第39話 Ep サイラス
アシュリーたちの茶会から数日後。王宮にあるサイラス専用の執務室。
普段であれば、サイラスと数人の側近たちが声を張り上げながら戦場のように忙しなく書類を処理していただろうが、現在数人の側近たちが声を潜めて机にかじり付いているだけで主人であるサイラスの姿はない。
彼は執務室と扉続きになっている隣の部屋……普段であれば書類置き場に使用している応接室のソファーに座っていた。サイラスは執務室から聞こえる筆記音に耳を傾けながら、時々目の前でティーカップをソーサーに置く僅かな音に注視する。
目の前の来客用ソファーに座っていたのは、ワイト夫妻だ。二人は人好きのする笑顔で彼を見ている。サイラスはなんとかその瞳から読み取れるものは無いかと探っていたのだが、早々にそれを諦める事にした。大商会を運営している彼らにはまだ敵わない事を知っていたから。
その場の空気も彼にとっては居心地の悪いものであったため、無言の時間耐えられず先に話を振ったのはサイラスだった。
「首尾は?」
表向き、日常品購入のためにと呼び出されたワイト夫妻は、サイラスに尋ねられて二人は顔を見合わせる。どちらがサイラスに話をするかを視線だけで決めているのだが、いつも一瞬で終わる。大抵勝利するのは、夫人だからだ。
基本普通の商談では口を出さない夫人だが、今回話す件は商談とはまた異なるため、夫人も話したいのだろう。
勝負に負けて下を向いている伯爵の隣で彼女は甘く澄み透った高い声で笑う。
「上々です、殿下。花は美しく咲き、空へと力強く花弁を伸ばしております。ちょっかいを出す羽虫たちの事など意にも介しておりませんわよ」
「羽虫……」
微笑みを絶やさずに言ってのける夫人と、夫人の物言いに内心ヒヤヒヤとしている伯爵。そして自分を羽虫に例えられ苦笑いをしているサイラス。
これが夫人の通常運転なのでサイラスも気にしていない。むしろそろそろ蜜蜂くらいにはなりたいな、と思っている。もし夫人にそう話せば、鼻で笑われるに違いないが。
「水をあげれば、喜ぶとは思います」
「それなら良かった」
腕と足を組んで座り直したサイラスは、彼女の反応が上々であった事を感じ取る。
サイラスは今のアシュリーに受け取ってもらえるとは、はなから思っていない。だから渡すのではなく、見せるだけにしたのだ。
見せるだけであれば、もし周囲にこの事が露呈したとしても言い訳できる。
そしてこれを見せた事で、もし彼女の婚約が白紙になった時……アシュリーが婚約者候補を選ぶとなった時……候補の一人として印象に残っていて欲しい、そのきっかけのつもりだった。
サファイアはサイラスの瞳の色に例えられている。
その色を婚約者以外に贈るということは、生涯の伴侶として考えて欲しい、という願いが込められているのはきっと彼女にも伝わっているはずだ。
夫人がテーブルの上に置いた箱は、少々歪ではあるが包装紙もリボンもきちんと結ばれていた。送り返された贈り物をサイラスは繊細なガラスを扱うかのように懐へと仕舞い込む。
一度彼女が手に取ったものだと考えると、この贈り物が非常に愛しく思えるのは、きっと彼が重症である証拠だ。
「助かった、協力を感謝する。では」
サイラスは二人にそう告げると、席を立とうと腰を上げた。その時。
「少々お待ちくださいませ、殿下。話は終わっておりませんわ」
満面の笑みの夫人に離席を止められ、一瞬眉間に皺が寄りそうになるのをサイラスは堪えた。そして夫人へと向き直ると、夫人は満開の花の美しさにも負けない笑顔だ。
「美しき花より言葉を頂きました。『大切な物を他人に見せるべきではありません』との事です。いつまでも羽虫でいたら、花に近づけませんわよ、殿下?」
「……心に刻んでおこう」
サイラスはバツが悪そうな表情で伯爵夫妻に礼を伝えた後、居心地の悪い空気である応接間から早々と退出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます