第39話 綺麗

 零華の目に、淡いオレンジに染まった空が映っている。

 夕日を反射するその瞳は、宝石か何かのように思えた。


 数えきれないくらいに、その姿を見てきたというのに。

 見慣れているはずなのに、見惚れてしまう。


 落ち着いた紺色に白く美しい花々があしらわれたその浴衣は、思わず言葉を失うほど零華に似合っていて。


 その服装から、髪から、零華がこのためにどれほど準備してきたかが伝わってくるようだ。


 自分のために、自分と祭りに行くためにそうしてくれたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。


「光。」


 どこか嬉しそうな、楽しそうな声が鼓膜を揺らす。


 ふわっと、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 どこか安心するような、それでいて頭の芯を溶かしきってしまいそうな、零華の香り。


 続いて、光のそれよりもいくらか小さい掌が、光の頭にのせられた。


 頭の上の手が、頭を小さくなでるように遠慮がちに動く。


「光、髪切ったんだ。」


 唐突に、そう言われた。

 ドクンと、心臓が飛び跳ねる。


 恐る恐る、零華の目を見る。


 すると、零華がふわりと笑みを浮かべた。


「凄い似合ってるよ、光」


 家を出る前に感じていた憂鬱が、その笑みと言葉に吹き飛ばされるようだ。


 心が、軽くなる。

 そして、暴れ始める。


 頬が熱い。


 我ながら単純だと思う。


 でも、単純なのも良いことかもしれないとも思う。

 だって、たった一言で、こんなにも幸せになれるのだから。


「零華も……。」


 言葉が、口から零れ落ちた。


「零華も、似合ってるよ。」


 家を出る前から、……いや、昨日から言うと決めていた言葉。


 言うのが恥ずかしいとか、そういうことも思った。

 実際に浴衣姿の零華を目にして、事前に用意した言葉も忘れてしまった。


 でも、結局、その言葉は光の口から零れ落ちた。


「……綺麗だよ。」


 断じて、このような歯の浮くようなセリフを軽く言うタイプではないのに。


 思わず、口説くように言ってしまう。


 零華の目が、まん丸に開かれた。


 そりゃそうだ。


 だって、光は、普段こんなことを言う人間ではないから。


 ……本気で、そう思ったときにしか言わない人間だから。


 ……。


 赤くなった頬は、夕日のオレンジ色が隠してくれていると信じたい。


 零華の頬も、赤みがかった色に染まっている。


 それが夕陽によるものなのか、そうでないのか。


 気になるような、気にならないような。


 沈黙が、流れる。


 先ほどまでのように虫が合唱しているはずなのに、その音色は全く耳に入ってこない。


 少し冷たい風が吹くが、頬の熱は取れなかった。


 いたたまれなくなって、光は思わず空を見上げた。


 紺色に近づいてきた空の東側の色。

 西側は、太陽をを中心に綺麗な橙色に染まっていて。

 

 頭上で、淡い水色を境に、橙と紺が混ざり合っている。


「わ、綺麗だね」


 光につられて上を向いた零華が、そう言った。


 ……お願いだから今は、「綺麗」と言わないでほしい。

 思い出して恥ずかしくなるから。


 そう思うが、まさか口に出すこともできず、ただ空を見上げる零華に見惚れる。


「ねえ、光。」


 零華が、空を見上げたまま小さく光の名を呼んだ。


「今日、誘ってくれてありがとう」


 そういう零華の表情は、どこか読めない。

 でも、その言葉が本心であることはなんとなくわかった。


 ……何かと思えば。


「そういうことは、今日が終わってから言おうよ。」


 想いを告げた後も、今のように零華と話したい。

 そんな隠れた願いも込めて、返事をした。


 ちらっと腕時計を見る。


 まだ、花火が始まるまでは時間がある。


「それもそうだね。」


 零華が、空から目を離してこちらに向いた。


「じゃあ、そろそろ行く?」


「そうしよっか。」


 まだ、花火が始まるまでは時間がある。


 でも、楽しみは花火以外にもたくさんある。


 花火が始まるまでに、思う存分楽しんでおかなければ。


「あ、そうだ。屋台何が食べたい?」


 ふと、先ほど見たお爺さんと孫らしき二人組が話していたことを思い出して聞いてみた。


「綿菓子!」


 即答する零華。


 分かってはいたけれど、なんだか少し面白くて、光は笑みを浮かべた。


「光はチョコバナナでしょ?」


「うん。」


 当たり前のように聞かれ、当たり前のように返す。


 付き合いの長さが生むこのやり取りが、心地よかった。


 光は伸びをした。


「でも、最初に甘いの食べると舌が変になりそう。」


「確かに。まずは焼きそばでも食べる?」


「焼き鳥もいいかも。」


 いつもならば記憶に残らないようなたわいもないやり取りが、二人で祭りに来ているというシチュエーションのせいで脳裏に焼き付いていくようだ。


 楽しい。


 零華を見ていると、口角が上がったまま戻ってこなくなる。


「どうしたの?」


 ニコニコしている光を不思議に思ったのだろう。

 零華が首をかしげている。


「いや、楽しいなと思って。」


 零華の顔がほころんだ。


 あまり見る機会のない類の、照れ笑いのようなその笑顔に息をのむ。


「そういうことは、今日が終わってから言うんじゃなかったの?」


 少し揶揄うように言われた。


 その笑顔は、どこか小中学生のころの零華を思わせるようなもので。


 無理のない、心からの笑みに光の口角も自然と上がる。

 

 ……明日、表情筋が筋肉痛になってそうだ。


 でも、今はそんなことを気にせず全力で遊ばなければ。


 楽しみはここから。

 勇気を出さないといけないのも、ここから。


 今日という日を、人生で最高の日にする。


 心の中でそう宣言して、光は零華と共に祭りの会場へと歩き始めた。

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