第2話

 雨が激しくなった。

 被ったフードから、雨の雫がしたたり落ちる。


 急いで出てきたために、環奈の足元はサンダルだった。もう、夏はどこにもいない。柔らかくなった斜面の泥が、素肌の足先に被る。冷たい。

 雨が川のような筋となって、斜面を流れていく。思いのほか鋭く地面を掘る水の強さに、環奈の不安は増した。斜面にできた川筋はほんの十数センチしかないが、ジョーにとっては大河に相当するだろう。流されたら、ひとたまりもない。


 傍らに植えられたツツジの枝に捕まりながら、環奈は斜面の下の方を見た。水の流れは、斜面のいちばん下のフェンスまで続いている。

 フェンスの先は、道路になっている。水は、道路の脇の溝へ流れていくだろう。

 ジョーが、流される姿が目に浮かぶようだった。石ころと共に、なす術もなく転がってしまったとしたら……。


「ジョー!」


 思わず環奈は叫んでしまった。


「どこにいるの? 出てきて!」


 体裁を気にする余裕はなかった。隣の家の白鷺さんの奥さんに、叫ぶ声が聞こえたかもしれない。白鷺さんの家も庭部分は斜面になっている。環奈の家の庭よりは緩やかな傾斜で、平地の部分も多いが、土砂崩れの危険性はある。きっと彼女も、家の中から庭の様子を見ているに違いない。

 危険な気もしたが、小道を下って、普段、ローズマリーの林と呼んでいる場所まで移動した。


 ローズマリーはハーブの一種で、案外大きく育つ。環奈が植えた。環奈はほんとうは洋風の植栽が好みだ。引っ越してきた頃、思いつきで植えてみたら、勝手に増えて、いまでは低木と言ってもいいほどになっている。

 ところどころ崩れたレンガにつまずきながら進み、シロツメグサが群生している斜面を少し登り、ローズマリーの林にたどり着く。

 葉を掻き分けた。チクチクする尖った葉に構ってはいられない。

 こんな雨でも、葉に顔を近づけると、ハーブ独特の香りがした。ここにいるかもしれないと思ったのは、ジョーはこの香りが好きなんじゃないかと思っていたからだ。この林でジョーを何度も見かけたのだ。太めの針のような葉をちぎって集めていたり、白い小さな花が咲いたとき、その花びらを口にしていたのを見かけたこともある。

 葉の間に顔を突っ込んで、ふたたび、

「ジョー!」

と、叫んだ。こんな名で呼ばれているとは知らないだろうから、何を叫んでいるのかわからないかもしれない。だが、この豪雨の中だ。緊急事態だと理解してくれるだろう。

 

 と、地面に近い場所で、何かが動いた。

 

 あ、いる。

 

 咄嗟に手が伸びた。ガリバー旅行記のガリバーのように大男になった気分だ。まるで、鍋の蓋を開けて中身を覗くように、ローズマリー枝を分ける。

 長靴が見えた。どこから飛んできたのか、大きなヤツデの枯葉が、ローズマリーの一本の根元を、絨毯のごとく覆っている。長靴はそのヤツデの葉先から見えている。

 長靴の踵の部分を、指先でつまんだ。

「ごめんね――助けてあげようと思って」

 そう言いながら、指先を顔の前に掲げた途端、環奈は、

「あっ!」

と、叫んだ。

 親指と人先指でつまんだガーデン・ノームは、ジョーではなかった。ジョーよりももっと丸々とした体つきをしている。それに、髭がない。ジョーと同じようにぎょろりとした大きな目だが、ジョーよりも丸くて人が良さそうだ。ジョーと同じように、彼の上着に、Jの文字があった。Jの文字は、ジョーだけのものではないようだ。


 ほかにもいたんだ。


 心底驚き、呆然と指先の小さな体を見つめる。

 小さな体は、環奈の指から逃れようと、懸命に体を動かしている。脚をバタバタさせて、両手をぐるぐる回して。

 その様子がおかしくて、環奈は笑った。

 そのとき、サンダルから剥き出しの足の親指にむず痒さを感じた。虫が肌の上を這い回るような不快さ。

 小さな体をつまんだまま、環奈は自分の足元に視線を落とした。


「わっ!」


 いる。いくつも、いや、何人も。ジョーや指先の小人と同じようなガーデン・ノームが、足の周りに群がっている。

 五人、六人。もうちょっといるだろうか。

 人間と同じように、それぞれ異なった顔をしていた。目が細い者もいれば、口が大きい者もいる。小人の中で、さらに背の低い者もいれば、ちょっとだけ大きな者もいる。痩せている者、太った者――。

