第21話 回想
アシュリーの婚約が決まったのは、1年半ほど前の話だ。
彼女はその時のことをよく覚えている。
父であるサンタマリア侯爵から執務室へと呼び出された時、彼は書類を捌いている最中だった。「待っていてくれ」との言われ、アシュリーは来客用ソファーが置かれている場所で紅茶を飲んでいた。
紅茶が無くなったので、扉の側に立っていた侍女へと声をかけようと振り返ったのだが、先程居たはずの侍女の姿はなく……ティーカップに視線を戻せば、空っぽだったはずのカップには紅茶が入れられていた。
そしてそこにポットを持って立っていた人物を見て、アシュリーは目を見開いた。
「お兄様?」
「よお、アシュリー。元気だったか?」
「今日はお仕事だと聞いておりましたが……」
「仕事は一通り終えたから、部下に任せてひと足先に帰ってきた。父さんに呼び出されたからな」
アシュリーの兄、エディーはサンタマリア侯爵家の長男だ。真っ黒のローブを着ていることから、彼の言う通り直接ここへと来たのがわかる。
気配なくアシュリーの前に現れたのは、彼は驚かす事が好きだからだ。特に妹である彼女には、仕事から帰ってくる度に悪戯――と言っても、先程のように軽いものだが――を仕掛けてくる。まあ、彼女もそんなエディーを好いているし、なんなら「今日はどんな悪戯だろうか」と楽しみにしているので止める事もしない。
エディーが入れてくれた紅茶を一口飲めば、オレンジの香りと酸味が口いっぱいに広がる。隣国で最近売り出され始め、高位貴族の間で人気が出たとの噂がある果物を利用した果物茶といわれる茶なのだろう。
そう言えば、兄は隣国に近い辺境辺りで任務に就いていたなと考えていると――。
「父上には話してあるが、この紅茶は今後傘下の商会で販売予定だ。隣国では『美容に良い』と水面下で絶賛されているらしい。まあ、アシュリーだから心配していないが、宣伝を頼むな!」
「承知致しましたわ。特に女性が好みそうな味ですから、次の茶会でこの紅茶を皆様に提供してみましょう……お兄様、紅茶はこの一種類のみでしょうか?」
「いや、何種類か見繕っておいた。それはこのリストに書いてある。見ておいてくれ」
「ありがとうございます」
兄から資料を受け取り数枚めくって確認してみれば、必要な情報は全て見やすく纏められている。父親譲りの情報整理力にいつも感心していた。
「お兄様、いつも分かり易い資料をありがとうございます」
「本来は俺がやるべき仕事を押し付けたからな。お前の方が大変だろうし、そのお詫びだ」
「お兄様、適材適所という言葉をご存知ですか? 私は表向きの生活が向いていると思ったのです。お兄様に押し付けられたとは思っておりませんし、楽しくやっていますから安心してくださいませ」
そう言ってアシュリーは笑った。
アシュリーの言葉通り、サンタマリア侯爵家は実は特殊な家柄だ。
表向きは王国の食糧庫と言われるほど広大な農地を所持しているサンタマリア家だが、裏では王家の諜報員・影として長年忠誠を誓っており、それを知っているのは数える程だけである。
サンタマリア侯爵家の家族構成は現在父であるサンタマリア侯爵、長男であるエディー、長女であるアシュリーの三名である。ちなみに二人の母は幼い頃に亡くなっている。
アシュリーが家の事を知ったのは、数年前……今回と同様に父の執務室に呼び出され、サンタマリア侯爵家の裏の顔を知ったのだ。
そして同時にエディーは侯爵家を継ぐのではなく、諜報員として人生を送りたいと話している事をアシュリーは知った。兄はそちらの才能の方が大きかったらしい。
当時父からは二つの選択肢を与えられた。
一つは兄と共に暗部で活動する事、二つ目は侯爵家を継ぐという事だ。
前者を選んでも、分家から養子を取れば問題ないだろう、と父は考えているらしく、好きな方を選べと言われたのだ。流石にその日に決める事はできず、諜報員の訓練を受けつつ半年ほど経て、アシュリーは侯爵位を継ぐ事を決めた。
一方でエディーはそこから訓練を積み、現在複数ある諜報グループを率いる長の一人として、主に国内での情報収集に勤しんでいたところだ。諜報員の育成方針として、サンタマリア家では国内で経験を積んでから、国外の任務に就く。現在彼は国内の渡り歩き、情報収集や任務遂行に力を入れている最中だ。
国外で活動している諜報員たちの中でも、一番人数が多く構成されているのは、隣国だろうか。隣国とは同盟関係にあるが現在王位争いが激化しており、いつ
「それなら良いが……まあ、何かあったら言ってくれ。お前は俺のただ一人の妹なのだからな」
「ありがとうございます。お兄様」
母は居なくとも厳格であるが努力を認めてくれる父、そしていつも自分の事を心配してくれる兄がいてアシュリーは幸せだ。愛してくれる彼らだからこそ、報いたいと思うのは自然な事だった。
二人で微笑みあっていると、父が声をかけてくる。
「待たせたな」
「お父様、お仕事は宜しいのですか?」
「ああ、キリの良いところまでは終えた」
その言葉でアシュリーは立ち上がり、父の執務机の前まで向かおうと腰を上げた。すると、「座っていて良い」と父からの指示があった。
アシュリーはその言葉を受けてソファーに座り直す。父はエディーにも彼女の隣へ座るよう指示したので、隣にはエディーが、向かい側のソファーに父がどすん、と座った。
彼の顔色に変化は見られないが、どうやら相当お疲れらしい。心なしか眉が下がっているように見える。エディーもそう感じたようだ。
「父上、お疲れのようですが……気分が優れないのですか?」
「……いや、体調は問題ない。今少々頭を悩ませている件があってな……今日の話もそれだ」
彼は一息つくと眉間を揉み始めた。今まで母の死以外滅多に表情を変えず厳格な姿を保っていた父が、眉間を揉むなんて珍しい。その姿にアシュリーは不安を覚える。
数瞬の間、思い詰めた表情をしていた父だったが、顔を上げた時には既にいつもの無表情に戻っていた。
「本題に入るが、今日お前たちを呼んだ理由は、アシュリーの婚約についてだ」
「遂にですか! 父上、アシュリーの婚約者は第二王子殿下ですか?」
エディーは妹の婚約と聞いて大興奮だ。
アシュリーも婚約と聞いて相手は順当に殿下だろうな、と漠然と考えていた。かの方は適当な発言をしているように見えて、何よりも国や家族を大事に思っている。兄である第一王子殿下……現在は王太子に指名されているが、かの方より目立つ事がないよう、傀儡として祭り上げられる事が無いよう、注意を払って取捨選択をしている人だ。
彼は王位を継ぐつもりがない事はアシュリーもエディーも本人から聞いて知っていた。その理由は分からないが、王太子殿下にまだ子がいないために継承権を放棄していないだけで、子ができればそれを放棄する気満々らしい。
むしろ殿下から話を聞いていたエディーは、「やっとか!」と目を輝かせていたのだが――。
二人は気づく。第二王子殿下であれば、父も今のような苦渋の表情を浮かべる事はないはずだ。
二人の気持ちに気づいたのかは分からないが、彼は絞り出すように言葉を発した。
「……アシュリーの婚約者は、トールボット公爵令息だ」
想定外の人物の名前が彼の口から発せられ、アシュリーたちはしばらく口を開けたままだった。
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