第3話

 あれは、幻覚だったのでは。

 

 今朝、たくさんの小人たちを目にしたのを、環奈はそう疑っている。激しい風雨の中で見た幻覚。


 夜になって、遥斗と話をして、ますますそう思うようになった。


 遥斗は、遅く帰ってきた。

 台風で乱れた電車のダイヤが正常に戻るまで待っていたと、玄関でそんなことを口にする。

 

 きっと嘘なんだろうな。

 

 そう思ったが、何も言わなかった。お義母さんを引き取ってから、遥斗の帰りは確実に遅くなっている。自分の母親なのに、遥斗の中では、お義母さんも家の中の揉め事の一つと認識されているようだ。トイレには一人で行きたがるが、粗相をするので掃除が大変だとか、お義母さんに合わせた食事を別に作るのは面倒だとか、お義母さんを置いて出かけたら、家の中の物の位置が変わって、その上、環奈のハンドバッグがゴミ箱に入れられていたとか。そうした報告が、家事をするうえでの日常の愚痴と変わらないと思っている。


 お義母さんと暮らすこと。それは正真正銘、介護をすることであって、日常の家事とは別物なのに。

 

 いつだったか、たまりかねて、手当たり次第友人たちに電話して愚痴をこぼしたことがあった。みんな一様に、

「大変だね」

とか、

「よくやってるねー」

とか言ってくれて、最後には、施設に行ってもらったほうがいいと結論づけた。

 

 施設に預ける。

 それが聞きたかった答なのに、はっきり口に出されると、素直にうんと言えなかった。

 まだ下の世話はいらないし、直前のことを忘れ、妙な行動は取るが、一人で家を出て歩き回るわけでもない。その段階の親を、施設に入れるのは心の冷たい人間のすることと思ってしまう。

 そもそも、施設だって、タダで入れるわけじゃない。お義母さんは、一人息子がこの家を買うにあたって、ほぼ持っているお金を全部吐き出してくれた。遥斗には二歳違いのお兄さんがいたが、生まれてすぐに死んでしまったらしい。そのせいもあって、遥斗はお義母さんに溺愛されて育った。お義父さんは遥斗が学生のとき亡くなっている。そのとき残してくれたお金を、彼女は一人息子のためにはたいてしまった。


「環奈はやさしいからあ」

 そう言ってくれたのは、学生時代の友人だ。

 そうだろうか。介護をしている現状を褒められると、心の奥底から、嫌な顔をしたもう一人の、いや、ほんとうの自分が顔を出す。冷たい表情をした、自分勝手で思いやりのない女の顔だ。

 その顔を隠そうとすると、能面のように無表情になってしまう。

 お義母さんが来てから、環奈は心底笑顔になった記憶がない。



スーツを脱いで、パジャマに着替えた遥斗は、キッチンで水を飲んでから寝室に直行した。どこかで飲んできたらしく、後ろを歩くと、お酒の匂いがただよう。

ベッドにもぐり込んだ遥斗の横に座り込み、環奈は、

「ねえ、ねえ」

と、布団の端をつまみ上げた。

「何?」

 小人が。

 そう言おうとして、思いとどまった。コ・ビ・トという言葉が、ひどく現実離れした奇妙なものに思えた。口にすれば、遥斗は自分のことを頭がおかしくなったと思うんじゃないか。もしくは、神経症にでも罹っているとか。

小人を見る病気など聞いたことがない。そう思ったとき、ふと、アルコール中毒の幻覚症状で、小人が見える主人公の映画を思いだした。でも、自分はお酒を飲まない。

「なんだよ。なんかあったの?」

 深刻な表情になってしまったのか、遥斗は振り向いて、環奈の顔を覗き込んだ。

「あのね、庭に」

「庭?」

「そう。庭に、変わったものがいたら、どう思う?」

「変わったもの? なんだよ、それ」

 『小人』と口にする勇気はなかなか出てこなかった。

「庭でね、なんか、見なかった?」

「は?」

 遥斗は眠そうな目を瞬いた。

「なんのことだよ」

「ううん、いいの。ちょっと変わったモノを見たもんだから」

「変わったモノ? 動物かなんか?」

「まあ、そうかな」

「ハクビシンとか、そういうの?」

 そういえば、横浜市の住宅街で、野生のハクビシンによる被害が出ていると、つい最近、回ってきた町内の回覧板に書いてあった。ハクビシンは猫に似た動物で、民家の天井裏などに住みつき、ペットを襲ったり、家庭菜園の野菜を食べてしまったりするそうだ。

「ううん、そういうのじゃなくって、もっと小さい……」

「昆虫?」

「違う」

 大きさは大型のバッタぐらいだけれど、風貌は人間なのだ。

「な、寝ていい?」

 大きく寝返りを打って、遥斗は向こうを向いてしまった。

「今朝の台風で、睡眠不足なんだよ」

「そうだね」

 置いてかれたような疎外感を覚え、そのまま環奈が動けないでいると、すっと遥斗の腕が伸びてきた。環奈の手を取って握り締める。

 遥斗の手を握り返して、それから環奈は立ち上がった。

 どうかしている。

 自分に言い聞かせた。

 小人なんか、いるはずない。

 きっとどこからか飛んできたガーデン・ノームを、生き物のように動いたと勘違いしただけだ。

 無理矢理自分に言い聞かせて、環奈は自分もベッドに入った。

 窓のカーテンの隙間から、くっきりとした三日月が見えた。どうやら風が雲を吹き飛ばしてしまったようだ。



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