第34話 困惑
二人が退室してどのくらい時間が経ったのだろうか。
未だにアシュリーの頭の中は、サイラスのあの表情が思い浮かんでは消えていく、を何度も繰り返していた。
彼に迫られたあの時、彼の表情は苦悩に満ちていた。
アシュリーは自分を妹として見ているだろうサイラスが、何故そのような表情をするのかが理解できない。幼い頃から冗談を交えて彼と笑顔で話した記憶しかなかった彼女は、ここで初めてサイラスが何を考えているのかを理解できない事に恐怖を感じたのである。だがその想いとは裏腹に……彼の事が頭から離れない。
彼の表情を思い出していくうちに、苦悩とは違う何かが瞳の奥で渦巻いている事に気づく。
そして悟ったのだ。そもそもの前提が間違っているとしたら……という事に。
それを知覚した瞬間、まるで顔から火が出たような……側から見ればポンと音を立てて真っ赤になった彼女の姿があった。
流石にそれはないはず、自意識過剰過ぎないか……そんな考えが頭の中を駆け巡っている。だが、サイラスの表情を思い浮かべれば浮かべるほど、その考えが正しく見えて来てしまった。
恥ずかしさからか、彼の想いに感づいた混乱からか……普段は気にも留めない心臓の音がまるで耳元で聞こえるような錯覚にも陥っており、思わず顔を両手で覆って俯く。
――彼女は自分に湧き上がる感情に名前をつける事ができなかったのだった。
サイラスと別れたエディーは、アシュリーの執務室にたどり着く。
現在彼はエディーの部下と訓練中だ。先程の事があったので、事前にサイラスの訪問を伝えるべきだろう、そう気を利かせたのだ。
コンコン、といつものように扉を叩く。普段であれば了承の返事をくれるアシュリーだが、耳を澄ませても何も聞こえない。
もう一度少し大きな音で扉を叩いた後、声をかける。これで反応がなければ、扉を開けようと考えていた彼の耳に、アシュリーの了承の声が聞こえたため、部屋に入る。
そこにはどこかよそよそしく居心地の悪そうな雰囲気のアシュリーが佇んでいた。
「お兄様、何かございました?」
「殿下との訓練を終えたので、声を掛けに来たのだが……父上は来ていないようだな」
「あ、はい……お父様は来ていないかと……存じます」
珍しく声がしぼんでいくアシュリーを見て、エディーは目を見張る。アシュリーの上気したように赤くなった頬だけでなく、先程のまま放置された状態の書類。それを見て彼は彼女が何かに気づいた事を直感的に感じる。
あの恋愛感情に鈍いアシュリーが、もしかしてサイラスの感情に気づいたのか、自分の感情に気がついたのかは分からないが……エディーが入室した際から様子が可笑しいのは、何かしら感情の変化があったに違いない。
そう判断したエディーは、アシュリーに問いかける。
「そろそろ殿下がこちらに来る頃なのだが……今日はお会いするのを止めておくか?」
「いいえ、お会いしますわ」
きっとアシュリーはまだ気持ちの整理ができていない、そう考えての提案だったが、その案は彼女自身によって却下される。
まあ、大丈夫なら問題はないだろう、と考えたエディーはアシュリーに了承の意を伝え、サイラスを迎えようと彼女に背を向けたのだが……目の前の扉がノックされる。そこにいたのはルーシーとサイラスだった。
ルーシーは扉を開けた後、一礼して去っていく。サイラスは彼女に感謝を告げた後、執務室に入ってくる。そして――
「先程は済まない。アシュリーを怖がらせるつもりはなかった。あのような事にならないよう、今後は気を付ける」
頭を下げる彼に、アシュリーは慌てて頭を上げるように懇願した。
「だ、大丈夫ですわ、殿下。お気になさらず……」
アシュリーの脳内は非常に混乱していた。
先程の切ない表情とは一転して、彼はまるで吹っ切れたような清々しい瞳をしている。それを見てアシュリーは面食らったのと同時に、自意識過剰だったのだ……と結論付けた。
そしてそう判断した瞬間から、アシュリーは兄のように慕っていた殿下を、一瞬でもそのように見てしまった事に羞恥心を覚えた。だからだろうか、彼女も必要以上に言葉を口にする。
「私も殿下を揶揄ってしまった事、大変申し訳ございませんでした。殿下がいらっしゃると私、気が抜けてしまうようで……あ、えっと、あの……」
言いすぎた事に気づき、アシュリーは思わず手で口を押さえる。その顔は紅潮しており、サイラスを意識している事はエディーから見れば明らかだ。
これで二人は一歩先に進めるか……と言っても、アシュリーは婚約者がいるので進みすぎても困るのだが、彼らがお互いの気持ちに薄らと気づくくらいなら問題ないだろうとエディーは思う。
サイラスを一瞥すれば、彼はとても嬉しそうに頬を染めている。男のエディーでさえ見惚れそうなその笑みは、アシュリーにしか向けられる事はないのだが、彼女はそれに気づいているのか……いや見る限り全く気づいていない。
サイラスもアシュリーが家族にも見せないような微笑みで彼を見つめている事など気づいていないようだ。
エディーは二人を見て思った。あれ、二人とも恋愛に関しては鈍い者同士なんじゃないか、と。
まるで初々しい恋人のような雰囲気を醸し出す中、彼は意識が遠くなるのを感じた。
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