 攻撃されているのは間違いなかった。目を凝らしてみなくても、彼らがそれぞれ手に武器――多分、武器だろう――を持っているのがわかった。小さな、ほんの小さな尖った葉を掴んでいる者がいる。砂粒のような石を握り締めている者もいる。

 痒くて我慢ができず、環奈は乱暴に足先を振った。その途端、小人たちは、雨粒のように地面の上に散らばった。哀れな姿だった。それぞれが顔の表情を歪めて、小さな口を大きく開けて、ポンと散った。

 仕方ないよ。だって――。

 謝りたかったが、瞬く間に、小人たちは草の間から沸き起こってくると、ふたたび環奈の足元に向かってきた。


 雨は降りしきっている。ローズマリーの林の中だから、若干雨足は弱いようだが、それでもひどい条件であるのは間違いない。だが、彼らに怯む様子はなかった。指先の小人も、懸命にもがいている。

 ズルっと足元が滑って、環奈は地面を数十センチ移動した。泥の道が――小人たちにとってはだが――できた。その道を、小人たちが滑り降りていく。

 咄嗟に空いているほうの手を伸ばして、滑った小人たちをすくい上げ、傍らのレンガの上に置いた。そして、つまんでいた小人も、彼らの横へ下ろす。

 わけがわからないといった表情で、彼らは素早く集まった。どうやら、組織された軍隊のように、行動規範があるようだ。

 そっと、環奈はローズマリーの林から離れた。足を大きく開き小人たちを跨ぎ、彼らから離れたレンガの上に立った。

 小人たちは、そんな環奈をじっと見上げている。

 大粒の雨の中で、小人たちは動かなかった。



 ずぶ濡れになったレインコートをバスルームに干した。

 冷え切った両手をこすりながら温め、キッチンへ向かう。


「環奈さん」

 居間の奥の部屋から、かぼそい声が聞こえた。お義母さんだ。

「はあい」

と返事をし、すっかり、その存在を忘れていたことを後悔する。慌てて電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れた。お義母さんは、朝にまず緑茶を飲む。


 ピーッとお湯が沸いた音がして、急いで急須にお茶の葉を入れた。いつも適当に入れているせいで、おいしいと言われた試しがない。今朝もお義母さんは何も言わないだろう。

 湯気の立つ湯呑を持って、お義母さんのベッドがある部屋へ向かった。

「おはようございます」

 ドアを開けて声を上げた。お義母さんはベッドの上に起き上がっていた。

 真っ白い肩までの髪が、くしゃくしゃとなって、綿菓子みたいに見える。

 皺だらけではあるが、細面の顔は、美人の名残りを残していた。卵型の輪郭と、鼻筋の通った鼻。若い頃、ダンスを習っていたというだけあって、姿勢がいい。


「どこか行ってたの?」

 ぼんやりした目で、環奈を見上げた。

「ちょっと庭に」

「庭?」

「台風が来ているから、心配で」

 窓のカーテンを開けた。窓は庭に面している。雨が激しいから、朝だというのに薄暗いが、それでも、どんよりとした部屋の空気が軽くなった気がする。

「台風?」

 お義母さんは目を丸くしている。こんなに風雨が激しいというのに、何も気づいていないようだ。

 遥斗の母である美智子は、八十六歳だ。耳は遠く、意識も曖昧なことが多い。認知症だけでなく、老人性欝と呼ばれる症状で、一日のうち、ほとんどをベッドの上で過ごしている。

 引き取ったばかりの頃は、目の前で起きている事柄をいちいち説明していたが、いまでは、そのままにすることがほとんどだ。引き取って数週間で、付き合い方のルールができた。穏やかな気持ちで、波風を立てないよう、言葉を選ぶ。余計なことは言わない。

「そのほうがいいよ」

 お義母さんへの接し方を話したとき、遥斗はそう言って賛成してくれたが、その意味が、遥斗にはわかっていないと思う。

 余計なことは言わないということは、無視しているのと変わらないのに。

 はい、お茶です。着替えです。窓を開けますか。散歩に行きましょう。

 感情のこもらない言葉の応酬は、会話とは言えない。会話とは言えないのだから、無視しているのと変わらない。

 無視は、相手の存在をなかったことにする行為だ。

 

 はじめのうちは、お義母さんから、長い返事があったが、感情をこめない言葉で済ます環奈にあきらめがついたのか、この頃では、あちらも用件だけを口にするようになった。

「喉が渇いた」

「それを取って」

「テレビの音を大きくして」

「背中が痛い」

「足先が冷たい」

 顔を合わせていると、そんな言葉が際限なく続く。よくもまあ、これほど要求が多いものだと感心してしまう。

細い筋だらけの手が伸びてきて、湯呑に触れた。その手を支えながら、湯呑を掴ませる。

 ズズッと音を立てて茶を飲み、それからお義母さんは目を閉じた。


「トイレはだいじょうぶですか」

「さっき行った」

 聞きながら、そっと布団の中に手を滑り込ませた。一度、トイレへ行ったというお義母さんの言葉を信じたら、シーツが濡れていたことがあった。たった一度のことではあるが、それから環奈はお義母さんの言葉を信用していない。トイレまでは自分で行けるのは有難いが、行っていないときに行ったと勘違いしてしまわれては元も子もない。

「これからお味噌汁を作りますから、ヒジキの煮物で朝食にしましょう」

 部屋の出口に向かいながら、環奈は言った。


 煮物はいつも作り置きしてある。味噌汁もすぐにできるから、せいぜい三十分もあれば、お義母さんの用は終わる。朝食が終わったら、リハビリの先生が来るまで、お義母さんはテレビを見て過ごす。テレビは居間にある。お義母さんがいつも見る番組を付けておけば、何も問題は起こらない。

 お義母さんがテレビを見ている間に、環奈は洗濯や掃除を済ます。毎日、環奈はほぼ同じルーティンを繰り返している。以前は、そうではなかった。お絵かき教室の仕事をしていた頃までは、日々なぜか心に浮き立つものがあって、計画通りの一日を過ごすのが難しかった。突然、部屋の模様替えをしてみたくなったり、古いTシャツに刺繍をほどこしたくなったり、思い立って図書館へ出かけて夕暮れまで過ごしてみたり。

 変わったのは、お義母さんを引き取ってからだ。意地悪な人ではないし、どちらかと言えば物わかりのいい老人と言える。けれども、他人であることに変わりなく、本心を言えるわけじゃない。ぐっとお腹に力を込め、言いたいことややりたいことを我慢しはじめてから、気まぐれな気持ちは沸き起こらなくなってしまった。


 もし、お義母さんを引き取らず、遥斗と二人だけで暮らしていたら、いまも尚、自分はどこか少女じみた女だったと思う。

 お義母さんが来る前の日々を、環奈はときどき青春を懐かしむように思い出している。といって、後悔はしていない。お義母さんの援助がなければ、三十代のはじめで、中古とはいえ、横浜に一戸建ての家を買うのは無理だっただろう。遥斗は世間的に名の知れた会社のサラリーマンだが、給料が多いとはいえない。

 購入額の約半分を、お義母さんは出してくれた。

 感謝している。だから、問題がないよう、気を配っている。だからといって、気持ちをこめて接するのは無理だ。気持ちをこめていたら、早々に自分の中の何かが溢れ出てしまう。

 やれるだけのことはしている。

 遥斗も環奈も、その点に関しては自信を持っている。

 今、お義母さんのいる部屋は、ほんとうなら、遥斗の趣味部屋になるはずだった。遥斗はゲームをするための、大画面のテレビを自分用に持っているが、ここに越してくるまで住んでいた都内のマンションでは、狭くて置き場に困っていた。

「越したら、俺専用の部屋に置いて、思う存分楽しむよ」

 そんなふうに言っていたのだ。

 だが、楽しんだのは、お義母さんが来るまでの二年間だけだった。いまでは大画面のテレビは二階の自分たちの寝室に置かれ、ゲームをしない環奈に遠慮しながらプレイするようになっている。


 ドアの前で立ち止まり、環奈はお義母さんの部屋を見渡した。

 六畳の殺風景な部屋。

 床は焦げ茶色のフローリング。遥斗の趣味で貼られた壁紙は、ベージュ。家具は全部どかしたから、今、あるのは、お義母さんが寝るベッドと小さなサイドテーブル。 

 そしてお義母さんが持ってきた桐の和箪笥。和箪笥は壁に沿って置かれている。

カーテンは掛け替えなかった。遥斗が使っていたときと同じ、茶の格子縞。夏の間少し暑苦しかったが、インテリアなど目に入っていないお義母さんだから、そのままにした。

 目立つのは、エアコンのダクトと、床からすぐのところにある小さな扉だ。扉を開けると、丸い穴が空いている。前の持ち主が開けたもので、猫の出入り口らしい。

家を買ってリフォームしたとき、この穴を塞ごうか迷った。遥斗も環奈も猫好きだ。子どもでも生まれたら、飼いたいと思っていた。だからそのままにしておこう。

 二人で、楽しくそんな将来を話し合った日が思い出される。だが、いまでは、子どもの話など出なくなってしまった。

 介護をしながら子育てなど無理だ。そう環奈が言い張って、それなら、子どもを優先すべきだと、遥斗は言わなかった。

「まだ若いんだしさ。もう少しあとでもいいよね」

 環奈は三十一になる。まだまだ高齢出産の枠には入らないが、ときどき不安になる。もし、お義母さんがこれから二十年先も生きていたなら。いや、十年先だって、環奈は四十になってしまうのに。

 ふうと小さくため息を漏らしてから、環奈はドアノブに手をかけた。先のことは考えたくない。先のことを考えるとき、自分は嫌な女になる。そんな自分が、環奈は嫌いだ。


「ちょっと、環奈さん」

 環奈は振り返った。

「なんですか」

「なんだか、変な音がする」

「変な音?」

 耳を澄ますと、たしかに、カチカチと、微かだが音がする。風で窓が軋む音とも違う、もっと動物的な音とでもいうか。

 お義母さんは窓に顔を向けていた。瞬きを繰り返している。

 カーテンが五センチほど空いている部分があった。その隙間を、お義母さんは見つめている。

 目を凝らした。カチカチはそこから聞こえてくる。

「あ」

 環奈は息をのんだ。

 小人だ。二、三、四、五。もっといる。一人を先頭に、数十人の小人たちが、窓の向こうから部屋を覗き込んでいる。バラバラに見えるが、よく見ると、ちゃんと隊列を組んで扇状に広がっているのがわかる。

「ジョー」

 思わず呟いてしまった。

「なんて言ったの? 環奈さん」

 お義母さんが背後で声を上げる。

「な、なんでもないんです」

 先頭にいるのは、あのジョーだった。カチカチという音は、そのジョーが窓を叩いている音だった。小さな手に、石を持っていた。その石で懸命に窓を叩いている。表情は厳しく、真剣そのものだ。何かを訴えているようにも見える。

 

 どうしてだろう。なぜ、ジョーたちはお義母さんの部屋の窓を叩いているのか。

 その疑問と同時に、小人の数に驚かされた。枯葉の落ちた地面を埋め尽くすような小人の数だ。みんなジョーと同じとんがり帽子に長靴を履いている。手には石や、それが彼らの剣なのか、先の尖った枝を持っている。

 

 こんなにいたんだ。雨の中で見かけた数よりもずっと多い。


 となると、庭に小人たちはどれくらいいるのだろう。五十? 百? まさか。庭のどこにそれほどの数の小人たちが隠れる場所があるというのだ?

 近づいていくと、ジョーが後ろを向いて、小人たちに合図をした。それを機に、小人たちがいっせいに散り始めた。まさに、蜘蛛の子を散らすといった感じだ。

「待って!」

 瞬く間に、小人たちの姿が草の合間に消えていく。小さくて短い足がちょこちょこと動き、転がるように走り去っていく。ジョーも、手を振り上げながら走っていく。こちらには聞こえないが、

「早く隠れろ!」

とでも叫んでいるのかもしれない。

 窓を開けた。途端に風と雨が部屋に入り込んでくる。

「いやあだ、風が!」

 お義母さんの叫び声が上がったが、環奈は窓を開けたまま、小人たちが消えた草の間を見つめていた。



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