでも欲しいなと思った。いつかはうまくいくかもしれないし、白鷺さんが分けてくれる植物はセンスがよくて、しかもお店で買えば高そうなものばかりだ。
「ありがとうございます」
「じゃ、ちょっと待って」
カタカタと脚立を下りる音がして、白鷺さんの姿が月桂樹の木から離れ、それからこちらに向かってきた。
環奈は慌てて、ポケットからマスクを取り出して付けた。ほかに誰もいない庭でマスクの必要性は感じないが、付けて対面するのが礼儀だろう。
「チューリップよ」
そう言って差し出された編みの袋の中に、五、六個の立派な球根が入っていた。
「普通のチューリップとは違うの。花びらが縮れてて」
そこまで聞いたとき、環奈は、
「あっ」
と、叫んでしまった。
白鷺さんの目が、不思議そうに見開かれ、環奈の視線を追って足元に落ちる。
フェンスに片手をついて、環奈に球根の袋を渡そうとした白鷺さんの長靴が、踏んでしまっている。環奈の家の庭から続く城壁を、踏みつけてしまっている。
「あら、いけない」
白鷺さんは、反射的にフェンスから離れ、庭仕事ばかりしているわりには美しく整えられた指先で、唇を抑えた。
「大変」
その言い方があまりにも自然だったせいで、城壁の存在に驚いていない白鷺さんに気づかなかった。
「悪いことしちゃったわ」
白鷺さんは球根の袋を環奈に押し付けると、しゃがみこみ、城壁を修理し始めた。指先で土を集め、積む。子どもが砂山を造るような塩梅だ。低い砂山。それなのに、小人たちが造ったようにはいかない。
「案外難しいのね」
環奈もしゃがみこんだ。
「頑丈にするために、土の中に草を練りこんでるみたいなんです」
「本格的ね」
自然な会話が進んでいく。
白鷺さんは、これを小人たちが造ったと知っているのだろうか。そもそも小人の存在を知っているのだろうか。
「あ――あの」
「なに?」
地面から顔を上げて、白鷺さんが環奈を見た。
「白鷺さんも、見たんですか」
「なにを?」
「だから、これ」
環奈は城壁を指差す。
「これを造った小人たち」
目の前の白鷺さんの両目が大きく見開かれた。その途端、環奈の腕が掴まれる。
「な、なんですか」
「内緒よ」
「はい?」
「あなたも知っているのね、小人たちを」
マスクの上からだが、聞き違いではない。白鷺さんは、はっきりと「小人」と口にした。
環奈は頷く。
白鷺さんが、首を振って、辺りをうかがった。
「内緒にしなきゃだめよ。こんなこと知れ渡ったら、大変なことになっちゃうから」
やっぱり、白鷺さんも知っていたのだ。環奈の庭に出没している小人たちのことを。
「秘密にしときましょ。そうしなきゃ、大騒ぎになる」
「ど、どうしてですか」
人に言おうとは思わない。目にしていない人に言ったって信じてもらえないだろう。
だが、大騒ぎになるとは?
「小人たちは、どうしてこんなものを造っているのかわかる?」
真剣な表情で、顔を近づけて、白鷺さんは環奈の目を覗き込んできた。ほんのり香水が匂った。年齢のわりにおしゃれな白鷺さんは、朝だというのに香水をつけているのかもしれない。
「どうしてって」
小人たちが何の目的でこんなものを造っているのか、そんなこと、わかるはずがない。
「戦いが始まろうとしてるのよ」
「戦い?」
つい大きな声になってしまった。
「しっ」
白鷺さんに制される。
「戦いって、なんのことですか」
「だから、うちの庭にいる小人とお宅の庭の小人たちの戦争よ」
「はあ?」
普段、白鷺さんは、ごく普通の、ちゃんとした奥さまだ。町内で浮いてしまうような、奇矯な行動を取るお隣さんじゃない。ゴミ出しのルールもしっかり守るし、回ってくる回覧板をいつまでもほったらかしにするような人じゃない。
たしか、ご主人は、商社を定年退職したあと、元の会社の子会社で働いているのではなかったか。特別裕福そうではないけれど、落ち着いた老後の生活を満喫しているように見えた。
そんな白鷺さんが、「小人たちの戦争」という言葉を大真面目な表情で口にしている。
「どういう理由かはわからないけど」
白鷺さんは、そう言ってから、自分の家の庭を振り返った。
「うちの庭の小人たちが、お宅の庭の小人たちをやっつけようとしてるの」
返事ができなかった。にわかに信じ難い。
「先週ぐらいだったかしら。うちの小人たちが、お宅の庭へ入って行ったのよ。それを、お宅の庭の小人たちが阻止しようとして、ちょっとした小競り合いになって」
「じゃあ、この城壁は、白鷺さんのところの小人たちの侵入を防ぐために?」
白鷺さんが、大きく頷いた。
「わたしが見たときは、うちの小人たちが優勢だったわ。お宅の小人たちは、突然の侵攻に、驚いていたみたいだから。でも、この城壁を造ったんだから、守る気は満々ね。もしかすると、戦闘は長引くかもしれないわ」
「――はあ」
環奈は曖昧に頷いた。自分以外にも小人の存在を知る者がいたというのは、心強い。だが、環奈にとって小人の存在は、もっと夢のあるもの、楽しげなものであって、戦いだとか戦争、侵攻などという言葉は似つかわしくない。
「秘密にしなきゃ。だって、もし、ここで大きな戦争が勃発しているとわかったら、この界隈、大変な騒ぎになるわよ」
その前に、近所の人々が、小人たちの存在を信じるとはとても思えないが。
「どうしてうちの小人たちが突然侵攻を始めたのかわからないけど」
白鷺さんは、膝についた土を払い、立ち上がった。
「着々と次の戦闘に向けて準備を進めてるって感じよ」
言いながら、白鷺さんは顎をしゃくって、白鷺さんの家の庭の、中央あたりに視線を投げた。
「あのコニファーがあるところ」
白鷺さんの庭には、細長いコニファーが、数本植えられている。中央あたりに大きな木が一本。ほかは小道に沿って、すっきりとした形の木が並んでいる。
「あそこにね、小人たちの拠点があるの」
そして白鷺さんは、
「見てみる?」
と、環奈を振り返った。
なんだか、夢でも見ているような気持ちで、環奈は、
「はい」
と応え、白鷺さんに付いて、白鷺さんの家の庭へ足を踏み入れた。雑草がきれいに抜かれた庭の地面は、ふかふかとして心地良かった。
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