第56話 果物茶
「エリオス様……?」
「アシュリー様、殿下が申し訳ございませんでした。殿下は本当に貴女様を心配されておりましたので、少々の時間であれば目を瞑ったのですが……流石にこれ以上は支障が出るでしょうから、私が仲裁させていただきます」
「あ……ありがとうございました」
流石にサイラスを無碍にするわけにもいかなかったアシュリーは、ほっと胸を撫で下ろす。だが、そこでハッと気づいた。
「エリオス様はいつから此処にいらっしゃったのでしょうか?」
「少々エディーと話をしてからこちらに来ましたので、紅茶が口に合わない、辺りからですね」
ほぼ最初から見られていた事を知り恥ずかしさから頬を染めたアシュリーを、妹のように微笑ましく見ているエリオス。そんな二人に割って入ってくるのはサイラスだった。彼は良いところを邪魔されたからか、エリオスを睨みつけて言った。
「エリオス……もう少しあのままで居たかったのだが?」
「貴方様の『もう少し』は後一時間ほど掛かるでしょう……。私はそんなに待てませんし、何かあれば止めろと言ったのは殿下ですが」
「だがアシュリーが甘えてくれたのに……」
「ですから、少し大目に見たではありませんか。殿下に言われたので止めました。私の仕事は以上です。そもそも私に当たる前に、殿下は言うべき事を言って下さい」
「……うっ……そうだな」
耳が痛い事を言われたサイラスは、頭を掻いている。二人の姿をぼーっと見ながら、アシュリーは頬や手に残る彼の温もりが少しずつ消えていく事へ寂しさを感じていた。
エリオスは言う事を言って満足したのか、「では、私も仕事がありますので」とアシュリーに頭を下げた後颯爽と去っていく。エリオスと彼の背を見送るサイラスを視界に収めながら、アシュリーは感謝の意を込めて頭を下げた。
彼が去った後、改めてアシュリーはサイラスにエスコートされて着席した。彼の表情は普段のように揶揄ってやろう、という表情ではなく、微笑みながらも少々口角が引き攣っている……ように彼女には見えた。
アシュリーが座り、サイラスも向かいに座れば静かにルーシーが現れ、冷めた紅茶を入れ替えるために一度カップを下げた。その時、サイラスが彼女に声をかける。
「手間をかけて済まないが、私の紅茶はオレンジの果物茶にしてもらえないだろうか?」
「承知致しました。少々お待ち下さいませ」
オレンジと聞いてアシュリーの肩が跳ねる。慌てて何事もなかったように微笑んだが、幸い誰にも見られてていないようだ。その間にルーシーはカップをワゴンに乗せた後、一礼してその場を去っていく。
彼女が離れた後、アシュリーは声の震えを抑えながらサイラスに声をかけた。
「葡萄は好みではありませんでしたか?」
「いや、美味しかったな。私は好きだ」
「では、どうして紅茶をお変えに?」
そう尋ねれば、サイラスはアシュリーに視線を合わせて告げた。
「アシュリーは柑橘系の果物が好きなんだろう? 昔からお菓子にオレンジピールが入っていると喜んでいた」
アシュリーは彼の目力に少し狼狽する。そして彼の言葉が何故紅茶を変えた出来事に繋がるのかが理解できなかったので首を傾げた。
確かにアシュリーは果物の中で言えば、柑橘系の果物が一番好きだ。だから屋敷には他の味の紅茶に比べて、オレンジを使用した果物茶が多く置いてあるのだが――。
「エディーから聞いた。オレンジを使用した果物茶を最近避けている、と。そしてエディーはこれも言っていた。『アレクサンドルと会っていたあの時の紅茶もオレンジだった』と」
アレクサンドルの名前が出てきた事でアシュリーの肩が少しだけ震える。
面会で彼への思いを断ち切ったとは言え、アレクサンドルから受けた仕打ちは彼女の心の傷として未だに残っており、癒されるにはまだまだ時間が掛かるだろう。
あれを飲んでいると、公爵家の出来事が悪夢のように思い出されるのだ。
彼女は心の傷へ触れまいとして、無意識のうちに大好きであった紅茶を封印している。その事に本人は気がついていない。
二人が無言の中、戻ってきたルーシーがティーカップへとオレンジの果物茶を注ぐ音があたりに響く。オレンジの香りがアシュリーの元まで届き、その香りに胸がズキっと傷んだ気がした。そして彼の物が終わり、アシュリーには葡萄の紅茶を注いでいく。
喉が渇き、ルーシーが入れた紅茶を少し口に含む。喉は潤す事ができたが、動揺は消えることはない。小刻みに震える手で持っていたティーカップをソーサーに置き、上手く微笑む事ができているかは分からないが、彼女は気丈に振る舞った。
「そうですね。あの方も『オレンジが好きだ』と仰っていました」
声が震えていないか、笑顔が引き攣っていないか、アシュリーには分からない。とにかく動揺を隠し続けるように、彼女は喋ろうと口を開こうとした――その前に、オレンジの紅茶に口を付けたサイラスが「ほう」と一息ついてから話し出した。
「これはなかなか美味しいな。今まで飲んだ紅茶の中で一番だ。喉越しがさっぱりしていて、しつこい甘さもない。菓子と共に食べるのなら、葡萄よりオレンジの方が好みだ」
「……」
「アシュリー、こんな美味しい紅茶を飲めないのは人生を損しているぞ……落ち着いたらで良い。これからは俺と一緒に飲もう」
アシュリーへと優しく微笑みながらサイラスに言われた彼女は目を見開いた。オレンジの紅茶を飲むサイラスを見て、アレクサンドルの笑顔がサイラスの微笑みに塗り替えられたような、そんな気がした。
そこでハッと彼女は気がついたのだ。密命で婚約し、いつか婚約白紙になる可能性の高い
今まで忙しさで隠していた傷は全く治っていなかった、むしろ見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
そんな彼女にサイラスは彼なりに寄り添おうとしてくれているのだろう。サイラスの不器用な優しさが心に染み、アシュリーの心の傷が少しずつ癒されているように思えるのは、きっと気のせいではないだろうと彼女は思った。
「ありがとうございます、サイラス様」
そう言って彼に向けた微笑みは、先程の笑みとは違い自然に笑えているような気がした。
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