第五話【答え合わせを、しようじゃないか(3)】

 それから一週間。俺と浅野は柚乃の周辺情報についてさらに調べた。確からしいひとつの事実を突き止め、今日、万全の準備をして家に戻った。

 帰宅した俺を「おかえり」と柚乃が出迎える。

 夕食の準備はすでに済んでいるようで、味噌汁の匂いと、焼き魚の香ばしい匂いとがリビングのほうから漂ってきた。

 以前貸した、葉子の形見の服を着ている。やはり柚乃によく似合っている。俺から鞄を受け取りながら、「今日はずいぶんと遅かったんだね。先にご飯食べちゃったよ」と柚乃がこてりと首をかしげた。


「浅野と会っていたからね」

「ふうん」と答えるまで、少し間があった。


 リビングのソファに腰かけて、柚乃がテレビの電源を入れる。流れてきたのは、若手芸人による漫才だ。わはは、という観客の笑い声が、場の空気を少しだけゆるめた。


「あいつにはいろいろと感謝しているんだ。葉子が死んだとき、真っ先に駆けつけてくれたのが浅野だったから。辛いことを忘れたい、記憶を消したいんだと俺が弱音を吐いたとき、親身になって相談に乗ってくれたのも。どれだけ感謝をしても、し足りないよ」


 歩いて、リビングに入る。


「記憶消去方を実用化してくれた葉子と浅野に、俺は一生頭が上がらないね。それと、彼女にも」

「彼女?」

「ああ。神崎美優のことだよ。記憶消去方が実用化されるまでの過程で、さまざまな実験データをもたらしてくれた被験者たちのうちの一人。……ある意味今の俺は、葉子と神崎美優と、二人の犠牲があって生かされているようなものだ」

「自殺をした女性、でしたね」

「そうだ」


 俺も柚乃も、薄い笑みを浮かべていた。それなのに、表情とは裏腹の、ぴりぴりとした重苦しい空気が部屋中に満ちていた。


「神崎美優。享年十九」


 テーブルの前に座っていただきます、と手を合わせる。


「生まれは千葉県市原市」


 秋刀魚の塩焼きと野菜の煮物、そして味噌汁という献立だ。普通に旨い。


「幼い頃に両親を亡くしており、それからずっと児童養護施設で暮らしていたらしい。神崎美優が通っていた公立高校は、葉子の母校でもあった。自身の後輩でもあったからこそ、葉子は神崎美優の境遇に深く同情して、いろいろと気にかけていたのかもしれないな」

「優しい人だったのですね」

「そうだな。葉子は優しかった。そういえば、柚乃が着ていた制服も、葉子の母校のものだったんだよな?」

「え? ……ああ、はい。そうでしたね。不思議な縁があるものです。もしかしたら、私も葉子さんの後輩なのかもしれないんですからね」

「そうかもなあ」


 小さく頷いてみせる。

 柚乃はまだニコニコと笑っている。演技か。それともまだ動じていないのか。

 さて。もう、このくらいでいいか。俺は詰め将棋で言うところの最後の一手を放った。


「柚乃。君は、記憶を失ってなどいないよな?」


 張り詰めていた緊張感が、「あはは」という柚乃の笑いで崩れていく。いや、崩したとでもいうべきか。だが、柚乃の瞳に宿ったのは、安堵というより困惑だ。


「そんなわけないじゃないですか」


 平静を装いつつも語尾が震えている。

 こちらから声はかけず、真意をうかがうようにじっと彼女の目を見た。

 息が詰まるような沈黙が数秒続いたのち、柚乃がふう、と息を吐いた。


「……もしかして、私のことを疑っているんですか? ひどいですよ、薫さん。それは」

「そうかもしれないな。ひどいかどうかは、俺の話を最後まで聞いてから判断してくれ」

「……わかりました。そこまで言うからには、納得のいく説明をしてくれるんですよね?」

「もちろんだ」


 柚乃の声が挑戦的なものになった。覚悟が決まったのだろうか。


「今持っている記憶は、火災があった日の夜の、誰かの記憶だけなんだよな」

「そうですね」

「前にも言った通り、それは他人の記憶の癒着である可能性が高い。そこで、浅野に顧客リストを調べてもらっていたんだ。そしたら、君じゃないかと思われる人物が見つかった。その人物の名前は、神崎柚乃かんざきゆの

「かんざきゆの? それが私なんですか?」


 表情はそのままに、しかしはっきりとした動揺が柚乃の瞳を揺らした。俺はそれを見逃さなかった。

 ――これから語っていく内容は、今得られている事実からの推測でしかない。だが、柚乃を揺さぶるため、確定情報であるかのように話を進めていく。それに、高確率で真実なのだろうしさして問題はあるまい。


「おそらくな。神崎柚乃が記憶を消したのは、今から半年ほど前のことだった。記憶の癒着が起きたのは、たぶんそのときだ。相手は、同じタイミングで来店していた人物のうちの誰か」


