第2話 公爵令息様

 ふと私は喉の渇きを覚えて目が覚めた。喉の痛みや身体の怠さが多少残っているが、これなら数時間で落ち着くだろうと判断した。

 窓を見上げれば、陽が真上に登っている。太陽の位置からして今は昼過ぎだろうか。峠は越えたらしい。


 窓と反対側に目を配れば部屋には誰もいない。普段であれば公爵令息様が椅子に座ってこちらを見ている事が多いのだが、「用事が」と言っていたし彼も帰ったのかもしれない。


 身体を起こすと視界に飛び込んできたのは、サイドテーブルの上にある紙だった。

 

 いつも置いてある水差しはなく、代わりに先程アパタオが彼に渡したであろう紙が置かれている。

 机にインクが滲まないように、紙を一枚下に敷いて書き付けるのはよくある事。そう思った私はただの紙から目を逸らし、水を貰うためにその奥にあるベルを鳴らそうとしたのだが……そこでハッと気づいた。


 よく見てみると、紙に滲んだのか薄らと文字が読める。最初の文字はア、そして最後の文字はリ。文字の大きさからして、真ん中には二文字入りそうだ。

 彼は『埋め合わせはまた改めて』と言っていた。今日の予定を中止する旨を相手に伝えてほしいという伝言だったに違いない。それを考えるとリの後は「宛」という文字であり、その前は名前が書かれていると予想できた。

 

 そこまで考えて私はサアッっと血の気が引いた。

 だって、アとリがついて五文字の名前は一人しか思い浮かばないのだから。


 ベルへ手を伸ばしたままその事実に呆然としていると、不意に扉の開く音がした。

 


「お……お嬢様! だ、旦那様! お嬢様がお気づきになりました! 」

「あ、ま゛ってネリー……」

 


 我に返った私は水差しを求めて侍女のネリーに声をかけたが、彼女は気づかずに走り去ってしまった。


 そして何を思ったのか私は目の前に置いてあった紙を引き出しにしまっておく。何故この時に紙をしまったのかは分からないが、気が動転していたのかもしれない。


 しまい終えるとすぐにネリーが戻ってきたが、その手に水差しはなく更に喉の渇きを感じさせた。せめて水を飲んで一息つきたかった……そう思っても、後ろから入ってきた両親が許してくれるはずがないのだ。

 私が起きているのを見ると、母は満面の笑みで話しかけてくる。

 

 

「ルイサ! 今日もアレクサンドル様がお見舞いに来て下さったのよ? 感謝しなさいね」

「……はい」


 

 私が返事をするのと同時に、父と公爵令息様も入ってくる。

 

 

「アレクサンドル様は、お前に水を飲ませてくれたそうだ。本当にいつも娘のためにありがとうございます。感謝してもしきれません」

 


 媚びへつらうためにヘコヘコと頭を下げる両親は彼だけを見ており、体調を崩した私の心配などしていない事が分かる。まぁ、昔からこんな調子だったので、最近では慣れた。

 むしろ時折両親――特に父は「お前もアレクサンドル様へ感謝を言え」という視線を送ってくる。

 流石に迷惑だ、なんていう本当の事は言えないので、いつものように感謝の言葉を伝えようとしたのだが……。


 

「……こほん、い゛つも、ありがど……げほっ、ありがとうございます」



 喉が限界だったらしい。そりゃそうか。

 早く水を飲ませてほしい、と思いながら「見苦しくて……げほん、申し訳ございませんでした……」と謝罪をする。

 その様子を見て「大丈夫だ」と微笑む公爵令息様を遮って話し始めたのは、両親だった。



「何をやっている? しっかりお礼は言いなさい」

「もしかして、ルイサ。貴女、まだアレクサンドル様に看病してもらいたいのかしら? ふふふ……」


 

 母の思わぬ言葉に私は呆然としてしまった。


 そんな事を願うなんてあり得ない。そもそも私は、公爵令息様へお見舞いに来てほしいと頼んだ事は一度もない。むしろ毎回両親へ「彼を私室に入れないで欲しい」と言っているではないか。

 娘の言葉すら忘れている両親に憮然とする。

 

 私の目に入ってくる父は呆れた表情を、母はニタニタという擬音が似合うような笑顔でこちらを見ている。

 

 そもそも婚約者のいる公爵令息様が、幼馴染だと言ってこの場に来ている事が異常でしょうに。

 それを許容している両親も然り。

 もう私だけではどうにもならないところまで来てしまったのかもしれない。

 

 



 その後ネリーが呼んでくれた医者が訪れ、診察をしてくれた。

 彼は私が声を出しずらそうにしている事にすぐ気づき、水の入ったコップを渡すよう指示を出してくれる。そのお陰で、やっと私は喉を潤す事ができたのだ。


 だが、一息つくのはまだ早い。医者の後ろで公爵令息様がこちらをじっと見ているからだ。


 いつも通りの診察が終わり、医者も帰った頃。

 部屋の隅で様子を見ていた彼が私に話しかけてきた。

 


「ルイサ、もう大丈夫かな?」

「はい。いつもお手数をお掛けして申し訳ございません」



 彼はいつも医者の診察まで見てから帰る。

 一度何故かと尋ねたら、「君は大事な幼馴染だから」と言われた。


 確かに幼い頃は顔を合わせていた。だが、一緒に遊んだ事はない。

 どういう事かと言えば、幼い頃私が外で遊んでいると、いつの間にか我が家のガゼボで彼がくつろいでいるのだ。

 一緒に遊ぶわけでもなく、会話をするわけでもなく。第三者からすれば、ガゼボから私を見守っている……という感じだろうか。


 それだからだろうか。私の彼に対する印象は、「何を考えているか分からない公爵令息様」だった。

 当時から両親が公爵令息様に許可を出していたらしい。これは後々兄から聞いた。


 私の中では得体の知れない者だったが、彼の中では私は「幼馴染」という立場らしい。

 いくら幼馴染だから……と言っても、毎回の看病はあり得ないだろう。そもそも彼にも私にだって婚約者がいる。彼にとって婚約者とはどんな存在なのだろうか。


 その前に何故私を看病したいのだろうか、疑問だ。


 

「……公爵令息様。私をお見舞いする事で、ご無理をされていませんか?」

「いや、無理はしていないよ。ルイサの見舞いが僕の中では一番大切だから」



 むしろ婚約者の方が大事なはずだ、と突っ込みどころは満載なのだが、私は彼から見れば弱小貴族。本音を言ったことによって怒りを買って、プチッと潰されかねない。


 

「……公爵令息様はお忙しいでしょうから、用事があれば私よりもそちらを優先してくださいね」



 やんわりと暗にもう来なくて良いよ、と言ったつもりなのだが……。



「予定があれば、そうするから大丈夫だよ。じゃあ、僕はそろそろ帰るね」

「本当に、ありがとうございました」



 ぱたん、と扉が閉じ、部屋にひとりになった私の口からは大きなため息が漏れたのだった。

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