第一話【消した記憶。消えない痛み(2)】
白い息が、夜の闇に溶けていく。
週が明け、明日から年末休暇だという今日、新たなプロジェクトが発足してそこに配属された。やりがいのある仕事なのは結構だが、なにも年末に、という不満もある。まあ、言ってもどうにもならないが。不景気なこのご時世、仕事があるだけ贅沢は言えない。
せっかく明日から長期休暇なんだ。嫌な現実はアルコールの力で忘れよう。そう考えてコンビニでビールを買って帰宅する。
鼻歌交じりでマンションに至る角を曲がって、そこではたと足が止まった。
見覚えのあるチェック柄のスカートが見えた。いつぞやの女子高生が、マンションの前に立っていたのだ。
「お前」と口にしてから、彼女がここで待っていた理由に思い至って発言を差し替えた。
「もしかして、お金を返しにきてくれたのか?」
ゆっくりと少女が振り向いた。俺を見て瞳が輝いて、それからちょっと気まずそうな顔になる。
「いえ、そういうわけではないんです。あっ、違いますよ」
少女がわたわたと手を振った。
「返したいのはやまやまなんですが、返せない、というか、返せなくなったというか――」
歯切れの悪くなった物言いにピンとくる。
「全部、使ったのね?」
「お腹が空いていたので、つい、と言いますか」
「使ったのね?」
そう問うと、図星、という顔になって、小動物みたいに首を縦にゆらした。
「はい。すみません……」
「いや、別にいいんだよ。元々あげるつもりでいたし、お金に困っているわけじゃないし」
待てよ。返すアテもないのにここにきたということは、つまり?
「君さ。ひょっとして泊まるアテがいっさいない?」
相変わらずお金がないようだし、この間と同じ制服を着ているし、服にしてもどこかヨレヨレの上所々が薄汚れている。女の子に対して抱く感想としては失礼だが、衛生面で少々難ありだ。
一度瞳を伏せたあとで、申し訳なさげに彼女が頷いた。
「……はい。恥ずかしながら、仰る通りです」
「親は?」
「いません。というか、家族、誰もいない?」
「いや、いないって、どういうことだよ。家出してきたわけじゃないのかよ?」
「家出、ですか。そういう可能性もあるのかな?」
「???」
また会話が成立しない。この子は本当に何を言っているのか。
そのような俺の疑問は、次に続いた彼女の一言で払拭された。
「私、どうやら記憶がないみたいなんですよね。覚えているのは、仁平さんの名前だけなんです」
「???」
そんなことってあるのかよ。どういった理屈でそうなるんだよ。
精神医学の話は門外漢なのでさっぱりわからない。この少女が嘘をついている可能性だってあった。
しかし、彼女が言っていることが本当だとしたら、警察に補導されるか……いや、それならまだいい。悪い男に目をつけられて乱暴されるとか、最悪、野垂れ死にでもしたらと思うと良心が咎めた。
「じゃあ、うちにくる? 丁度部屋がひとつ余っているんだ」と気づけば口走っていた。
情にほだされたわけではない。
ため息をひとつ吐き、自分にそう言い聞かせる。
許してくれよ、葉子。決して他意はないんだ。そう、決して。
*
「というわけで、女の子を一人拉致してきたと?」
俺の自宅のリビングで、にやけ顔でこちらを見ているのは友人である
浅野もこのマンションの住人だ。
仕事帰りなので、スーツ姿にネクタイだ。短く刈りそろえた清潔感のある頭髪は、彼がサービス業に従事している事実を物語る。
「拉致じゃない。人聞きの悪い言い方をするな」
「人聞きが悪いも何も、合っているだろう?」
「合ってなどいない! 俺は、身寄りのない女の子を保護しただけだ。あくまでも、同意の上で。あくまでも一時的にな」
「一時的に……ねえ?」
半笑いで首をひねった浅野の前に、肉じゃがの入った器がドン、と置かれた。醤油がしっかり染み込んで、きつね色に染まった肉じゃがは見るからに旨そうだ。「おお」と歓声を上げた浅野を見下ろして、上下スウェット姿の少女がふふん、とドヤ顔をきめる。
いただきまーす、とさっそく浅野が肉じゃがを頬張って、とたんに顔がとろけた。
「煮汁が染み込んでいて、柔らかくて美味しい~」
「ふふふ。そうでしょう? 肉じゃがを美味しく作るコツは、具材の切り方と材料の量にあった鍋を選ぶことなんですよ!」
「へえ、めっちゃ詳しいんだね? お前にゃもったいない子だよ」
「ああ。こいつ、結構料理がうまいんだよ」
本当に、意外なことにな。
「ええ。料理うまいんですよ」
「自分で言ったら台無しだな」
それにしても、なぜ彼女はこの若さでこんなスキルを身につけているのか――と改めて思う。もっとも、実年齢はわからないのだが。
ジャガイモを突いていた浅野が、眉根を寄せて柚乃の顔を覗き込んだ。
「なあ……僕の気のせいかもしれないが、この子、どことなく葉子ちゃんと似ていないか?」
「葉子さん?」と
「いや……他人の空似かな……」と一転浅野は首をひねった。
「その話はやめてくれ」と言うと、「すまん」と浅野が恐縮してみせた。
葉子のことは、彼も心得ているのだから。
俺がこの少女――柚乃を保護した理由のひとつが、葉子とどこか似ている容姿だ。もちろん、よく見たら細部は違う。それなのに、目元なのかそれとも口元か、そこはかとなく葉子の面影があるのだ。葉子には姉妹も歳が近い親戚もいないので、浅野が言うように他人の空似なのだろうが。
