第45話 不穏な空気

 そんなサイラスの発言が嘘であるかのように、翌日のアシュリーとアレクサンドルの学園生活は、普段と変わらず穏やかだった。今日も普段から使用している食堂の個室で、向かい合いながら食事を摂っている。

 二人が食事を摂り終え、彼らに付いていた侍女たちが空の食器を返すために席を外していた時。アレクサンドルが「そうだ」と声を上げて、鞄から袋をひとつ取り出した。

 

 

「アレクサンドル様、それは……?」

「ああ、ちょっと相談があってね。今度アシュリーが屋敷に来た時、どんな味のお菓子を手配しようかと悩んでいたのだけれど……決めきれなくてね。ちょっと味を見てもらいたいと思って持ってきたんだ。味見用と言って小ぶりなクッキーを作ってもらったから、デザートに食べようか」

「ありがとうございます。戴きますね」



 そう言ってアレクサンドルは袋の中から3種類のクッキーを取り出してアシュリーに手渡した。彼が話していた通り、一口サイズのクッキーで、これならお昼を食べた後のアシュリーでも食べられそうだ。

 花柄のクッキー生地の中心にアーモンドなどを入れて焼き上げた可愛らしいクッキーだった。



「左から、オレンジのドライフルーツ、アーモンドキャラメル、アーモンドヌガーだと聞いたよ」



 アレクサンドルはオレンジのドライフルーツを使用したクッキーを口に放り込んだ。アシュリーも彼がクッキーを食べるのを確認してから、食べ始める。口の中いっぱいに広がるオレンジの酸味とチョコレートの甘さに、アシュリーも口が少し緩んでしまう。その後に食べたアーモンドを使用した他二つの味も非常に美味しく、アシュリーは本気で考え込んだ。

 その様子を見てアレクサンドルはくっく、と笑う。



「そんなに考え込まなくても、一番美味しかった物を教えてくれれば良いんだけど……」

「お恥ずかしながら、どれも美味しくて迷ってしまったのですわ」



 そう頬を赤らめて答えれば、アレクサンドルはははっ、と笑いながら言った。



「じゃあ、僕が好きなのはオレンジとアーモンドキャラメルなのだけど、アシュリーはどっちが好き?」

「そうですね、どちらも美味しかったですが……強いて言うならオレンジの方が好きでしょうか」

「それじゃあ、はいどうぞ」



 アレクサンドルの言葉と同時に、アシュリーの少々開いていた唇の間に何かを挟み込まれてしまう。思わず目を見張ったが、すぐにそれが先程の試食のクッキーだという事が分かった。

 

 彼女がクッキーと理解するまでの一瞬の間。

 その隙をついてアレクサンドルは口に挟まれたクッキーを取ろうとするアシュリーの手を押さえ、彼女が口に咥えているクッキーをパクリと食べた。パキっと音が鳴って割れたクッキーをアレクサンドルは微笑みながら食べている。そんな彼にアシュリーは目を見開いた。

 慌てて彼に押さえられている手を抜こうと必死になるが、相手の力が強く振り抜く事ができない。唇にあるクッキーをテーブルに落としてしまう手もあるが、狼狽している彼女の頭では思い浮かばなかった。とは言え、彼の目的はアシュリーとの接吻。クッキーを落としたところで、彼が止まらないのは目に見えているが。


 誰も見ていないとはいえ、あと一口食べれば唇同士が触れてしまう……思わずアシュリーは左側に顔を背けていた。その時――。

 


「お取り込み中申し訳ございません、アレクサンドル様。侯爵様よりこれ以上の接触は禁じられていますので」



 そうっと目を開けてみると、目の前には誰かの手が出されていた。慌てて右側を見れば、そこにいたのはルーシーだ。彼女は絶対零度の視線でアレクサンドルを睨みつけている。



「可愛い婚約者との戯れだと思って許して欲しいのだが」

 


 止められた事を寛容に受け入れた風をルーシーに見せるアレクサンドルだったが、ルーシーからその瞳に憎悪の感情が浮かんでいるのがありありと見てとれた。彼女の仕えるアシュリーは、思わぬ展開になったためかその事に気づいていないらしい。彼女はアレクサンドルからの嫌悪の視線を一心に受けながら、次の授業のために教室へ戻るよう促した。


 

 アシュリーとルーシーが一礼して個室を去った後、アレクサンドルは侍女を用事で追い出した。誰もいない部屋の中、アレクサンドルは彼女たちが出ていった部屋の扉を睨みつける。

 彼はルーシーに止められる直前にアシュリーが顔を背けた事で、彼女は自分を拒絶したと思ったのだ。



「僕から離れていく事は許されない、許しはしない……アシュリー、どんな手を使っても君を手にいれる」



 そんな不穏な呟きは部屋の中へと吸い込まれていった。



 その日の帰りもいつもと同じようにアレクサンドルの馬車で帰る事となった。アシュリーは気づかれない程度にアレクサンドルを警戒していたが、彼はいつもの距離を保ち、アシュリーに触れようとする様子も見られない。

 何もないまま週末。事前に公爵家で茶会をしようと約束をしていたため、アシュリーは外出用のドレスに着替えたのだった。

 

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