第32話 延期

 茶会当日。

 アシュリーが化粧台でルーシーに髪を整えてもらっている所に入ってきたのは執事だった。普段であれば支度中の彼女の部屋には足を踏み入れない執事であるが、今日は緊急の手紙が届いたらしい。

 ルーシーにはそのまま整えるよう指示を出しながら、アシュリーは封筒を受け取った。


 封筒の送り主はワイト家――つまりサラだ。

 執事から紙ナイフを借りて便箋を取り出し中身を一読すると、ルイサが体調不良であり、茶会が明日へと延期になる旨が書かれていた。なるほど、アシュリーが予想した通り、アパタオが動いたようだ。

 

 だが、彼は茶会が明日に変更する旨は聞いていないはずだ。

 サラ経由でザカリーにはその事を他の屋敷の者に言わないよう伝えてあるので、明日は普段のように屋敷で療養すると思っているだろう。

 朝、外出が分かった後に薬物を使用する事は難しいだろうと思うので、問題なく彼女たちもサラの屋敷へ来られるだろうが、もし薬物が使用されればまた違う方法で面会を取り付ければ良い。

 

 ザカリーが屋敷に滞在していることもあり、男爵夫妻の抑止力になっているからか、ルイサの婚約白紙の話は進んでいないとヴェリタスから報告があった。多少妨害されても差し障りはなさそうだ。

 手紙を読んでふう、とため息をつくと髪を整えていたルーシーから声がかかった。


 

「お嬢様、そちらの手紙はもしかすると今日の茶会の件でしょうか?」

「ええ。残念ながら体調を崩した方がいるので、延期の連絡が来たの」

「お茶会が本日は中止という事ですね……髪型はどうされますか?」

「そうね……もしかしたら急な外出もあるかもしれないから、このままでいいわ」

「承知致しました。話は変わりますが、連絡を早く戴けるのはありがたい事ですね……どこかの誰か様に見習って欲しいものです」



 ルーシーはアレクサンドルの行動を思い出したらしく、髪の毛を結いながらぷんすか怒っている。手元を誤る事なく髪が結われていくので、アシュリーは困惑しながらも注意する事はない。


 彼女は喜怒哀楽が元々激しい女性だ。外では侯爵家の侍女としての振る舞いを求めているし、彼女もそれをきちんとこなせる実力がある。

 そのため、ガス抜きも兼ねて彼女の部屋の中では、ある程度節度を持つ必要はあるが感情を出して良いと許可をしていたのだが……髪の毛が整った後も、まだルーシーは思い出し笑い……ならぬ思い出し怒りをしていた姿を見て苦笑した。


 支度を終えたアシュリーはそのまま執務室に向かい、机に積まれていた書類の内容を確認し始める。机上にある書類は緊急性の低いものではあるが、いつまでも残しておいて良いものではない。元々今日の茶会が中止になる事を見込んで、昨日彼女が纏めて置いておいたものだった。

 

 書類の山が半分以上なくなった頃、集中が切れたアシュリーは椅子から立ち上がり、大きく背伸びをした。

 そして机の引き出しにしまっている懐中時計で時間を確認したが、昼食前にはまだ早い時間だった。



「ルーシーの話ではないけれど……今まで時間をどれだけ無駄にしていたのかしら。もう少し連絡を早く頂けたら嬉しいのだけれど」

「誰の話だ?」


 

 思わず漏らしてしまった言葉に返事がある事に驚いたアシュリーは、思わず声の聞こえた方へと振り向く。そこには諜報員が着用する黒いローブに身を包んだ男性が……。

 彼女は眉を寄せてその男性に声をかけた。



「……どうしてこちらにいらっしゃるのでしょうか?」

「ん? 視察だ」



 彼は頭を覆っていた黒いフードを脱ぐ。そこには見慣れた男性の姿があった。婚約者候補の一人であった第二王子殿下――サイラスだ。


 実は彼には婚約者がいない。非常に軽い口調で話すので女遊びをしていると思われやすいのだが、サイラスは身持ちが固かった。過去にその理由を尋ねた所、本人は「好きな人がいる」と言っていたのだが、アシュリーは半信半疑で話を聞いたのを思い出した。


