第一話【消した記憶。消えない痛み(1)】

 心中で、美しく煌めいている記憶と痛みをもたらす記憶。どちらがより長く心の中に居座り続けるかと問われるなら後者なのだと、今さらのように俺は思い知っていた。

 彼女の声。語り掛けてくるときの仕草。そのどれもが陽だまりみたいに温かい記憶だ。しかし、夢の最後にスッと過るあの日の光景――鮮血に塗れた葉子の姿――が、すべての温もりを消し去ったところで必ず目が覚める。


「…………っ」


 今日もまた嫌な夢を見たなと、小さく息を吐いてから布団を抜け出した。

 何度も同じ夢を見た。少しずつ心がすり切れていった。これ以上は耐えられない、と感じた今年の秋、心中でしこりになっていた、もっとも苦い記憶を。この記憶を抱え続けたら、心が壊れてしまうと思ったから。

 だが、何度も夢に見ていることからもわかる通り、葉子が死んだ日の記憶は消していない。この記憶を消してしまえば、葉子が生きていた証すらもなくなってしまいそうだったから。

『人の記憶というのものは、本来少しずつ失われていくのだといいます。しかし、喜怒哀楽がともなった記憶ほど、強く心に残るものです。楽しい記憶なら、ぜひ大切にしてあげてください。けれど、悲しい記憶ならどうでしょうか? 悲しいあの日の記憶を、消したいと願ったことはありませんか?』

 朝は、コーヒーを飲むのが俺のルーチンだった。

 コーヒーの香りが漂っているリビングで、そんなキャッチコピーがテレビから流れてきた。

『記憶消去方』が施行され、正式サービスが始まったのは昨年の夏だ。

 脳神経細胞からの信号を電子情報として変換し、ネットワーク上に展開する。そこから『対象』が望んだ記憶だけをピックアップして消去するのがこの技術の要だ。消すことができるのは、特定の期間の記憶か、特定の事柄にまつわる記憶。――たとえば、トラウマを与えられた嫌な人物のことだけを忘れるとかそういう感じだ。

 人の記憶を弄ぶものだと、当初反対意見が強く上がる。しかし、年々増加し続ける自殺率を食い止めるための代替案はなく、最後の一手としてこの技術に白羽の矢が立った。

 歯止めの利かない人口減少。少子高齢化問題。高くなるばかりの医療費。増加の一途をたどる失業率等々。解決すべき問題は山積で、反対意見を封殺するのは容易かった。実際、サービス開始後、ゆるやかに自殺率は減少しているのだという。考証は、まだまだこれから、なのだろうが。

 費用は十万円。決して安くはない。

『記憶消去保護法』で制定された規約により、消した記憶の内容はデータベース上でしっかりと管理、保管される。特別な事情がない限り、消した本人にすら開示されない。第三者が、記憶を個人的な理由で閲覧したり分析したりするのも禁じられている。

 そんなわけで、俺ですら消した記憶の詳細を知らない。葉子が自殺した日の記憶ではないのだから、より辛い何かがあったのだろう。が、こうしてたびたび悪夢を見ると、この記憶も消してしまうべきなのだろうか、と悩んでしまう。

 なんてな。消したところで根本的な解決にはならない。

 何をどうしたところで、葉子は帰ってこないのだから。


 コートを羽織って外に出る。歩きながら視線を巡らせると、街全体が煌びやかな電飾に包まれていた。

 見上げた空は漆黒だ。澄み渡った冬の空は、大都会東京とは思えないほど深みのある黒に染まっている。そのわりに星はほとんど見えない。空気が澱んでいるせいもあるが、とかく余計な光源が多いのだ。連なる街灯の灯に、二十四時間営業のファーストフード店にコンビニ。歓楽街のネオンは、この季節になるとさらに増える。

 実家がある田舎とはまったく違うな、と思いながらコートの前をかき合わせた。

 葉子と過ごした日々を追思ついしする。煌びやかなネオンが星の瞬きを阻害するみたいに、温かい記憶が俺の心の痛みも和らげてくれたらいいのに。

 葉子がこの世を去ってから間もなく半年。季節はすっかりクリスマスシーズンだ。


 あの日葉子は、自宅マンションの下に倒れているところを、同じマンションの住人に発見された。その時点で心肺停止の状態であり、ただちに病院に緊急搬送されたが、やはり助からなかった。

 葉子が倒れていた場所は、俺たちの部屋である五一〇号室のちょうど真下。屋上のフェンスは、人が乗り越えるには困難な高さがあり、また、管理規約上立ち入り禁止となっていて施錠がされていた。

 五一〇号室の鍵はかかっていた。部屋の内部は無人で、リビングの窓は空いていた。内部に誰か侵入していたんじゃないか、との線でも捜査されたが、家人以外の誰かがいた痕跡も指紋も見つからなかった。以上の事柄を持って、自殺だろう、との結論で捜査は終了する。

 あの日、明るい声で電話をしてきた葉子が自殺をするなんて、とにわかには信じられない。しかし、葉子に自殺をするだけの理由があったのも、また事実なのだ。

 葉子の死因が自殺であると、いまだに納得できていない。

 だが、どんなに騒いだところで、結果は覆らないのだ。


 システムエンジニアという仕事は、プロジェクトの開始時期と終了時期がもっとも忙しい。開始時期は大量のインプット作業が発生するし、終了時にはプロジェクトのブラッシュアップが必要となるからだ。

 プログラム言語を用いて、各種アプリケーションを作成していく仕事は、正直自分に向いていた。孤独な仕事であり、集中力を要する仕事でもあったが、そのぶん自分の中でスケジュールを立てやすかった。頑張っただけ成果が得られ、サボるとその弊害が、自分にだけ跳ね返ってきた。