 対象の記憶を、展開、抽出、管理するためのネットワークは、全世界で共有されている。浅野いわく、記憶の癒着は、対象者がこのネットワークに接続しているときにしか起こらない。つまり、癒着した記憶の元の持ち主は、同じ日に記憶消去方を受けた人物に限定されるわけだ。

 俺が記憶を消したのも、神崎柚乃が記憶を消したのも、いずれも十月の同じ日だった。これがわかった時点で、俺の中にある記憶が神崎柚乃のものである可能性は高まった。


「ということは?」

「柚乃に癒着した記憶の真の持ち主が、同日、浅野のクリニックに来店していたことになる」

「うん。そうなるのかな。じゃあ、これはいったい誰の記憶なんだろう……?」

「さあ、そこまではわからないだろう。同じ日に来店していた人物だけでも、結構な数になるからな」


 記憶消去方を施術する店舗は今や全国規模で展開している。一部では海外にも進出している。対象となる人物は膨大で、誰の記憶か突き止めるのは困難だろう。

 普通であれば。だが、俺は違う。

 俺に癒着した記憶の中に、葉子似の少女が出てくる。あれはおそらく神崎美優なのだろう。だとしたら、この記憶は神崎柚乃のものでほぼ間違いなくなる。追加調査することで、おそらく確定させられる。

 だが、今大事なのはそこじゃない。神崎柚乃が記憶を消したのが、十月だということ。これが推理の肝だった。


「なるほど。だとしても、それはその神崎柚乃さんが私だった、という推測の元での話ですよね? そうだという証拠が何かあるのですか?」

「いや。確たる証拠はない。神崎柚乃の情報なら、浅野の店にある資料を閲覧することですぐわかるだろうが、君の側の情報が不足しているからな。そこで今度は、神崎美優の周辺についてもう少し掘り下げてみることにした」


 柚乃は無言で耳をかたむけている。


「神崎、という姓でピンときたかもしれないが、神崎美優と神崎柚乃は同じ姓だ。この点に着目して、俺と浅野はさらに調査を進めた。すると、神崎美優には双子の妹がいることがわかった。それが神崎柚乃だった」


 しっかりと目を合わせ、語っていく。


「次に俺は、浅野の頼んで神崎美優の顔写真を入手してもらった。そうしたところ、君とよく似ていることがわかった。俄然、君が神崎柚乃である可能性が高まった。他にも、神崎姉妹と君とをつなぐ情報がいくつかあった。名前。千葉の高校の制服。君が俺の所にやってきたのが、神崎美優の命日である十二月二十五日だったこと」

「ただの偶然かもしれませんよ?」

「そうだな。これだけではなんともいえない」


 ここでひとつ間をおいた。


「同時に、この頃から俺は君が嘘をついているんじゃないかと疑い始めた。神崎柚乃が、記憶喪失を装って俺に接近してくるとしたら何が考えられるか? 間接的にとはいえ、神崎美優は葉子によって命を奪われたようなもの。ならば、姉の復讐のために。あるいは、そういった意図を持って俺のところにやってきた、とみるのが自然じゃないのか?」


 合わせていた瞳が泳いだ。


「なぜ、記憶がないフリをしたか。理由はいくつか考えられる。自分の素性を隠したかった。自分の周辺を、俺に自主的に嗅ぎまわってもらいたかった、等々。もし、俺が神崎美優のことで後ろめたい何かを隠していたら、彼女にまつわる情報に行き着いた時点で弱腰になる。ようは、俺が白か黒か推し量るには、記憶喪失にしておいたほうが都合が良かった、ということだな」


 同時に、余計な情報を与えないように、との意図があったのかもしれないが。


「だがそれにしてはおかしい。素性を隠したいのであれば、下の名前だけとはいえ本名を名乗る必要はない。わざわざ、高校時代の制服を着てくる必要はない。まるで自分の正体に気づいてほしいみたいだ。ここが最後までわからなかった」


 自己顕示欲の発露。人がこんなことをするときは、必ずそこに込められているメッセージがある。

 答えは沈黙だった。まったく変わらないその表情からは何も読み取れない。俺は話を続ける。


「なぜ脇が甘いのか? 自分のためではなく、誰かのために動いていた。こう考えると、情報を隠していなかった――むしろ気づいてほしかった――という不可解な行動にも説明がつく。君は、俺にこう伝えたかったんだよ」


 ――神崎美優のことを思い出せ、と。


「だから、姉の命日である十二月二十五日に俺のところにやってきた。着ていたあの制服は、君の物ではなく姉のものだった。違うか?」


 あはは、と柚乃が愉快そうに笑った。


「だから、記憶を失くしてはいないのだろう? ということですか? 面白いストーリーです。ですが、それは全部薫さんの憶測でしかないですよね? ここまでの話の中に、私が記憶喪失ではない、と示す証拠はありません」


 ここまできてまだしらばっくれるか。なら、最後の切り札を打つまでだ。


「証拠ならあるさ」

「へえ。興味がありますね」

「君は記憶のすべてを失っていると言ったが、癒着したと思われる他人の記憶だけは残っている。そうだな?」

「そうだよ。何度も言わせないで」

「そこからしてありえないんだよ」

「どうして?」

「記憶喪失には大まかに言ってふたつの種類がある。発症以前の記憶をすべて失ってしまう逆行性健忘ぎゃっこうせいけんぼうと、発症以降、新しい記憶ができなくなる前向性健忘ぜんこうせいけんぼうだ。また、このふたつが同時に起こることもあるのだそうだ」


 確認するみたいに、「うん」と柚乃が頷いた。


「君の場合、特定の日時から前の記憶がすべてないのだから、逆行性健忘、ということになる」


 凪いでいた。少なくともそう見せていた柚乃の瞳が、石を投じられた水面のようにゆれた。矛盾があることに気づいたらしい。


「これを前提に話を進めていこう。であるならば、俺と出会ったあの日より前の記憶はいっさいないはずなんだ。浅野の店にいつ行ったかどうかはともかくとして、癒着したであろう記憶が残っているはずはないんだよ」


 返事はなかった。瞳はそらされなかった。無言の肯定とも取れた。


「証拠として、DNA型鑑定をする準備を整えてある。君と、神崎美優のDNA型とを比較してみたら、君の身元ははっきりするだろう?」


 ちなみにこれはハッタリだ。神崎美優のDNA型なんて所持してはいない。だが、葉子の勤め先だった研究所を頼れば、入手することは実際可能だった。

 あながち、嘘でもないのだ。


「そうだよ!」


 柚乃は今にもなきだしそうな顔で叫んだ。これまでの冷静さをかなぐり捨てての叫びだった。


「これは姉さんの弔い合戦だったの。だから姉さんの形見である制服を着たし、姉さんの命日である十二月二十五日をわざわざ選んだ」

「では、君の正体は神崎柚乃で間違いないんだな?」


 無言で柚乃が首肯した。この瞬間、彼女の身元が判明した。


「なぜ、俺に接近してきた? なぜ、記憶がないなどと偽った?」

「薫さんの考察でおおむね合っていますよ。嘘をついたのは、薫さんに同情心をあおるため。段階的に、姉さんのことを思い出してもらうため」


 その策は実際有効だった。数ヶ月もの間、こうしてまんまと彼女と一緒に過ごしてしまったのだから。


「接近してきた理由は、姉の死の真相を探るためか?」


 そうですね、と神崎柚乃が頷いた。


「両親がいない私にとって、姉さんの存在が生きる希望のすべてだった。孤児となった私たちに、手を差し伸べてくれる家族や親戚は誰もいなかったから。高校を卒業して施設を退所したあとも、当然ながら私たちは金銭面で不自由していた。そんな折、記憶消去方の被験者を求める広告が目に留まったの。私は反対したんだけれど、それでも姉は志願した。でも、心配していたような危険な実験などは全然なかった。実入りも良かったし、私と姉は、これで生活が楽になるね、と喜んでいたんだよ」


 それなのに、と柚乃がうつむき加減で言う。前髪に隠れて瞳は見えない。


「姉は死んでしまった。だから、間接的にとはいえ姉さんの命を奪った葉子さんのことを私は恨んでいた。彼女の婚約者がどんな男なのかにも興味があった。何を思い、この人たちは姉さんを犠牲にしたのかと、本心を知りたかったの。でも、薫さんがそんなにひどい人じゃないってことは、この数ヶ月でわかった」

「君の気持ちは理解できる。できるが、ならば普通に聞いてくれたら良かっただろう? そしたら、俺は知っていることのすべてを話した。こうやって、謀るみたいなことをしなくても良かっただろう?」


 本当は少しわかっていた。彼女が、俺のことを無条件に信じられなかった気持ちは。俺が、我妻教授に複雑な感情を抱くのと同じだろうから。だからこうしてスパイのような真似をした。

 それがわかっていても、胸中に巣くってしまったほの暗い感情を、処理する術が今はなかった。

 耳が痛くなるくらいの沈黙が、部屋の中に落ちた。


「出ていってくれ」


 ぽろりと、そんな言葉が口からもれた。

 柚乃がきつく唇を結んだ。貴重品の入った鞄と財布だけを持ち、まっすぐ部屋を出ていった。振り返ることもなく。これが今生の別れになるのだと、そんな気がした。バタン、と扉の閉まる音が響いて、チャリン、と合鍵がポストに投げ込まれる音がした。

 無人になった部屋を見渡す。葉子がいたときのこと、葉子がいなくなったあとの喪失感を、少なからず柚乃が埋めてくれていたことを順番に思い出し、寂寥感に浸る。そんな自分が心底嫌だった。

 こうして柚乃はいなくなった。

 本格的な春の訪れが近い、三月半ばのことだった。


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