 彼とアシュリーは幼馴染のようなものだ。元々サイラスは幼い頃からエディーに会いによく屋敷を訪れており、その時にアシュリーとも一緒に遊んでいたのである。


 二人が初めて出会ったのは、彼女が三歳、サイラスは七歳の時。そこからエディーが諜報員として訓練を始める数年間、サイラスは遊びに来てはアシュリーに構ってくれることが多かった。

 だからアシュリーからすれば少々口が軽くて悪いが、根は良い人だと彼の事を思っている。


 だが、以前仲睦まじかったとしても、今彼女はアレクサンドルの婚約者だ。屋敷内とは言え、そこは線を引くべきだろう。

 彼女はサイラスから一歩距離を取り、戸惑いながら告げた。

 

 

「殿下、流石に婚約者のいる女性と二人っきりになるのは、外聞が悪いと思いますが……」

「ラスだ」

「え?」

「今は屋敷内だ。昔のようにラスと呼べ」



 ラス、とは以前アシュリーがサイラスを呼ぶ時に使っていた呼び名だ。三歳だったアシュリーは、当時さ行が上手く発音できなかったため、「しゃいらしゅしゃま」となってしまった。

 サイラスが矯正しようと何度も練習させたが、アシュリーは何度練習してもさ行が言えなかったため、途中から目に涙を溜めて泣くのを我慢していたらしい。


 それを見たサイラスが、妥協案として彼女に「ラスしゃま」と呼ばせたのが始まりだ。


 幼い頃からの仲なので、言い出したら聞かない男である事は知っている。

 どうすべきだろうか、と悩んでいると、彼女の後ろに誰かが降り立った気配を感じた。パッと後ろを振り向けば、そこにいたのはエディーだった。


 

「アシュリー、困らせて悪かったな。この執務室内だけで良いから呼んでやってくれ」

「お兄様、宜しいのですか?」



 本当に良いのだろうか、と困惑した表情でアシュリーはエディーに尋ねるが、頭を縦に振ったので彼女は了承の意を示す。

 

 

「そもそもラス様、ここに来る事自体が問題だと思うのですが、執務は宜しいのですか?」

「今、俺は王宮の執務室の奥で仮眠を取っている事になっているから問題ない」



 胸を張って鼻息を鳴らすサイラスを見て、力無く笑うエディー。彼がここにいる理由を簡単に言えば、気分転換がしたかったのだと言う。

 現在、王太子殿下第一王子が数ヶ月後に隣国を訪問すると言う話が持ち上がっており、そのための調整がなされている。その業務の引き継ぎ先の大部分が、サイラスに振り分けられているらしい。一ヶ月かけて業務の引き継ぎが行われていたのだが、昨日やっとの事でその引き継ぎを終わらせたのだという。

 業務も一旦落ち着いた事、本日の業務が側近たちでも問題なく対応できる事、それらを鑑みて少々気晴らしを兼ねて屋敷を訪ねたらしい。

 


「ここしか思い浮かばなかったわけだ。この屋敷は第二の実家のようなものだからだろうが……それに王城からは離れたかったのもあるな。何故か最近は貴族の面会希望が多くてな……それも業務圧迫の原因だったな」

「いえ、むしろ面会希望が多いので、業務が圧迫されているのですよ。殿下がいつまで経っても婚約者を決めないからではありませんか」

「……まあその通りだ。だが俺はまだ婚約者を決めるつもりはないぞ」

 

 

 サイラスはエディーに突っ込まれ、眉間に皺を寄せていた。そんな様子の彼を見て、エディーは肩を竦める。

 昔と変わらない雰囲気になり、緊張の糸が切れたのか……アシュリーはポロっと呟いた。

 

 

「ラス様の直近の断り文句が『好きな人がいるから』という言葉だとお聞きしましたが……あ、もしかして既に婚約されている方なのですか? それとも――」



 男性が好きか、と言いそうになって慌てて口を噤む。思わず口が軽くなってしまった。

 この国では同性での事はあまり認知されていないが、ある国では認知されているため、そちらへ移住する者たちも中にはいるらしい。

 順当に考えればきっと前者だろうな、とアシュリーが考えていると、呆れた表情をしたサイラスから声をかけられた。

 


「何を考えているか想像できるが、俺は普通だ」

「まあ、そうなのですね」



 ふふふ、と揶揄うように彼へと微笑めば、サイラスは顔を下に向けていて表情が掴めない。彼の後ろでエディーがやってしまった、という表情でアシュリーを見ていたのだが、彼女は気づかない。

 彼女としては「揶揄うな」とか、「俺で遊ぶな」と返答されるだろう事を予想していたのだが、一向に声を上げないサイラスに戸惑ってしまう。


 アシュリーは声を上げないサイラスを心配して一歩踏み出した。が……瞬時に手を掴まれ、あれよあれよのうちにアシュリーは何かにぶつかった。

 衝撃で思わず後ろを向く。不測の事態で目を瞑ってしまったアシュリーが目を開けると、使用している執務机に手を置いて身体を支えている事に気づく。あの一瞬で彼女はサイラスに手を掴まれて、執務机まで追い詰められたようだ。


 予想外の出来事にアシュリーは開いた口が塞がらない。慌ててサイラスの方へ振り向けば、彼の顔が目の前にあった。


 サイラスの端正な顔が歪んでいるのを見て、アシュリーは息を呑む。


 

「そうやってお前は俺を揶揄って……どれだけ俺がお前を――」



 そう呟いたサイラスの顔がどんどん近づいてくる。

 アシュリーは彼と身体の距離が近い事に狼狽する。ダンスの授業やレッスンなどで男性と踊る事はあるが、その時でもここまで身体が寄り添う事はない。

 

 ここまでの接近が初めてであった事、兄だと思っているサイラスの行動が理解できない事で、頭の中は整理できずごちゃごちゃであった。そのため彼の切ない声色、言葉も耳に入っては抜けていってしまう。


 身体を固くしているアシュリーへ遠慮なく顔を近づけるサイラス。表情は苦悩に彩られているが、彼女はその顔が艶やかにも見えた。

 そしてお互いの唇がくっ付きそうなほど近づいていき――その事に気づいたが、彼女は言葉を上げる事もできず、何が起こるかを予想して凍りついた。



「殿下、止まってください。このために来たわけではありませんよね?」

 

 

 エディーの声が耳に入るのと同時に、サイラスの顔が手で遮られる。そして彼に掴まれていた左手首も解放され、サイラスは何も言わず数歩後ろに下がった。

 彼から解放されたアシュリーは足に力が入らず、床に座り込まないよう机上に置いてあった手で身体を支えた。



「……すまない、取り乱した」



 黒いフードを被り直したからか、サイラスの表情は見えない。


 

「アシュリー、僕たちは訓練場を使って気晴らしをしてくるな。父上が来たらそう伝えておいてくれ」

「はい、そのようにお伝えしますね」

 


 上手く笑えているだろうかと心配しながら……アシュリーは必死に笑みを貼り付けてエディーを見送る。

 こちらに手を振るエディーの前には背を向けているサイラスがいる。彼の顔はこちらに向いているが、口元が一文字に結ばれているのが見えるだけだ。そのまま彼はエディーに押されて執務室を出ていくが、その際彼は一言も喋る事は無かった。


 パタン、と音を立てて執務室の扉が閉まる。アシュリーはまだ上手く力の入らない足を奮い立たせ、目の前にある来客用のソファーにぐったりと身体を預けた。

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