 結局、自分の頑張りがすべてなのだ。努力は裏切らない、という言葉を理解するには最適だ。

 深夜にまで及んだ残業を三日連続でこなし、直近のプロジェクトをようやくひとつ完遂したのが昨日のこと。

 その翌日である今日、夕方まで寝過ごしてしまったのはきっとしょうがないことだ。

 ――休日を無駄にした、という無念さは多少あるが。

 行くあてもなくふらふらと近所を徘徊する。駅前のファミレスで夕食を済ませた。このまま深夜まで飲み明かそうかと、飲み屋街に向かいかけて足が止まった。このまま帰るのはもったいないが、何がもったいないのかもよくわからない。

 金を浪費せずに済んだ。

 そうポジティブに考えて、家路についた。

 十分ほどぼんやりと歩き、自宅マンションに至る曲がり角に到達した。あの日、この角を曲がったとき――。そんな嫌な記憶がフラッシュバックして、頭を左右に振った。

 忘れろ。辛い記憶など忘れたはずだろ? そう自分に言い聞かせて前を見ると、マンションの入口付近に佇んでいる女の背中が見えた。染めているような茶髪でややくせ毛のショートカット。マフラーを巻いていて、ゆったりとしたサイズの白いセーターを着ている。二十歳前後に見えるが、セーターの下から覗いているのはチェック柄のプリーツスカートだ。もしかして、女子高生なのか……?

 マンションの中に入らないのだろうか。そもそも、こんな子住人の中にいたっけかな?

 疑問符を頭の上に浮かべて脇を抜けようとしたとき、その少女が言った。「仁平薫さんですよね?」と。


「は?」


 なぜこいつは俺の名前を知っている? 親戚、あるいは知り合いにこんな子いたっけか? 記憶の引き出しを片っ端から開けてみるが、合致する情報は見つからない。というか、ほんとにこの子誰なの?


「なあ。どうして俺の名前を知っている?」


 そう問うと、少女の顔がパッと輝いた。

 そのとき、胸の奥で閃光みたいにひとつの感情が瞬いた。

 名を付けるとしたら、郷愁。

 なんだこれは? と思うがその感情は無理やり押し込めた。


「やったー! ようやく当たりです! 私のこと、覚えていませんか?」


 ワタシノコト、オボエテイマセンカ? 何やら文脈がおかしくないか? それは新手のギャグか何かか?


「いや、知らない。知るわけがない。君とは初対面なのだし。というか俺の質問に答えろよ」

「そうですかあ、残念です。うーむ……。では、私って何歳くらいに見えますか?」

「???」


 何歳くらいに見えます? いや、知らねえよ。服装を見る限り、おおかた十七か十八ってところだろうが。


「十八歳くらいか?」

「そっかー。私十八歳くらいなんだ」

「???」


 疑問符が並びすぎてボーリングができそうだ。じゃなくて。


「大人をからかうのも大概にしろ。ところで、君の名前は?」

「名前ですか。そうですねえ」


 小首を傾げて少女が視線をさまよわせる。

 そうですねえ? 名前って、そういう前置きをしたあとで語るもんだっけ?


柚乃ゆのとか?」

「とか?」


 ようやく定まった彼女の視線は真横に向いていて、つられて目をやるとそこには居酒屋があって、『スナック柚乃』の看板が見えた。


「お前、俺をバカにしているだろ?」

「まさか! バカになんてしていませんよ。私の名前、たぶん柚乃です。なんとなくそんな気がします」


 さっきから続いている煙に巻くような物言いにぴんとくる。こいつはきっと家出少女なんだろう、と。家に帰りたくないから身分は明かせない。でも、お金には困っているからこうして大人にたかる。あるいはパパ活という奴かもしれないが。待って。俺ってそんなに老けている? 中肉中背で、取り立ててハンサムではないが、まめに散髪しているしワイシャツだってアイロンが効いている。年相応には見えるよね。


「ねえ、おじさん」

「お、おじさん……?」


 追撃の言葉が胸に突き刺さる。「ああ、ごめんなさい」と少女が茶目っけたっぷりに笑う。


「仁平さん、でしたね。仁平さんが良かったらなのですが、今日一晩だけ家に泊めてくれないかな?」


 ほらな、案の定だ。残念ながら、未成年を抱くほど俺は女に困っちゃいない。ここ最近女を抱いていないのは事実だが。


「あのなあ。知らない男の部屋に、ほいほいと上がり込むもんじゃない」


「別にいいじゃない」と言いかけた少女の声を遮って、一万円札を渡した。このままでは、抱かせてあげるから、などと言い出しかねない。


「これやるから、今日のところはひとまず帰れ。親御さんが心配しているぞ。どうしても帰りづらいなら、ネカフェかどこかに泊まって、そこで一晩頭を冷やせ。じゃあな」

「ねえ、ちょっと――」


 頬を膨らませて前のめりになった少女に無理やり金を握らせて、俺は踵を返した。これ以上、面倒な手合いに構っている暇などない。

 マンションに入って自動ドアが閉じたタイミングで一度振り向くと、少女が寂しげな顔でこっちを見ていた。

 ダメだ。変な情を抱くなと頬を叩いてエレベーターのほうに向かう。――しまった。なぜあの子が俺の名前を知っていたのか聞くのを忘れた。まあいいか。それよりも――。

 どうして、あの少女に葉子の面影を一瞬感じたのだろう?

 葉子は黒髪のロング。あの少女は茶髪のショート。髪型だけじゃない、顔だってよく見たら細部は全然違うのに、不思議と葉子の面影が重なって見えたんだ。

 どういうことなんだ? いつまでも葉子の死をふっ切れずにいるから、無意識のうちに似ている箇所を探してしまったのか?

 よくわからない引っかかりだけが、心の片隅に残った。


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