あの日から、葉子の部屋と、着るものとして葉子が着ていたスウェットなどを数着貸している。
「ある日突然、記憶のすべてを失ってしまう、なんてことはありうるか?」
浅野に聞きたかった本題がこれだ。頬張っていたじゃがいもをごくりと飲み込んでから、「ある」と浅野が簡潔に答えた。
柚乃は、すべての記憶を失っているのだ。
「私、記憶がないんですよね」と彼女に告げられたあの日、憐憫かそれとも庇護欲か。自分でもよくわからない感情が心の奥底からわいて、「じゃあ、うちにくるか?」と衝動的に口にした。
泊めてくれとは言ったものの、よもや本当に了承されるとは思っていなかったのだろう。驚きで柚乃が瞠目した。その表情が、またどこか葉子を連想させた。
記憶喪失に至る要因はふたつある、と浅野が説明を加えていく。
頭部に強い外的衝撃が加えられることによる外因性と、心的な衝撃に脳が防衛本能として現実逃避を図る心因性と。
症状によって喪失する記憶の量は異なっていて、限られた期間の記憶を失うケースから、文字通りすべてを忘れ「私は誰? ここはどこ?」となってしまうケースまで、さまざまあるのだと。
「記憶を失った理由について、何か心当たりはないの?」と浅野が訊ねると、「うーん」と柚乃が思案した。
「気がついたときは、街中にぽつんと一人で立っている状況でしたからね。手荷物は何もないし、それどころかスマホも財布もない。どうしたらいいんだろう、と途方に暮れたものです」
「スマホがスマートフォンの略称であること、は知っているんだ?」
「もちろんです。スマホだけじゃないですよ。日本語の読み書きだってできますし、このように肉じゃがだって作れます。他にもできる料理がいくつかあります」
へへん、と柚乃が得意げに鼻の下をこする。
「それなのに、自分が何者なのか、これまでどこでどうやって生きてきたのか、まったくわからないのだと?」
「はい……」
「まあ、料理とか日本語の読み書きができるのは、手続き記憶のほうだからな」
「手続き記憶?」
「そう」
記憶には、頭で覚える陳述的記憶と、体で覚える手続き記憶のふたつがある、と浅野が言う。手続き記憶は、何度も見たり、繰り返し経験することによって記憶が強固になるのだとか。
「自転車の乗り方は忘れないだろ? あれとだいたい同じだよ。つまり柚乃ちゃんは、これまで何度も肉じゃがを作ったことがあるってこと。大方、家族の中に肉じゃがが得意料理の人がいたんだろうさ」
「家族かあ。そんなのいるのかな」
この柚乃という名前にしても、本名なのかはわからない。彼女が唯一記憶していたのが、自分の名前らしき『柚乃』という単語と、俺の顔と名前なのだ。
この点もよくわからない。なぜ俺なのか。どこに俺との接点があるのか。
「じゃあどうして、記憶を失ったか、なんだけど」
浅野がうーん、と思案する。
「見た感じ、怪我とか事故とかが原因ってわけでもなさそうだしなあ。そうなると、心的要因で記憶が失われたと考えるのが普通なんだけど……それこそ、情報がないんだからお手上げだな」
浅野が匙を投げるゼスチャーをした。
彼、浅野貴の職業は、『記憶技工士』だ。一年半前から正式サービスが始まった、『記憶消去方』を施術できる技術者のことをそう呼ぶ。浅野との付き合いは高校時代からと案外古く、俺が記憶の消去を行ったのも、彼が支店長をしている店でだった。
「ん? ちょっと待てよ。そもそも柚乃ちゃんは今までどうやって生活をしてきたの? だって無一文だったんでしょ?」
「このマンションの近くの景観と、俺の名前だけは覚えていたらしいんだ。それを頼りにしてここまでやってきて、偶然俺と出会った。つまり、記憶を失くしてから、まだ何日も経っていないことになる」
その質問には代わりに俺が答えた。
「んんん? そりゃまたどういうことだ? じゃあ、薫の知り合いなんじゃないのか?」
「いや、それはない。俺はこいつのことなんざまったく知らないからな。もちろん親戚にだって該当する人物はいない」
「私も、薫さんの顔と名前以外は何も知らないんです」
浅野が狐につままれたような顔になる。深く首をかしげた。
「じゃあ、元々この近くに住んでいたとか?」
「それも考えたんだけど、どうも、そういうわけでもないっぽい」
近隣の住宅街で情報収集をしてみたが、柚乃につながる情報はいっさいなかった。
ふうん、と言ったきり、浅野が口を噤んだ。
「なんだか不思議な話だな。よくわからない。わからないがこれだけはわかった。薫は実質的に命の恩人なのだから、こうして柚乃ちゃんは懐くことになったんだと」
「なついてません!(ないぞ!)」俺と柚乃の声が重なってリビングに響いた。
やれやれ、と浅野が嘆息する。ビールを飲み干してから俺に耳打ちをした。
「葉子ちゃんに似ているからって、情にほだされるんじゃないぞ。……あまりこういうことは言いたくないが、この子が嘘をついている可能性だってある」
「ああ、わかっている。詐欺師じゃないか? という警戒は一応している。近いうちに、身元不明人として警察にも届け出るさ」
「そうか。ならいいんだが」
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます