第47話 危機

 ふと誰かの声が耳に入り、重たい瞼を開ける。

 ぼんやりと見えるのは、真っ白い服を着た恰幅の良い男性だ。少しずつ意識が戻ったアシュリーは、薄く開いた目と耳で様子を把握するよう努めた。



「疲労からくる体調不良でしょう」

「そうでしたか。いきなり倒れたので驚きましたが――」

 


 なるほど、ぼんやりと見えた白い服は白衣で彼は医者だった。

 ちらっと窓の外を一瞥すれば、太陽の位置は先程と変わりはない。意識を失っていたのもきっと数十分の出来事だったようだ。服に関しては背中のボタンは外されているが、ドレスの状態で寝かされている。


 身体を起こそうとするが、それより前にふと兄の言葉を思い出す。「万が一の時に」と言われて渡されていたもの。

 医師の背中が盾となり、アレクサンドルにこちらの様子が見えていない事を確認したあと、窓側へ身体を向けて、兄からもらって首にかけておいた香水瓶の中身を気付かれないよう呷った。そうっと戻れば医師もこちらが動いた事に気づいていないようだ。

 

 後はこれが効くまで時間を稼ぎたいのだが……。

 そう考えたアシュリーに、医師の言葉が耳へと入ってきた。

 

 

「念の為、栄養剤を飲ませておきましょう……そうですね、水はありますか?」



 わざとモゾモゾと布と布が擦れ合う音をさせてみる。アシュリーの耳には入ってくるが、医師はアレクサンドルと話しているからか、こちらには気が付かない。

 それならば、とアシュリーが医師に声をかけようとした瞬間、それより早くアレクサンドルが医師に言葉を投げかけてしまった。


 

「先生、起きたら僕が飲ませておきます。先生は次の患者の元へ行かれたらいかがですか?」

「宜しいのでしょうか?」

「ええ、私の婚約者ですから」

「では、薬ですが――」



 医師は座っていた椅子から立ち上がり、アレクサンドルの元へ向かう。そして彼に薬の使用法を伝えた後、四角い鞄を持ってアレクサンドルに挨拶をして部屋を出ていった。


 去っていく足音が聞こえなくなる頃、アレクサンドルは医師が座っていた椅子にぼすん、と音を立てて座る。そして目の開いているアシュリーに向かって、爽やかとは呼べない悪魔のような微笑みを返した。



「ああ、起きていたんだね。もう少し寝ていると思っていたが……薬の摂取量が少なかったのかな」


 

 なんて事ないように言い放つアレクサンドルに、アシュリーは周囲に視線を送る。

 部屋の中にはアレクサンドルと執事が一人。その執事も扉の前で一言も喋る事をせずに黙っている。そう言えばアレクサンドルの所業は屋敷の中でも、彼の手の内にいる二人ほどしか知られていない、と以前聞いた事がある。その一人が彼なのだろう。

 香水瓶に入っていたのは解毒剤だったのか、ガゼボにいた時よりも頭が軽い。そして身体もある程度動かせそうだ。そう思ったアシュリーは、考えを巡らせる。


 アシュリーを手にいれる、と言うことはつまりアレクサンドルに嫁がなければいけない状況を作る、ということだ。つまり――。

 先の事を考えて眉を顰めるのと同時に、思わずゴホッと咳が出た。

 


「ああ、君の可愛い声が聞けないのは何とも残念だから……水と栄養剤は飲もうか。取ってくるまで大人しく待っててもらえるかい? じゃあ――」



 振り向いて扉にいた執事に声をかけようとアレクサンドルが振り向くと、扉からノックの音がする。その音に彼が気取られているうちに、アシュリーは素早く身体を横向きにした。まだだ、まだ身体が動ける事を悟られてはいけない。少しずつ体勢を整えていたアシュリーに彼らは気づく事なく、慌てて入ってきた侍女が、執事アレクサンドルに声をかけた。


 

「アレクサンドル様、先程第二王子殿下と側近の皆様がいらっしゃいまして……」



 その言葉にアレクサンドルの眉間に皺がよる。


 

「要件は?」

「確認したいことがあると仰っていましたが……」

「ああ、もしかしてワインの件だろうか?」



 思わず笑みをこぼすアレクサンドル。アシュリーもルイサも手に入れた未来が見えているのか、彼の笑みはどこか不気味だ。先に彼らの元へ行ってくれれば、と願うアシュリーであるが、そうは問屋が卸さない。

 

 

「でしたら、私が相手を致します」

「少しでいい、時間を稼いでくれ」

「承知致しました。音にはお気をつけて下さいませ」

「分かっている」

 

 

 そう言うと執事はアレクサンドルに礼を執った後、足早にその場から去っていく。侍女はその間にアシュリーが寝ているベッドの横に置いてある、サイドテーブルへ水差しを置くと、そのまますぐに立ち去った。


 扉がぱたん、と小さな音を立てて閉まる頃。

 この部屋にいるのは、アレクサンドルと……アシュリーだけになった。アレクサンドルは閉まる扉を最後まで見つめた後、アシュリーの方へ向いた。その時アシュリーは彼が扉の鍵を閉めていない事を確認する。


 そして改めてアレクサンドルへと顔を向ければ、気が狂ったような笑みと瞳にアシュリーは少々怖気付きそうになった。


 

「君と僕との逢瀬を邪魔したい奴がいるらしいから、素早く終わらせるよ。痛くしないよう薬も持っているから、僕に身を委ねてもらえればいいからね。そうすれば、君は僕のモノだ」



 見せつけられた彼の手の中には、手のひらほどの大きさの瓶が握られている。ゆらりゆらりと近づいてくるアレクサンドルを、アシュリーは睨みつける。まだだ、まだ、もう少し引きつけろ。そう心の中でアシュリーが唱えながら。

 視線が鋭い彼女の様子に、アレクサンドルは鼻で笑った。



「そんなに睨みつけて最後の抵抗かい?可愛いね。君はもう少し利口かと思っていたんだが……僕が躾けないといけないようだね」



 そう言ってアレクサンドルが布団に手を伸ばしたその時。


 ――今だっ。


 アシュリーは上半身を持ち上げ素早く水差を手に取り、目の前の男の顔へと思いっきりかけたのだった。


 


「なんっ! 痛っ……」



 思いっ切り顔に水が掛かり、困惑の声を上げているアレクサンドルの横をアシュリーは、力が抜けそうになる身体を叱責しながら、扉へと足を動かしていた。幸い靴は脱がされていたため裸足だ。ヒールだと今の身体では歩けないが、裸足ならなんとかなるはず。

 

 アシュリーはドアノブに手を伸ばし、開けながらアレクサンドルを一瞥する。彼は顔にかかった水を拭っているのか、腕で顔を拭っている。そして扉を開くのと彼が声を上げるのは同時だった。



「アシュリー、君には躾が必要なようだ。おいっ、誰かいるか?! あの女を捕まえろっ!」



 いまだに片眼が痛いのか、手で左目を押さえているアレクサンドルは怒髪天を衝くほどの怒りようだ。

 目は充血し、先程までの余裕はないのか、声を荒げている。



 それを見てすぐにアシュリーは走り出した。絶対に捕まるわけには行かない、と。


 扉を出て右手に走り出した彼女は、以前父に見せてもらった地図を頭に浮かべる。

 左手に見えてきた通路を抜けた先には、中庭が広がっていた。どうやらここは先程茶会をした裏庭にあるガゼボに一番近い部屋だったらしい。予想が合っていて良かったと、胸を撫で下ろす。

 

 侍女は言っていた。応接間に第二王子殿下がいる、と。



 第二王子が案内されるであろう応接間は、次に見えてくる左手の通路を進んだところにあるはずだ。執事も先立って「音に気をつけるように」と話していた。つまり大声を出せば聞こえる距離である可能性が高いという事だ。

 屋敷が広いので、聞こえる可能性は低いが、これから及ぶ事が事だからだろう。アシュリーが大声を上げる可能性を考慮しての注意だったのだ。


 後ろから顔を真っ青にした者たちが「お戻り下さい!」と叫んでいる。

 彼らはただ単に雇われている者たちであろうが、彼らにも捕まるわけにはいかない。そしてその後ろから何かを手にしたアレクサンドルが憤怒の形相で「アシュリー!!」と叫びながらこちらに走ってきているのが見える。


 だからだろうか。アシュリーは気が付くのが遅くなってしまった。


 前を向こうと顔を戻した瞬間に目の前が真っ黒になり、何かにボスッとぶつかる。焦って抜け出そうと相手の胸板を両手で強く押すが、びくともしない。むしろどんどん締め付けが強くなっていく。

 どうにもできない事を悟ったアシュリーは、この相手が誰なのかを把握しようと目線だけを下に向けた。てっきり公爵家の執事だろうと思っていたアシュリーだったが、靴を見てその考えは間違っていた事に気付く。


 落ち着いた彼女が耳をすませば……あれ程煩かった声や足音も今は全く聞こえない。いや、正確に言えば僅かな音ではあるが、一人分の足音は聞こえてくる。

 彼女がこの人物が誰かという答えを導き出したと同時に、彼女の耳に「殿下」と呟いたアレクサンドルの声が届いた。



「先程から五月蝿いと出てきてみれば……アレクサンドル、これは何事だ?」



 頭の上から聞こえる声に、アシュリーは導き出した解答が正しかったと理解した。アシュリーを抱きしめているのは、サイラスだった。

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