幕間

 ひんやりとしたかび臭い空気。薄暗い照明。八王子警察署の独房の廊下を、高辻楓たかつじかえでは歩いていた。

 彼女が目指しているのは、とある男の独房だ。カツカツと靴音を響かせて廊下を進み、やがて彼女の足が止まる。


阿相あそう。ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいだろうか?」


 独房の中にいたのは、服役中の阿相容疑者だ。膝を抱える姿勢で座っていた阿相が、気だるげに顔を上げた。落ちくぼんだ瞳に生気はなく、無精ひげが顎いっぱいに生えている。


「あなたが放火を行ってきた家は、住所の末尾が、すべて三番、もしくは三号だった。これに間違いはないな?」

「……そうだが?」


 意外だな、と言わんばかりに阿相が目を丸くする。


「時の流れを示すため、都心にあるターゲットの家を、時計回りに放火していった。〝次に〟あなたがターゲットにする予定だったのが、我妻教授の家だった。間違いないな?」


『次に』という単語に反応して、阿相の眉がぴくりと動く。


「そうだ。元々、そういう計画の元で行っていたことだからな。だが、俺は教授の家に火を点けてはいない。ましてや殺しなど」


 わかっている、と否定のニュアンスで楓が手を振った。


「火を点けていないのも、殺しをしていないのもな」

「じゃあ、何が言いたいんだ? 俺の証言を信じてくれないアンタの上司に、かけ合ってくれるんじゃないのか?」

「ふふ。まあ、時と場合によってはね。……最後にこれだけ聞かせてくれ。〝三〟という数字にこだわっていたのは、妹への弔いの意味だった。合っているか?」

「……そうだ」

「ありがとう。それを確かめたかっただけなんだ。邪魔をして悪かったね」


 不服そうな顔をしている阿相をそのままに、楓は踵を返す。

 歩きながら彼女は考えた。

 彼の妹は、大学在学中に陰湿ないじめに遭っていた。そのことを学校にうったえてもまともに取り合ってもらえず、いじめはひどくなるばかりだった。そしてついに、妹は自殺してしまう。

 兄である阿相が、同じ大学で講師をしていた我妻教授――ついでに言うと、ハラスメント委員会の委員長だった――を恨んでいたとしてもおかしくはない。火災があったあの日、教授の家からわりと近い場所で、阿相の目撃情報も確かにあった。何を目的として阿相がそこにいたかはわからない。火を点けるつもりだったのかもしれないし、下見をしにいっただけかもしれない。

 だが――それだけなのだ。物的証拠は何もなく、教授の自宅まで阿相が行っていたとも限らない。第一、彼自身がかたくなに事件への関与を否定していた。

 きな臭いんだよな、と楓は思う。

 阿相が三にこだわっていたのは、妹の誕生日が三月三日だからだ。

 一定の法則に基づいて、阿相が放火を行っていたこと。

 それまでの放火は前フリに過ぎず、本命は我妻教授の家であったこと。

 これらふたつの事実を把握していた人間が、もし警察組織の外にもいたとしたら――。

 そこまでを考えて、楓は首を振った。


「疑いたくはないんだよな。柚乃のことを」


 大きなため息をひとつ吐き、彼女は同房をあとにした。


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